破堤区間の堤防整備のための用地取得は2009年に完了していた(鬼怒川大水害)

2021-08-15

●三坂町地先の堤防の整備の経緯

鬼怒川大水害訴訟において、原告側は、三坂町地区の破堤については、左岸21.00k付近の堤防を嵩上げしておかなかったことが瑕疵であると主張していました(訴状p27)。(破堤区間(L21.00kの下流137mから上流63mまでの約200mというのが公式見解。ただし、そのうち約30mは堤防の機能を失っていなかった。)の堤防については、「決壊前の左岸 21.0k 周辺の堤防は、昭和前期に築堤された記録がある」(鬼怒川堤防調査委員会報告書p2−14)というのが公式見解ですが、1884年の鬼怒川付近の状況を示す迅速測図にもL21.00k付近の堤防が描かれており、堤防は遅くとも1884年からあったと推測します。なので、上記「築堤」の意味は、嵩上げの意味だと思われます。)

では、被告は、1926年に鬼怒川が直轄施行区域に指定されてから2015年9月まで、「昭和前期」の「築堤」以外に、L21.00k付近の堤防については何もしなかったのでしょうか。

鬼怒川21.00kの横断図の推移(開示資料)、鬼怒川堤防調査委員会報告書、被告準備書面(1)p48及び被告準備書面(5)p11〜12によれば、鬼怒川の改修の経緯は次のようです。

1928年 鎌庭捷水路工事着手
1929年  鬼怒川の中下流区間の堤防整備に着手。
1935年 鎌庭捷水路工事完成。
1935年から1944年まで(「昭和前期」とは、乙72の1及び乙72の2から「昭和10年〜19年」と推測される。)  「左岸 21.0k 周辺の堤防」が「築堤」された。
1966〜1969年  L21.00kで0.39mの堤防嵩上げ。
1973年  治水基準地点(宇都宮市)石井での計画高水流量を改定。
1973年から 護岸等の整備を本格的に実施。
1974年頃まで  「中下流部の主要な区間における流下能力の確保については一定のめどがついた。」
1981年から2000年まで  下流区間で床止め4基を整備。
2001年以降  更なる河道整備として下流区間の堤防嵩上げ及び拡幅を実施。

つまり、1974年頃から2000年までは、堤防整備をまるで実施していないのです。中断していたのです。

その理由は、「昭和40年代(1965〜1974年)までに、中下流部の主要な区間における流下能力の確保については一定のめどがついた。」ということですが、「一定のめど」とは、1973年に改定する前の計画高水流量を前提とした流下能力が概ね確保されたにすぎません。

なぜなら、1973年の鬼怒川の計画高水流量の改定によって、政令で定める完成堤防の規格が大きくなったことにより、下流部(茨城県区間)の(完成)堤防整備率は、下表のとおり、約42%から約9%へと、極度に低下した(根拠は、2018年5月17日の衆議院 決算行政監視委員会会議録)からです。

計画高水流量の改定後、下流部の完成堤防の整備率が約9%のまま、4半世紀にわたり堤防整備を中断したのは怠慢と言うほかないと思います。「堤防の安全を確保する必要があったため」(被告準備書面(1)p48)護岸等の整備を実施したと言いますが、堤防の整備が優先されるべきです。

また、下流部については、「広い河原と霞堤による遊水機能の確保を図」(被告準備書面(5)p11)ることは地形上不可能なので、連続堤防と山付き堤で守るしか方法がないのですから、「一定のめど」の達成で安閑とすることなく、計画高水位以下の箇所をなくすようにするのはもちろんのこと、現況余裕高が計画余裕高の半分以下の箇所がないように整備すべきでした。(計画堤防余裕高に対して現況堤防余裕高が1/5以下か、1/2以下か、という基準は、1986〜1994年の重要水防箇所の評定基準になっていたこともあり、「現況余裕高が計画余裕高の半分以下」かどうかで大まかな安全度を判定することは、特異な発想ではありません。)

