破堤の本質は壊れた堤防を修繕しなかったことにある(その2)(鬼怒川大水害)

2022-04-10

●被告が「予定されていた安全性を備えていた」と言う理由を説明させるべきだった

前回記事では、破堤の本質は壊れた堤防を被告が修繕しなかったことにあると書きました。

原告側が「壊れた堤防を直せ」と主張すべきであったとして、だからなんなんだ、という話ですが、「この主張は、野山宏のいう内在的瑕疵であり、したがって、瑕疵の有無の判断基準は、河川が過渡的安全性を備えているかだ」ということです。

ところが被告は、破堤に関する原告側の主張は、「設置済みの施設がその予定する安全性を備えていないという内在的瑕疵の問題ではなく、改修計画終了段階において予定されている安全性又は予見可能な洪水を防ぐことのできる安全性を備えていないという「改修の遅れ」の問題である」(被告準備書面(9)p4)と言います。

すなわち、被告は、内在的瑕疵であることを否定しているのですから、「設置済みの施設がその予定する安全性を備えてい」た場合の問題だ、と言っていることになります。

しかし、上三坂地区で「設置済みの施設がその予定する安全性を備えてい」た、となぜ言えるのか疑問であり、掘り下げた議論をすべきだったと思いますが、その議論がされないまま第1審が終ってしまったのは残念です。

1966年作成の河川区域告示添付図には、L21.00kの堤防高が22.47mと書かれていたのに、2011年度鬼怒川堤防高縦断表(甲32)によれば、L21.00k付近の堤防高は計画高水位20.830mより4〜7cm低かったのです。

堤防高が計画高水位以下になるまで堤防沈下を放置していたのに、被告は、「設置済みの施設がその予定する安全性を備えてい」たと言ったり、「改修を要する緊急性が存在したことを認めるに足りる事情は見当たらない。」(被告準備書面(1)p50)と言ったり、「整備の必要性・緊急性や鬼怒川全体のバランスに意を用いつつ」(被告準備書面(6)p22)と言ったりしていることと整合性がないのですから、「予定する安全性」とは何か、そして、それを「備えていた」とはどういう意味かを説明してもらわなければ、この訴訟を起こした意味がないとさえ思います。

●堤防に欠陥がある場合は大東判決の射程外だ

話を戻すと、以上のとおり、破堤は壊れた堤防を被告が修繕しなかったことが本質だと私は考えますし、そうであれば、瑕疵の判断基準は、大東判決が示す基準ではありません。

なぜなら、堤防等の施設に欠陥がある場合は、大東判決の射程外であることがつとに指摘されているからです。

【野山宏の指摘】

野山宏は、「昭和40年代後半以降の一連の水害訴訟においては、設置済みの施設の瑕疵でなく、改修の遅れそれ自体が瑕疵であると主張されることが多くなり、これに対して最高裁判決において河川管理の瑕疵の有無の判断基準についての一連の判例法理が形成されてきたものといえよう。」(最高裁判所判例解説民事篇1996年度p495〜496。原告ら準備書面(6)で引用されています。)と言います。

つまり、堤防に欠陥はないことを前提とし、安全度の段階を上げる速度が遅いことが落ち度である、という「改修の遅れそれ自体が瑕疵である」とする訴えに対して基準を示したのが大東判決だというのです。

そして、野山は、設計・工事・管理のミスにより当該改修段階において予定されている安全性が確保されていなかった場合には「原則として営造物の設置管理の瑕疵があることを示す」のであり、「工事ミスで当初から欠陥堤防であった場合や単純な管理ミスなどのケースについては河川管理の特殊性をさほど強く考慮すべきではないともいえよう」(最高裁判所判例解説民事篇1996年度p495)とまで書いています。

また、「「大東判決要旨一」は,直接的には「改修の遅れ」という観点から河川管理の瑕疵の有無の判断基準を示したものではあろうが,同時に,何らかの改修工事がされた河川については,設計施工等の過誤により改修当時の技術水準に照らして改修の段階に対応する安全性を欠く場合,改修後の管理の手落ちにより改修当時の技術水準等に照らした安全性が損なわれた場合には,改修,整備の段階に対応する安全性(段階的安全性・過渡的安全性)を欠くものとして瑕疵(内在的瑕疵)があることになることをも示すものと解される。」(同p497)と言います。

