サンクコスト理論は正しいか(その2)

2010-07-29

●再びメールをもらった

サンクコスト理論は正しいかを読んだKさんから再びメールをいただきました。書かれていることが正しいか、逐次検証してみます。

2010.07.14
再びサンクコストについて

私の意見に対して、多くのスペースを割いて反論をいただき恐縮です。文責は事務局になっていることから、反論は「鹿沼のダム」のサイト関係者の総意と理解します。

「事務局」とは、筆者のペンネームと考えてください。したがって、他の会員の意思とは関係ありません。

●なぜダムについて基本的なスタンスを持たないのか

私は長野県浅川ダム問題を治水面から検討している紡績会社の元技術者です。本来河川工学には無縁の応用化学者ですが、仕事上品質管理、実験計画法、経済性工学に親しむ機会がありました。治水安全度に見合う適切な基本高水流量について、統計的な手法で検討したのをきっかけで、浅川程度の中小河川の流出解析までこなせるようになりました。

私は原理的ダム建設反対主義者ではありません。先ず国交省の「河川砂防技術基準」にしたがって、治水安全度に見合う適切な基本高水流量を計算し、流下能力との比較でダムの建設が必要か否かを決定することにしています。私の計算結果からは浅川ではダムは不要であり、八ツ場ダムは今のところ必要であるとの立場です。今のところと言う理由は、八ツ場ダムの洪水調節効果が期待されるが微妙な結果で、前提とする貯留関数法による流出解析の検討も必要であり、その結果によって結論が変わるかも知れないからです。

私も、ダムが絶対に建設してはいけないものだとは考えていません。どうしても必要なら造るべきです。

しかし、原則的にダムは建設すべきではないと考えます。なぜなら、ダムは、巨額の費用がかかるという欠点があることはもちろんですが、川を横断する構造物であり、生物や物質の循環を遮断するからです。ダムは、副作用の強い劇薬であり、最後の手段であるべきです。

「ダムとは何か」の前に「川とは何か」という認識が必要です。川とは水路ではなく、物質が循環する場です。ヒトで言えば、血管と同じです。血管が詰まっていいはずがありません。長良川の鵜飼いが典型的ですが、川は文化を育んでいます。ダムは、性物多様性を損ない、地域社会をも破壊します。

ダムによって川の流れを遮断すれば、どのような弊害が起きるかは説明するまでもないと思いますが、Kさんは、ダムのもたらす害悪については無頓着なように思います。生物多様性の意味を考えたこともないのでしょう。

エジプト文明は、ピラミッドは建造できましたが、ダムは造れませんでした。近代文明は、ナイルも揚子江もせき止めることができます。しかし、できることとやっていいこととは違います。

一般論で言えば、理系の頭の人は、「人間はどこまできるか」を研究してきたので、「やっていいこと」かどうかについて関心が薄いのではないでしょうか。物理学者は、「原爆は作れるが作ってはいけないから作らない」と言っていたらメシの食い上げになってしまいます。Kさんには、ダムのもたらす害悪についても関心を持ってほしいと思います。

ダムのもたらす弊害に関心があれば、机上で基本高水と費用対効果を計算しただけで、ダムを建設すべきだなどと軽々には言えないはずです。八ツ場ダムが必要だと言うなら、現地に行って、どんな生き物がすんでいるのかを見てきてください。Kさんには、総合的な視点が欠けていると思います。

Kさんは、長年ダムを研究していて、川とかダムについて、それらがどういうものであるかの基本的な認識を持っていないとすれば、その理由が知りたいものです。

●なぜ釈迦の掌から出ないのか

「先ず国交省の「河川砂防技術基準」にしたがって、治水安全度に見合う適切な基本高水流量を計算し、流下能力との比較でダムの建設が必要か否かを決定することにしています。」