堤防整備率表
(根拠) https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=119004601X00420160224¤t=1
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=119604127X00220180517
http://www.city.joso.ibaraki.dbsr.jp/index.php/1597478?Template=doc-one-frame&VoiceType=onehit&VoiceID=22955
2016年9月9日付け衆議院議員ヒアリング回答(甲1の2。ただし、提出した部分は若宮戸関係のみ)
※ 栃木県区間の整備率が計画高水流量改定にもかかわらず微増したのは、流量改定と同時に計画高水位を見直し、栃木県区間については0.8m引き下げたからです(被告準備書面(1)p33)。

今回記事は、2000年までに下流部の堤防整備率を上げるべきだったという点はさておき、2001年以降のL21.00k付近の堤防について、いつまでに改修できたのか、という問題です。

●被告の主張は支離滅裂だ

鬼怒川大水害訴訟で常総市三坂町地先の破堤区間に係る用地取得に関する被告の主張は、次の二つです。両立しませんから、支離滅裂です。

(1)2014年には用地調査に着手した。(つまり、2014年までに用地取得していない。)
(2)2011年までに用地取得した。

まず、(1)の説から紹介します。

原告側は、「国土交通大臣が上三坂地区の堤防を整備しなかったことは、鬼怒川の河川管理の瑕疵である。」(訴状p27)と主張しました。(「上三坂地区」の範囲は定義されていませんが。)

これに対し被告は、次のとおり、破堤区間は2014年には用地調査に着手した、と繰り返し主張します。

【被告準備書面(1)】

被告は、準備書面(1)p57で次のように主張します。

特に、本件では、計画堤防高に満たない高さであったが、当該地先(引用者注:明確に定義されていませんが、破堤区間を含む上三坂地区の地先を指すと推測されます。以下同様。)より下流において流下能力の不足する区間があることから、上下流のバランスなどを総合的に勘案して整備を行ってきているものであり、当該地先の堤防についても、平成26年には用地調査に着手し、整備に向けて進めていたところであって、改修の手順は妥当なものであった。


【被告準備書面(4)】

被告は、準備書面(4)p16〜17で次のように主張します。

被告準備書面(1)第2の2(4)(57及び58ページ)で述べたとおり、当該地先(引用者注:明確に定義されていませんが、破堤区間を含む上三坂地区の地先を指すと推測されます。以下同様。)の堤防のみが沈下していたわけではなく、広い範囲に沈下が確認されている状況であった。取り分け、当該地先より下流において、流下能力の不足する区間があることから、上下流のバランスなどを総合的に勘案して整備を行っており、当該地先の堤防についても、平成26年には用地調査に着手し、整備に向けて進めていたところであった。こうした河川の改修の手順は妥当なものであり、何ら河川管理の瑕疵と評価されるようなものではない。 原告らの主張では、鬼怒川の直轄区間のうち、なぜ上三坂地区について、他の区間に優先して堤防を整備すべきなのかについて、全く明らかになっておらず、主張として失当である。


【被告準備書面(5)】

被告は、準備書面(5)p22で次のように主張します。

被告は、上記のような沈下の状況や治水安全度に関する観点を踏まえ、上三坂地区より下流において流下能力の不足する区間があることから、上下流のバランスなどを総合的に勘案して整備を行ってきているものであり、上三坂地区の堤防についても、平成26年には用地調査に着手し、整備に向けて進めていたところであって、改修の手順は妥当なものであった(被告準備書面(1)・57及び58ページ)。

被告が破堤区間の整備をどこまで進めていたのかは重要問題のはずですが、不可解なことに、被告は、「上三坂地区の堤防についても、平成26年には用地調査に着手し」ていた、と繰り返し主張するだけで、その証拠を提出していませんし(むしろ、2009年までに用地取得したとする証拠を提出しています。)、原告側も、証拠を出せとも言いません。 原告側は、被告がウソをついても無視する方針なのかもしれませんが、それでは裁判所が事件の本質を理解できないと思います。