つまり、「大東判決要旨一」は、「改修の遅れ」という観点から河川管理の瑕疵の有無の判断基準を示したものであり、上三坂地区の破堤については、「改修後の管理の手落ちにより改修当時の技術水準等に照らした安全性が損なわれた場合」に該当すると考えられるので、改修、整備の段階に対応する安全性を欠くものとして瑕疵があることになります。

そりゃあそうです。

欠陥堤防を設置した場合や壊れた堤防を管理ミスにより放置した場合にまで、「河川管理の特殊性」(河川管理の特質に由来する財政的、技術的及び社会的諸制約)という言い訳を聞いてやる必要はありません。

したがって、野山は、「改修後の管理の手落ちにより改修当時の技術水準等に照らした安全性が損なわれた場合」については、そもそも大東判決の射程外であると言い切るべきだったと思います。

ところが、野山は、「工事ミスで最初から欠陥堤防であった場合や単純な管理ミスなどのケースについては河川管理の特殊性をさほど強く考慮すべきではないともいえよう。」(同495)と、煮え切らない言い方をします。

「さほど強く」は、おかしいと思います。

壊れた堤防を修繕するのに、基本的に、制約はないと思います。

修繕する際に、河川管理施設等構造令の規格を満たす堤防にしようとすると、用地買収の問題なども出るでしょうが、壊れる前の状態にするのに、用地買収は不要でしょう。

完成堤防を築造するなら、用地買収が必要なこともあるでしょう。

堤防を改築する以上、完成堤防を築造する必要があると思っている人もいるかもしれませんが、堤防は、「すべて当初から完成堤防を完成させるわけにはいかない場合がある」(財団法人国土技術研究センター編「改定河川管理施設等構造令」p164)ので、同施行令第32条(連続しない工期を定めて段階的に築造される堤防の特例)が規定されており、計画堤防高より低い堤防を築造することが認められています。

【近藤昭三の指摘】

九州大学教授だった近藤昭三は、実施された改修工事そのものに設計・施工その他の点で欠陥のあったことが水害原因として主張されている場合には、「河川管理上の制約は重要でなく、第一段階テストの適用はないと解すべきであろう。」(判例時報1126号p191)と指摘していました。「第一段階テスト」とは、大東判決要旨一のことです。要旨二(計画の合理性のテスト)は要旨一を前提としているので、要旨二も適用がないことになります。

そうなると、近藤は、堤防に欠陥があると主張された場合には、大東判決のうち、「河川管理の特殊性」の部分だけが適用されると言っているように見えますが、それはないでしょう。

なぜなら、「河川管理の特殊性」の内容は、河川管理には財政的、技術的及び社会的制約があること、一時的な危険回避の手段がないこと(時間的制約)、求められる安全性は河川の改修、整備の段階に対応する安全性で足りること、であるところ、近藤は、施設に欠陥がある場合は、河川管理上の制約は重要でないと言っていますし、原告側が設置された堤防に欠陥があったから修繕すべきだったと主張している場合は、改修、整備の段階に対応する安全性を超える高度な安全性を備えるべきであったと主張するものではないので、安全度を上げる場合の諸制約等を内容とする「河川管理の特殊性」を適用する理由がないからです。

【大浜啓吉の指摘】

大浜啓吉・早稲田大学政治経済学術院教授は、「水害訴訟は類型ごとに考察することが肝要である。」(「行政裁判法 行政法講義2」、2011年。p479)と言い、「第三に、出来上がった防災施設自体の瑕疵を原因とする破堤型水害の場合、既に治水事業が終了しているので、基本的に道路事故における場合と同様の法理が妥当するものと考えられる。例えば、通常予測される洪水を防ぐことができない堤防の構造の欠陥、改修工事のミスで亀裂がある場合、それに水門操作の誤りなどの管理それ自体の瑕疵(略)も当然に含まれる。」(同)と言います。