Kさんの考え方は、まず国土交通省ありき、まず「河川砂防技術基準」ありき、なのです。だから、「ダムありき」の発想なのです。そうした発想からも浅川ダムは不要との結論が出るとすれば、浅川ダムはどうしようもなく無益なダム計画だったということです。

Kさんは、やはり「河川砂防技術基準」を金科玉条としています。なぜ「河川砂防技術基準」に従うのかと問われて、「することにしています。」という答しか持っていないということです。Kさんは、とにかく「河川砂防技術基準」からダム論を始めるのです。「河川砂防技術基準」が無条件に絶対的に正しいとする立場です。

私たちに「原理的ダム建設反対主義者」というレッテルをはるとすれば、Kさんには「河川砂防技術基準」原理主義者というレッテルをはらなければなりません。

Kさんは、釈迦(国土交通省の役人)の掌から出ようとしない孫悟空です。

「先ず国交省の「河川砂防技術基準」にしたがって、治水安全度に見合う適切な基本高水流量を計算し、流下能力との比較でダムの建設が必要か否かを決定することにしています。」が大前提であり、源流ですから、そもそも「河川砂防技術基準」が妥当なのかという視点を持たないわけです。

「そもそも論」を持たない人と「○○が正しいか」という議論をしても本来意味がありません。しかし、Kさんの意見を検証することは、別の意味があると考えますので、検証を続けます。

それにしても科学を学んだ人が「決定することにしています。」は、ひどいのではないでしょうか。科学とは、「なぜ」を追及し、真実を明らかにすることではないでしょうか。「河川砂防技術基準」がなぜ妥当なのかについて関心がない科学者がいるでしょうか。

●建設的でないのはどっちか

できるだけ順番を追ってお答えします。

1.先ず「八ツ場ダムの建設続行に賛成の民主党」なる表現は「八ツ場ダムの建設続行に賛成のみんなの党」の単純ミスにつき、お詫びをして訂正いたします。

2.「一番肝心な八ツ場ダムの利根川の治水安全度1/200に対して必要か否かの問題を無視している」の意味は、ダム建設反対派の人々は、利根川の治水安全度1/200における基本高水流量を求める方法について、深く検討してこなかったことを言いたかったのです。国交省の治水安全度1/200における基本高水流量22000m3/sが過大であることは明らかです。

しかしダム建設反対派の人々は、治水安全度1/200における基本高水流量を科学的・合理的に求める努力をしてきていません。国交省の「河川砂防技術基準」に基づいて、雨量から基本高水流量を求める方法について深く検討して、どのように改善したら治水安全度に見合う適切な基本高水流量が求められるか検討した例を知りません。計画の規模の雨量が大きすぎるとか、貯留関数法のパラメータが信頼できないとか、つまり基本高水流量が信頼できない理由を挙げることはしても、しからば治水安全度に見合う適切な基本高水流量をどのように決定したらよいかについて、建設的な提言をしていません。いつの間にか基本高水流量不信論や懐疑論、挙句の果てには無用論まで飛び出しているのが現状です。

「ダム建設反対派の人々は、治水安全度1/200における基本高水流量を科学的・合理的に求める努力をしてきていません。」と書かれますが、努力をしています。

利根川の基本高水流量は、既往最大洪水における流量が採用されています。利根川における既往最大洪水が1947年のカスリーン台風であることに争いはありません。

東京都知事らを被告とする八ツ場ダム訴訟で大熊孝証人は、カスリーン台風時の八斗島地点の推定流量は毎秒1万5000m3に過ぎなかったのであり、八斗島上流での氾濫量を考慮しても、洪水ピーク流量は1万6000m3程度にしかならないと証言しています(2008年11月19日原告最終準備書面(3)(治水上の不要性)p38)。