次に(2)の説を紹介します。

上記のとおり、被告は、被告準備書面(5)p15に、次のように書いています。

続いて、被告は、平成23年までに(中略)を中心として用地買収を進めるとともに(右岸14.25〜17.75km、左岸10〜12.25kmの一部、同18.75〜21.25km)

破堤区間は、「同(左岸のこと)18.75〜21.25km」に含まれるので、被告は、破堤区間を含む区間の用地買収を2011年までに行ったと言っていることになります。ただし、「18.75」は誤記だと思います。鬼怒川堤防整備状況概要図1(乙72の2)の記載及び「中三坂地先測量及び築堤設計業務」(2005年度)の対象区間(左岸18.50k〜21.25k)と食い違うからです。

しかし、被告が「平成23年までに」という言い方をしたのには理由があります。

後記のように、「左岸18.75k(正しくは18.50k)〜21.25k」については、2009年までに用地取得していたのですが、「右岸14.25k〜17.75k」及び「左岸10.00k〜12.25k」については、2011年までに用地取得したので、3区間をひっくるめて最も遅い時期に合わせて「2011年までに」と言ったのです。 したがって、(2)は、被告準備書面(5)p15の文脈から、実質的には、「左岸18.75k(正しくは18.50k)〜21.25k」に含まれる破堤区間については、2009年までに用地取得した、という主張なのですから、破堤区間だけを取り出して議論するなら、破堤区間の整備に必要な土地の取得は2009年までに完了していた、と言うのが普通だと思います。

●三坂町地区は2009年に用地取得済みだった

したがって、被告は、破堤区間については、(1)2014年に用地調査に着手した、という説と(2)2009年までに用地取得した、という、矛盾する2説を同時に唱えるという支離滅裂ぶりですが、そのどちらが正しいかと言えば、(2)の説です。

根拠は、次の二つの資料です。
【三坂町地区用地取得範囲図(平成18年度〜平成21年度)】

下図のとおり、「三坂町地区用地取得範囲図(平成18年度〜平成21年度)」というタイトルの文書があります。国土交通省が梅村さえこ・前衆議院議員に提出した文書です。訴訟では、どちらの当事者も証拠として提出していません。

三坂町地区用地取得範囲図
三坂町地区用地取得範囲図(国土交通省から国会議員ヒアリングへの2017年4月14日付け回答。左岸21kの位置は、引用者が追記)

上図(三坂町地区用地取得範囲図)を見ると、国土交通省は、破堤区間を含む、おおよそ鬼怒川左岸20.70k〜21.15k(約450m)の区間の高水敷にある民有地を2007年から2009年まで(契約日は2007年1月29日〜2009年11月30日)の3年間(4か年度)で取得していたことが分かります。

上記回答では、三坂地区の破堤地点付近における用地の取得時期と取得範囲を明らかせよ、との質問に対して、「平成18年度から平成21年度にかけ添付資料10の範囲を用地取得しています。」と明言しているのですから、これが事実であると考えるべきでしょう。

被告は現に、上三坂地区について2014年に用地調査に入った、というウソをついていると考えるとすれば、三坂町地区用地取得範囲図の記載が事実かを疑う余地はあると思います。実際は、2008年中に用地取得を完了していたのかもしれませんが、国土交通省が1年ごまかして回答した可能性もあります。原資料(土地売買契約書)を見せないで、回答しているのですから。

本当のことは、情報公開請求をして、1筆ごとの売買契約書を見ないと分からないのですが、ここでは、用地取得に3年(4か年度)かかったという話を信じて、話を進めます。

【鬼怒川堤防整備概要図(乙72の3)】

被告は、被告準備書面(5)p12で鬼怒川堤防整備概要図2(乙72の3)という証拠を示しています。下図のとおりです。(証拠には「2」は付いていませんが。)