つまり、大浜は、欠陥堤防の場合は、大東判決の射程外だと言っています。

ただし、堤防沈下を長期間放置した管理ミスをどう考えるべきかを示していません。

確かに、改修工事のミスで亀裂がある場合と自然現象として堤防沈下が起きた場合は、同じとは言えません。

前者は、管理者が積極的に危険をつくり出したのに対して、後者では、管理者の積極的な行為によって危険が生じたわけではないからです。

水俣病裁判のように、国の規制権限の不行使が問題となったケースについて、多数説は、次の要件を満たす場合には、行政の裁量権は収縮し、権限を行使する義務があるとしているようです(根拠:野本敏生「不作為の違法性と国家賠償」p76)。

  1. 被侵害法益の重要性
  2. 予見可能性の存在
  3. 結果回避可能性の存在
  4. 期待可能性の存在

この「裁量権収縮の理論」は、水俣病問題のような、企業活動が市民の健康を害することがないように、行政が規制権限をすべきか、という問題であり、作為義務の発生を認定するハードルが高いのかもしれませんが、河川管理者が破堤しないように堤防を管理するのは当然のことであり、「裁量権収縮の理論」のような小難しい要件論は不要のはずです。

堤防の機能低下の原因をつくったのが、管理者であろうが、自然であろうが、堤防の危険性を除去する作為義務が管理者にはあると言うべきです。

また、通常の工業製品なら、製造業者は製造物責任を負い、管理責任は購買者が負うことになりますが、堤防の場合、欠陥堤防の修繕を住民がやってしまうわけにはいかないのですから、管理者は、製造物責任と管理責任の両方を負うはずであり、大浜がこれに異論を唱えるとは思えません。

したがって、大浜の解説が、堤防沈下による機能損失を管理ミスにより放置した場合を、大東判決を適用しない場合から除外する趣旨とは思えません。

ちなみに、欠陥堤防に限った話ではありませんが、大浜は、「(大東判決により)実質的に<管理計画の合理性>が瑕疵判断の基準となっているが、管理の瑕疵を問題とする以上、個別の水害の原因や当該地域の実情等が瑕疵判断にとってはむしろ重要性が高いというべきである。」(同p474)、とか、「国賠法2条の瑕疵論は、被害者救済の要になる概念であるから、むしろ水害の発生した原因や地域の個別具体的な事情の分析を瑕疵の判断基準として取り込むべきであり」(同p480)と説いており、判例変更を迫るべきだと言っているようにも思えます。
欠陥堤防の場合は大東判決の射程外だ、という意味で大浜の解説は野山解説と同じことを言っていると思います。

原告側は、堤防沈下による機能損失の放置を管理ミスとは捉えていません。なぜなら、そのように主張したことはないからです。

●大東水害訴訟の原告側は主張を捻じ曲げられた

大東水害訴訟では、原告側は、確かに、計画を早期に実施すべきだったとは言っていますが、同時に、越水があったとされるc点の危険性が上流のショートカットによって発生したという施設の欠陥も主張しています(判例時報1229号p48)。河床の掘削や土砂の浚渫を怠ったことが危険性を招来したことも言っています。

(鬼怒川大水害訴訟の原告側が「大東水害事件は、(略)改修工事の遅れが問題とされた事件である。」(原告ら準備書面(8)p7)、とか、「単に早期に改修工事(河道の構築)を行うべきであった旨の瑕疵の主張がされたのであり」(同)と言いますが、上記のとおり、施設の欠陥も主張されていたのですから、原告側がひたすら「改修の遅れ」だけを叫び続けたという見方が正しいとは思えません。)

大東水害訴訟では、事実認定の段階で、ショートカットはc点に危険をもたらしていないと認定されたことによって、原告側が「改修の遅れ」と「土砂の浚渫の怠慢」だけを主張したことにされてしまい、残った「改修の遅れ」に関する主張が計画の合理性で判断されてしまったと見るべきだと思います。土砂堆積の問題は、「是認しうる安全性」で判断されています(web判決書p12)。

だから、水害訴訟では、前提問題として、堤防に欠陥があったかなかったが大問題なのです。

欠陥堤防だという主張なら、そもそも大東判決の基準は適用されるべきではないのです。

情けないことに、それだけのことが分かるまで、6年もかかってしまいました。

(文責:事務局)
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