国土交通省が八斗島地点毎秒2万2000m3の流出計算を行ったという1980年計算モデルでは利根川の八斗島地点上流域は54の小流域に分割されています。その上流域には最近では100箇所以上の雨量観測所が存在しています。流域分割図から各小流域で各雨量観測所が支配する地域が割り振られ(ティーセン分割)、それから各小流域の時間降雨量が求められます。流域分割図がなければ、この作業を進めることができません。ところが、国土交通省は、住民側が流域分割図を情報公開請求しても、「業務上の支障が生ずる」として、流域分割図を開示しません。したがって、国民の側では、54小流域を前提とした貯留関数法に基づく流出計算を行うことや、国土交通省が行った流出計算の検証作業はできないのです。

Kさんは、この事実をご存知なのでしょうか。国土交通省は、自身の行った計算の検証を国民にさせないのですから、「基本高水流量不信論や懐疑論、挙句の果てには無用論まで飛び出して」きても当然ではないでしょうか。

ダム反対派に対して「建設的な提言をしていません」と批判する前に、計算の検証をさせない国土交通省に向けて「建設的」でないとの批判を投げかけるべきではないでしょうか。

八ツ場ダム訴訟を通じて、原告がカスリーン台風襲来時の八斗島での推定流量15000m3/s〜16000m3/sに上流の推定氾濫量1000m3/sを加えて16000m3/s〜17000m3/sを基本高水流量と推定したことは知っていますが、その流量を検証したとは聞いていません。

国がティーセン分割図を公開しないのですから、検証できないでしょう。

●金科玉条の意味を共通認識しよう

私は国交省の「河川砂防技術基準」による雨量から基本高水流量を求める方法を金科玉条にしてはいません。さりとて基準を大幅に改正する必要があるとも思っていません。少しの思い違いを訂正し、基準を正確に適用することで利根川の治水安全度1/200における適切な基本高水流量が求められ、私の試算では18300m3/s程度になります。

「先ず国交省の「河川砂防技術基準」にしたがって、治水安全度に見合う適切な基本高水流量を計算し、流下能力との比較でダムの建設が必要か否かを決定することにしています。」というスタンスの人を、普通は「河川砂防技術基準」を金科玉条にしていると形容しておかしくありません。

金科玉条とは、「一番大切なきまりや法律」(大辞林 第二版 (三省堂))を言います。Kさんが、「金科玉条にしてはいません。」と書かれるのは、言葉の意味を正確に理解されていないせいだと思います。

●雨は理想的な降り方をしてくれない

八斗島における流下能力は16500m3/s、既存6ダムの洪水調節容量を1000m3/sとすると、八ツ場ダムの洪水調節容量600m3/sは必要になります。

18300m3/s−16500m3/s=1800m3/sを上流ダム群で調節する必要があり、既存6ダムの洪水調節量が1000m3/sだとすると、八ツ場ダムの洪水調節量600m3/sを足しても1800m3/sにはならないが、1600m3/sになるので、八ツ場ダムを建設した方がいいという理屈です。(残る200m3/sはどこのダムで削減するのでしょうか。)

二つの前提を疑う必要があります。

利根川の基本高水18300m3/sが正しいという保証はありません。15000m3/s程度という「カスリーン台風時の洪水流量の判定は、安芸皎一教授、富永正義元内務省技官、そして、末永栄局長ら、その時代の代表的な学者や技官らの十分な根拠を示した見解とも一致する。」(前掲準備書面p11)のですから、18300m3/sは、大きすぎると考えた方がよいと思います。

「八ツ場ダムの洪水調節量600m3/s」の意味は、吾妻川上流に雨が降るという理想的な降雨パターンのときに計算上それだけのピーク流量削減効果があるということです。何度も書いてすみませんが、カスリーン台風の時の降雨パターンでは、八ツ場ダムに効果がないということは国土交通省が認めています。Kさんの論旨は、自然は、人間に都合よく雨を降らせてくれないことを見忘れた、机上の議論だと思います。