2001年以降と2012年意向に分けて、箇所ごとの用地買収年度と整備年度を表したものです。(2001年以降の治水安全度と2012年以降のそれとを比べると、4k〜7kでは、両岸とも整備もしないのに治水安全度が上がっている(赤→青、青→灰)かと思えば、2003年に整備したのに安全度が変わらない(青のまま。右岸6.25k付近)箇所があります。三坂町では左岸20k付近でも整備しないのに、赤から青に変わっているし、若宮戸でも、左岸25k付近で整備もしないのに、青が灰に変わっており、治水安全度が上がっています。原因として考えられるのは、約10年間で河床の変動により河積が変動したことです。どうにも怪しげですが、そのことはさておきます。)

鬼怒川堤防整備概要図

上図(鬼怒川堤防整備概要図)からは、左岸18.50k〜21.25kの区間は、(平成)19年から21年まで、つまり、2007年から2009年までの期間に用地取得が完了していることが分かります。

鬼怒川堤防整備概要図2(乙72の3)のうち破堤区間付近は、三坂町地区用地取得範囲図(平成18年度〜平成21年度)と符合します。

これに対して、(1)の説の根拠はどこにも示されていません。 よって、(2)の説が正しいと思われます。

被告が2006年度末期から用地買収を始めたことは、2006年3月に中三坂地先測量及び築堤設計業務報告書(共和技術株式会社。タイトルは「中三坂」だが、実際は「上三坂」を含んでいる。)を徴したことを受けてのことと思われ、自然な流れです。

L21.00k付近の堤防が特に低かったことは2000年以前から分かっていたことであり、かつ、関東東北豪雨並みの豪雨が発生する可能性はいつでもあったのですから、そもそも、もっと早く(遅くとも2000年までに)整備すべきでしたが、そのことをさておけば、被告の2005年から2009年までの対応は、普通の働きぶりだったと思います。(問題は、その後5年間、なぜ破堤区間に係る堤防整備を「塩漬け」や「棚上げ」にしたのか、ということであり、それを教えてもらわなければ、被害者としては、死んでも死に切れないという心境でしょう。)

以上、二つの根拠により、破堤区間に係る用地取得は、2009年11月には完了していたのが事実と考えるべきです。

したがって、上三坂地区について2014年に用地調査に着手したという被告の説明は全くの虚偽です。

●被告が虚偽事実を主張するねらいとは

被告が、例えば、被告準備書面(5)p22で「上三坂地区の堤防についても、平成26年には用地調査に着手し」と主張する理由は、想像がつきます。

「時間的不可抗力」を認めてもらおうという趣旨だと思います。(「時間的不可抗力」は使用者が少ないのか法律学用語として確立していないようですが、一般財団法人 北海道道路管理技術センターの判例紹介のページを読んでいただくと、趣旨を理解していただけると思います。)

被告が言いたいことは、「上三坂地区の堤防について」は、「平成26年には用地調査に着手し」たばかりであるから、翌年の2015年9月(被災時)までに嵩上げ工事が完了するはずがないのはもちろん、通常は1年で用地買収さえ完了するはずもないので、被告に対して、被災時までの嵩上げ工事の完了を求めることは不可能を強いるものである、国家賠償法は施設管理者に不可能を強いることを前提としていないはずだ、ということでしょう。

しかし、そうであるなら、「上三坂地区の堤防について」2014年に用地調査に着手したという証拠を出すべきですし、2009年までに用地取得を完了したとする「三坂町地区用地取得範囲図」が虚偽であったことになり、虚偽を国会議員に回答したことになります。

●被告のねらいは破綻している

そもそも、それ以前に被告の上記のねらいは破綻しています。

設計図がなければ、用地の範囲が確定しないので、用地調査は、測量及び築堤設計が完了してから実施するものです。

2005年度には、中三坂地先測量及び築堤設計業務報告書(2006年3月、共和技術株式会社)が作成されており、被告は答弁書の段階で乙17として提出しています。

当該報告書には、上記業務の目的について、「本業務は、茨城県常総市中三坂地先(鬼怒川左岸18.5K~21.25K)における築堤詳細設計及び設計に必要な測量を行うものである。」(p1−1)と書かれています。