●八ツ場ダムは治水効果が極めて乏しい

少し長くなりますが、前掲原告最終準備書面p13から引用します。

1 利根川治水計画の基本となっているのは、昭和22年のカスリーン台風であり、その再来に備えるために計画が策定されている。ところが、国土交通省の計算によれば、カスリーン台風が再来した場合の八斗島地点に対する八ツ場ダムの治水効果はゼロとなっている。他の大洪水においても、八ツ場ダムは治水効果が非常に小さく、カスリーン台風だけの特異現象ではない。
(中略)

3 そして、国交省が八ツ場ダムに流量・水位等の低減効果があるとしている29洪水のうち、その計算時(平成16年以前)の建設省河川砂防技術のルールの基準に従い洪水の引き伸ばし率2倍以下の洪水を拾うと、その洪水は12であるが、そのうち計画高水流量を超える洪水で一定の調節効果が認められるのは、1959年9月洪水だけである。その際の洪水の調節量は1369m3と算出されているが、それ以外の洪水では、調節量はゼロか、計画高水流量の1%以内のものである。このように200年に1回の割合で起こるとされている各洪水のうち、八ツ場ダムが八斗島地点で流量・水位低減で効果を持つとされるのは、1/12なのであるから、極めてレアケースなのである。

4 さらに、過去57年で最大の1998年9月洪水で検証してみても、八ツ場ダムの治水効果は最大で13cm程度のものであって、利根川の治水対策として意味のあるものにはならない。利根川の八斗島地点での流量と水位の低減を目的としたダムとしては全く不要なのである。

以上のところから、本件は八ツ場ダムは、どのような観点から見ても不要なのである。

八ツ場ダム訴訟の原告団は、八ツ場ダムが治水上不要であることを、このように論証しています。

これに対してKさんは、「八ツ場ダムの洪水調節効果600m3/sを信頼しています。」という結論しか書かないのですから、科学的な議論にはなりません。Kさんの議論は、信仰の世界の議論です。

●総合確率法に科学的根拠なし

以上の結論は総合確率法での治水安全度1/200(実は1/400)が21200m3/sであることは認め、流下能力、既存6ダム、八ツ場ダムの洪水調節効果は国交省の計算結果を認めています。

「八ツ場ダムの洪水調節効果は国交省の計算結果を認めています。」という前提がおかしいことは前記のとおりです。国土交通省は、カスリーン台風再来時には効果がないことを認めています。

また、国土交通省の総合確率法による計算結果を認めていることも問題です。

「総合確率法は関東地方の一部の河川で昭和40〜50年代の一時期だけ使われた特殊な手法である。もし合理的な手法であるならば、全国各地の河川で使われ、その後も関東地方で継続して使われるであろうが、地域的にも時間的にも限定して使われただけで終っており、このことはこの手法が合理的なものでないことを示唆している。実際に関東地方整備局の河川計画課に総合確率法の計算方法の詳細を問い合わせても、明確な回答が得られず、今では完全に過去の手法になってしまっている。」(前掲準備書面p56)のです。

「このように総合確率法は特殊な方法であって、科学的な根拠が不明なものである。たとえば、確率そのものの平均値をとるという確率統計学では考えられない計算過程が入っており、それだけ見ても、総合確率法の科学性は疑わしい。」(同)のです。

「総合確率法では、「任意の流域平均3日雨量を31洪水に当てはめて、貯留関数法により、流出計算を行い、洪水ピークを求め」ているが、この貯留関数法にはカスリーン台風再来計算とまったく同じ洪水計算モデルが使われている。(中略)カスリーン台風再来計算に使われた洪水計算も出るが利根川の洪水流出の実態から遊離した非科学的なものであることは、第2の3で明らかにしたとおりである。とすれば、総合確率法で使われた洪水計算モデルも非科学的なものであるから、そのモデルにより、任意の流域平均3日雨量を31洪水に当てはめて求めた洪水ピーク流量の計算値はすべて、利根川の洪水流出の実態から遊離した机上のものに過ぎないことは明らかである。」(前掲準備書面p58)のです。

●国交省のデータや計算結果は信頼できない

既に指摘されているように、貯留関数法による流出解析で54流域において一律に一次流出率が0.5、飽和雨量48mmを見直す結果によっては、結論は少し変わるでしょう。現状で利用できるデータや計算結果を信頼して解釈を加えた結論ですが、国交省のデータや計算結果は信頼できないとしたら話は別になります。しかし国交省の土俵に上での結論だとしても、根拠のない数値を信頼せよと言うよりはましでしょう。少なくとも国交省との対話は可能なはずです。

後半は意味がよく分かりません。何が何よりましなのでしょうか。

「国交省との対話は可能なはずです。」という意味は、国交省の土俵に乗りますから、対話をしてくださいと国交省にお願いするのですか。主権者は国民なのですから、そんなに卑屈にならなくてもよいと思います。

「国交省のデータや計算結果は信頼できないとしたら話は別になります。」と書かれますが、Kさんは、国交省データや計算結果を信頼しているからおかしいのです。

「関東地方整備局は利根川水系河川鮪基本方針計算資料の情報公開請求でも、(中略)その開示資料の中で流域分割図や河道分割図関係をすべて黒塗りにし、分割図の開示を頑なに拒否している」(前掲準備書面p53)のです。国交省のデータや計算結果を信頼できるわけがありません。再検証できてこそ科学でしょう。国交省の役人のやっていることは、科学ではないのです。

●基本高水が正確なら費用対効果が正確に計算できるものでもない

費用対効果の計算では、治水安全度に見合うピーク流量を正確に把握しないと便益が計算できません。根拠のない議論になるとの表現は、治水安全度に見合う基本高水流量を正確に計算しないと正しい費用対効果が計算できないことを言っています。

それはそうですね。しかし、基本高水流量さえ正確に計算できれば、費用対効果が正しく計算できるとでもいうような言い方は疑問です。Kさんは、国の費用対効果の計算方法にどのような問題があるかをどこで指摘しているのでしょうか。

ここでもKさんは、基本高水しか頭にないのです。基本高水さえ適正に計算できたら、正しい結論が導けるというものではありませんよね。

●八ツ場ダムは多目的ダム

私は利水問題には疎いので、とりあえず治水ダムとして八ツ場ダムが必要か否かを論じています。利水の問題を離れても治水ダムとして八ツ場ダムが必要か否かは議論することは可能です。

八ツ場ダムは発電まで担う多目的ダムなのですから、総合的に考えてください。

治水効果に限って八ツ場ダムを議論しても、カスリーン台風再来時には治水効果がないのだし、ダムに河川整備予算を使うために、河道整備予算が削られてしまい、必要な堤防強化もできないという現実を考えたら、八ツ場ダムを建設すべきという結論にはならないでしょう。 ●サンクコストは「ダムありき」でしょう

3.具体的に八ツ場ダムについて建設続行か中止か検討する場合に、サンクコストの概念を取り入れたら、ダムとダム以外の代替案との費用対効果の計算より、ダム建設中止の結論に至らないのは明白です。特に付帯工事が先行し、その投資をサンクコストとしたら、本体の追加工事の費用対効果がゼロから開始するダム以外の代替案の費用対効果より優位に立つことは明らかです。ダム中止の場合は、中止に伴う費用の発生も生じます。

私もそう思います。ということは、サンクコスト理論はダム推進論に下駄を履かせる理論であり、ダムありきの立場の者が支持する説ということになりませんか。

したがってダムの中止を希望するなら、原点に戻ってダムの建設が必要か否かを議論することになり、ダムの建設は不要であるとの結論を出さざるを得ないのです。原点に戻ってもダムの建設が必要であるとの結論がでたら、「できるだけダムに頼らない治水」の基準にしたがって再検証しても、ダムの建設を否定することはできないことは既に述べています。