すなわち、鬼怒川左岸18.50k〜21.25k(延長2.75kmだが、実際の延長は約2.5km)の一連の区間については、2005年度に、「築堤詳細設計及び設計に必要な測量」を完了していたのです。

上記業務のタイトルには「中三坂」としか書かれていないので紛らわしいのですが、実際には、工事の対象区間には、上三坂地区も含まれています。

なぜなら、上記業務における中三坂地先の堤防の区間は、おおよそ19.25k〜20.50kであり、上三坂地先の堤防の区間は、おおよそ20.50k〜21.18kと見るべきであり(根拠は、次の●で説明します。)、いずれも上記業務の対象区間に含まれるからです。

言い換えれば、上記業務の対象区間(左岸18.50k〜21.25k)は、常総市三坂町山戸内地先から同市新石下地先までの区間なので、三坂町中三坂と同町上三坂は、当該区間に含まれます。

したがって、被告の「上三坂地区の堤防についても、平成26年には用地調査に着手し」(被告準備書面(5)p22)という主張は、「上三坂地区の堤防について」、築堤設計及び測量は2005年度に完了していたにもかかわらず、用地調査に着手したのは2014年だ、と言っていることになり、したがって、築堤設計してから8年後に用地調査に着手したことになり、おそらくは「河川管理の一般水準」から逸脱しています。

このことからも、「上三坂地区の堤防についても、平成26年には用地調査に着手し」(被告準備書面(5)p22)たという被告の主張は破綻しており、事実に反すると断ぜざるを得ません。

●上三坂地先の堤防と中三坂地先の堤防を定義してみた

常総市三坂町上三坂地区とは下図のとおりです。根拠は、国立情報学研究所のサイトです。(ただし、北側の大房の区域が間違っていますので、注意が必要です。)

上三坂
上総市三坂町上三坂
https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/08/08211025001.html

中三坂地区の範囲は下図のとおりです。

中三坂
上総市三坂町中三坂
https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/08/08211025002.html

それらと鬼怒川管理基平面図を並べてみます。

鬼怒川管理基平面図は、naturalright.orgのサイトからダウンロードできます。

上三坂堤防6 上三坂地先堤防

中三坂堤防
中三坂地先堤防

以上により、もちろん概ねですが、
三坂町中三坂地先堤防  19.25k〜20.50k(延長1.25km)
三坂町上三坂地先堤防  20.50k〜21.18k(延長0.68km)

と定義できると思います。

目印が乏しいのですが、強いて言えば、上三坂地先の堤防とは、下流端は株式会社石川製作所の南約80mの東西の道路が中三坂地区との境界であり、上流端は日本ファブテック株式会社石下工場(新石下18番地)の南側が新石下との境界になると思います。

ちなみに、「三坂町地先の堤防」と表現した場合の範囲を検討すると、鬼怒川左岸沿いには、三坂町中三坂の下流の小字は山戸内、白畠、五家と続き、五家までが三坂町なので(その下流は中妻町)、「三坂町地先堤防」の範囲は、五家から上三坂までのおおよそ17.12k〜21.18kになると思われ、そうだとすると、延長は約4kmにもなります。

ちなみに、三坂町上三坂の上流は、常総市新石下で、その範囲は下図のとおりなので、そこに含まれる鬼怒川左岸堤防は、21.18k〜23.0kとなると思います。

新石下
Yahoo!地図から

●2014年度に用地調査に着手したのは新石下地区だった

被告が2014年度に用地調査に着手したのは、上三坂地区ではなく、新石下地区(上三坂地区の直上流)でした。2015年度にも新石下地区で用地買収を実施しています。

その根拠は、naturalright.orgのサイトの下記のページに書かれています。
https://www.naturalright.org/kinugawa2015/予備的考察1-水害直後/堤防自体は全域にわたり同レベルにできていた-1/