Kさんは、「原点に戻ってダムの建設が必要か否かを議論する」場と、原点に戻らないで議論する場の2段階でダム建設の是非を判断するという考えのようですが、理解できません。

●「病は気から」が科学か

サンクコストは普通の企業会計にはなじみの少ない概念ですが、別名損得計算と言われます。ある事業を継続するか中止するかの意思決定をする場合に採用される手法です。本来事業の開始時に事業の必要性(ダム建設の必要性・費用対効果の計算も含む)を十分に検討することは言うまでもありません。

過去において過大な基本高水流量を決定し、しかも小さく生んで大きく育てると言われるように、追加投資をサンクコストの観点から容認してきたことは反省されるべきであると私も思います。しかし国土省は「公共事業評価の費用便益分析に関する技術指針」でサンクコストの概念を採用しています。

「できるだけダムに頼らない治水」の基準でサンクコストの概念を適用しないとするのは技術指針に特例を設けることになり、実施するとしたら前原大臣の政治的判断によることになるのでしょう。すなわちダム建設の見直しにおいては理念的・政治的にサンクコストの概念を採用しないと決定することが考えられます。

なおサンクコストについては、たとえば「経済性工学の基礎」千住鎮雄/伏見多美雄 日本能率協会の41頁を参考にして下さい。

「過去において過大な基本高水流量を決定し、しかも小さく生んで大きく育てると言われるように、追加投資をサンクコストの観点から容認してきたことは反省されるべきであると私も思います。」と書かれるのならば、「公共事業評価の費用便益分析に関する技術指針」やサンクコストの概念を否定されるのが筋ではないでしょうか。

Kさんは、サンクコストを用いる技術指針はおかしいという提言を国交省にされたのでしょうか。するわけないですよね、前回のメールで「有識者会議のたたき台でも、建設継続か中止かについてサンクコストの考えが入っているが、その考えは根本的に間違ってはいない。」と書いていたのですから。その一方で、「追加投資をサンクコストの観点から容認してきたことは反省されるべきであると私も思います。」と書きます。

Kさんの論旨は一貫していないと思います。どちらがKさんの意図するところなのか分かりません。

「公共事業評価の費用便益分析に関する技術指針」なんて国交省の役人と御用学者が勝手に自分たちに都合よくつくったのですから、あがめ奉るようなものではないでしょう。ここでもKさんは、「公共事業評価の費用便益分析に関する技術指針」を金科玉条としています。

「ダム建設の見直しにおいては理念的・政治的にサンクコストの概念を採用しないと決定することが考えられます。」と書かれますが、先ごろ出された有識者会議の中間とりまとめ報告のキモは、事業者自らが検証の主体となること、並びに「コスト最重視」及び「残事業費を基本としてコスト計算をする」であるととらえることに異論はないと思います。これらを前原大臣が否定したら、自らが有識者会議という名の無識者会議を設置して、これまで議論させてきた意味がなくなります。答申を無視する大臣がいると思いますか。

それはともかく、Kさんの「理念的・政治的にサンクコストの概念を採用しない」という表現には、「本来科学的にはサンクコストの概念を用いることが正しい」という前提がありますよね。前原誠司国土交通大臣が政治の力で科学を曲げるかもしれないと言いたいのですよね。

しかし私には、へ理屈をこねて科学を曲げているのはサンクコスト概念の方ではないかと思えます。どんなに多額の税金を投入していたとしても、「それはコストではない」と言われたらコストではなくなるというのがサンクコストという魔法の言葉だと思います。損失を損失と思ってはいけない、病を病と思ってはいけない、病は気から、痛いの飛んでいけ、前向きな気持ちを持て、みたいな話でしょう。それが科学とは思えません。

●言われなくてもやってます

したがってダムの建設を中止するためには、原点に戻って治水安全度1/200における適切な基本高水を決定し、流下能力、既存6ダムの洪水調節効果を考慮しては八ツ場ダムの洪水調節効果が必要か計算する必要があるのです。

これについては、「●雨は理想的な降り方をしてくれない」に書いたとおりです。

「八ツ場ダムの建設が必要であるとの立場」の人がどうして中止の判断をすることがあるでしょうかと反論していますがその通りです。「できるだけダムに頼らない治水」の基準による見直しでは、本来ダム建設は必要であるとしたらダム中止の結論にはならないので、ダム建設を中止するためにはどうしても治水安全度1/200における適切な基本高水流量を決定し、本来八ツ場ダムは不要であることを検証する以外の手段はないことをご理解下さい。本来ダム建設が不要であれば基準で二つの式を検討する必要もないでしょう。ここでは「八ツ場ダムの建設が不要であるとの立場」からの考え方に配慮することがより重要なはずです。

「ダム建設を中止するためにはどうしても治水安全度1/200における適切な基本高水流量を決定し、本来八ツ場ダムは不要であることを検証する以外の手段はないことをご理解下さい。」

言われなくてもやっています。各都県の八ツ場ダム訴訟では、原告は基本高水不要論に立っていません。八ツ場ダム訴訟の訴訟資料でご確認ください。

●流量確率法を採用するのが筋

4.私は国交省の「河川砂防技術基準」を金科玉条のごとくに見ていません。しかし雨量から基本高水流量を算出するには手順が必要です。基準については少しの思い違いを訂正し、正確に基準を適用したら治水安全度に見合う適切な基本高水流量は決定できると考えています。その考え方の要点は以下の通りです。

Kさんは、どうして雨量確率法を尊重するのでしょうか。答は「河川砂防技術基準」を金科玉条としているからなのですが、雨量から流量を求めたら様々なパラメータが必要になり、計算者の意図が入り込む余地が大きくなります。流量確率法の方が客観性を持つのですから、雨量確率法よりも優れていることは明らかではありませんか。

国交省は、なぜ雨量から計算を始めるのか。様々な場面でパラメータを都合よく設定し、結論の数字を操作したいからだと思いませんか。

●流量確率からの検証は国交省もやっていることになっている

(1) 引き伸ばし率2.0倍程度の制限を撤廃し、できるだけ多くの対象降雨を選定する。

(2) 時間的・地域的に発生し難い対象降雨は廃棄しない。

(3) 得られたピーク流量群の最大値を基本高水流量とはせずに、「改訂新版 建設省河川砂防技術基準(案)調査編」の64頁に記載された確率年の計算式を適用して、治水安全度の見合う基本高水流量を決定する。

(4) 流量確率から一義的に治水安全度に見合うピーク流量を決定し検証する。実測流量が不足ならば、年最大雨量からの再現流量を利用すべきである。

なおこの考えからについては国交省のしかるべき担当部署に意見具申しています。今回改めて前原大臣にも意見具申をする予定です。

「(1) 引き伸ばし率2.0倍程度の制限を撤廃し、できるだけ多くの対象降雨を選定する。」は、国交省もためらう禁じ手ですね。理由が書いてないから、この考え方が妥当なのか分かりませんが。

国交省がなぜ引き伸ばし率を2.0倍以下に制限しているかというと、それをやったら、現実から遊離した降雨パターンになってしまうからですよね。そんな降雨パターンを使ってまともな基本高水が算出できるとは思えません。

「(4) 流量確率から一義的に治水安全度に見合うピーク流量を決定し検証する。」のどこがオリジナルなのでしょう。「国土交通省河川砂防技術基準同解説計画編」のp34に流量確率からの検証が書かれており、国交省も流量確率からの検証をやっていることになっています。ただその流量データが実測でないものが多く、信頼性に欠けるのです。

サンクコスト理論は正しいか(その3)に続く

(文責:事務局)
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