被告は、上三坂の堤防用地の取得は2009年までに完了しているのに、2010年度以降も着工せず、2014年度になると、その上流の新石下地区の用地調査に着手したのですから、常総市民なら誰でもその理由を知りたいはずです。

詳しくは、次回記事で紹介します。

●用地取得したらすぐに着工するのが方針だった

被告は、2009年までに破堤区間に係る用地取得を完了したのですから、すぐに、つまり、2010年度には着工すべきでした。

なぜなら、2006年には、L21.00kの堤防の舗装面は20.84m(計画高水位より1cm上回るだけ。)だった(中三坂地先測量及び築堤設計業務報告書(2006年3月、共和技術株式会社)。詳細は、過去記事「決壊地点の堤防の舗装面の高さは計画高水位以下だった(鬼怒川大水害)」参照)のであり、2008年には計画高水位以下となることが確実視できたのであり、2006年時点で判断してさえも、危険性と緊急性が極めて高かったからです。

そして、被告の整備方針も次のとおりだったからです。
【被告準備書面(5)】

被告準備書面(5)p10では、鬼怒川の整備方針について次のように主張しています。

エ 上記のような河川管理の諸制約から、鬼怒川の改修工事に当たっても、広範囲の堤防整備等を同時的に、あるいは画一的に進めることは事実上不可能であり、限られた予算の範囲内で、下流原則に従いながらも、過去の洪水の経験、既往洪水規模、氾濫域の状況等を踏まえ、必要に応じて用地買収も進めつつ、整備が急がれる箇所又は区間から順次これを進めていく必要があったものである。

この趣旨は、「整備が急がれる箇所又は区間」については、用地買収が済んだら直ちに着工するということになると思います。

ちなみに、被告は、「氾濫域の状況等を踏まえ」と言いながら、同書面のp23では、「ある地点が破堤した場合における氾濫域の広狭といった要素も、これらの考慮要素の一つである。したがって、破堤した場合に氾濫域が最大となることから直ちに上三坂地区の堤防整備が優先されるべきという原告らの上記主張は、このような河川管理の諸制約や考慮事項の一つであるという位置づけを踏まえないものであり、理由がない。」と述べているので、「氾濫域の状況等を踏まえ」ることと「破堤した場合に氾濫域が最大となること」を考慮することは違うと言っており、支離滅裂です。

【被告準備書面(6)】

被告準備書面(6)のp23には、2001〜2011年における左岸の堤防整備について「順次用地買収が完了した箇所を含む区間において改修工事を実施した。」と書かれています。

用地買収が完了したら順次実施する方針だったということです。

実際、鬼怒川堤防整備概要図2(乙72の3)を見ても、ほとんどの整備箇所では、用地取得後速やかに整備されています。

●原告側は2011年までに用地取得したと主張している

破堤区間に係る用地取得について、原告側は、次のとおり、被告は2011年までに取得したと主張しています。

「最も堤防整備の優先度が高いと考えられた左岸20〜21kmについては、用地買収は2011年(平成23年)までに終了していた」(原告ら準備書面(7)p13)

「整備の優先度が最も堤防が高かった左岸20km〜21kmについては、用地買収は2011年(平成23年)までに終了していた」(同p16)

上記主張の根拠は、原告側が自ら作成した図ですが、基本は第1次資料で示すのが筋だと思われ、そうだとすると、第2次資料である「三坂町地区用地取得範囲図」を根拠とするのが筋だと思われ(第1次は売買契約書でしょうが、そこまで求めると非効率という問題が出るでしょう。)、そうだとすると、2009年11月までに用地取得した、と主張するのが筋ということになると思います。

どうせ「用地取得は完了していたはずだ」と主張するなら、「2011年までには」と言うよりも、「2009年までには」と言う方が原告側に有利ではないのでしょうか。

(文責:事務局)
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