鬼怒川の直轄工事は1926年から現在まで続いている

2020-03-28

●鬼怒川大水害訴訟での国の説明

鬼怒川大水害の責任を考える上で、そもそも国は、鬼怒川を何年間管理してきたのか、ということは大問題のはずです。治水事業には一定の期間を要するので、鬼怒川で大水害が起きないようにするための十分な時間が国に与えられていたのか、を考える必要があるはずです。国は、何年間にどれだけのことができたはずなのか、そして、どれだけのことをしたのか、が問われるべきです。

国は、被告準備書面(1)(2019年2月28日)において、「鬼怒川に係る治水計画の経緯」をp22以下に示しています。

p23には、次のように書かれています。

1926年、鬼怒川は河川法(1896年法律第71号)8条1項に基づく直轄施行区域(以下「直轄施行区域」という。)として指定され、同年、1926年鬼怒川改修計画を策定した。(年表示は引用者が修正)

鬼怒川は1926年に直轄施行区域に指定されたというのです。

●事業再評価資料「鬼怒川直轄河川改修事業」における国の説明

下のスクリーンショットは、2011年度の「鬼怒川直轄河川改修事業」(事業再評価の資料)のp3です。鬼怒川の改修の経緯を示しています。

p3

「鬼怒川では、1910年、1914年に甚大な出水被害に見舞われたため、1926年に鬼怒川改修計画を策定し、直轄事業として着手しました。」(年表示は引用者が修正)
「1926年 鬼怒川改修計画の策定(直轄編入)」(年表示は引用者が修正)
と書かれているだけで、直轄でなかった期間が書かれていません。

つまり、「鬼怒川直轄河川改修事業」においては、鬼怒川の直轄河川改修事業は1926年から2011年まで続いていると説明されています。

●1979年までは直轄でなかったとする説あり

下図も2011年度の「鬼怒川直轄河川改修事業」のp6です。

下図には、鬼怒川直轄河川改修事業は1980年に開始されたように読めるような記述があります。「鬼怒川=S55年(事業開始)」という記述です。その根拠についての説明はありません。

p6

●千曲川ではどうか

2019年10 月20日付け信濃毎日新聞には、「国直轄の千曲川改修工事が始まったのは1918(大正7)年。今年で101年となる。」と書かれています。

この認識が正しいとすれば、鬼怒川においても、直轄施行区域として指定された1926年から2015年までの89年間、直轄の改修工事が続いていることになります。

●「栃木県土木史(70年史)」によれば、直轄工事区間は新河川法の直轄管理区間に引き継がれている

旧河川法に基づく1926年の直轄施行区域の指定は、失効することなく、新河川法第9条第2項に基づく直轄管理区間の指定に引き継がれていると思います。

「栃木県土木史(70年史)」(2017年に栃木県が発行)の「第5編 河川」のp215〜216には、次のように書かれています。

明治 29 年(1896)、旧河川法(明治 29 年4月8日法律第 71 号)が制定された。 旧河川法の対象となる河川は、主務大臣が公共の利害に重大な関係があると認定したもの(第1条)、 その支川及び派川で地方公共団体の認定したもの (第4条第1項)、さらに法を準用するものとして、 地方行政庁が認定した水流、水面、河川(第5条)が含まれていた。

旧河川法は、現在のような水系主義を採用せず、法を適用すべき河川については、河川毎に区間を定め個々に認定していた。

明治 29 年河川法制定当時、栃木県の河川は、全て準用河川とされていた。
しかしながら、明治 30 年(1897)9月に利根川本川が第1条の認定をされ、その利根川改修計画との関連で、明治 32 年(1899)2月に利根川の支川である渡良瀬川が認定された。
その後、明治 43 年(1910)4月には思川・巴波川・ 秋山川が、大正15年(1926)5月には鬼怒川・男鹿川・湯西川が、昭和 16(1941)8月には那珂川が、昭和 16 年9月には、小貝川・五行川・松田川・桐生川・箒川が認定されるなど、順次、認定されていった。

その結果、新河川法制定の直前である昭和 39 年 (1964)には、認定河川 19 河川、準用河川 177 河川となった。このうち認定河川については、表 5-2-1 のとおりである。

旧河川法における河川の管理主体は地方行政庁が原則とされていたが、主務大臣が自ら工事を行うもの、又は他府県の利益を保全するため必要最小限度があるものについては、主務大臣が直接それを管理し、維持修繕をすることができることとされており、 栃木県関係では、大正 12 年8月 15 日付けで利根川及び渡良瀬川筋の河川の付属物の維持修繕の告知がされていた。

また、大規模工事等を施行する場合の特例も設けられ、主務大臣が自ら施行することができるとされ、これが内務省(建設省)直轄工事の根拠となった。この直轄工事区間は、新河川法の直轄管理区間に引き継がれている。

そして、「表5-2-1 旧河川法による認定河川」には、鬼怒川は1926年に認定され、その区域の延長は124.8kmであったことが示されています。(ちなみに、鬼怒川の幹川流路延長は177km(利根川水系鬼怒川河川整備計画p1)なので、52.2kmの差があります。)

新河川法第9条第2項に基づく鬼怒川の直轄管理区間は、1965年建設省告示第901号により、左岸は塩谷町大字風見1232番地先から利根川の合流点までと指定されており、その延長は101.5kmなので(答弁書p5)、鬼怒川の場合、そのまま引き継がれたとは言えないと思います。

「栃木県土木史(70年史)」では、旧河川法での直轄工事区間は、新河川法の直轄管理区間にほぼそっくり引き継がれている、ということですが、注意すべきは、ほぼ同じ区間が引き継がれたと言っているだけであり、工事や管理が引き継がれたとは言っていません。

現在の感覚からは、管理は工事を含む概念だと捉えがちですが、旧河川法では、管理と維持修繕と工事は、別の概念としていることが、河川法施行法第6条と第7条を見ると分ります。(なお、河川法施行法第6条と第7条は、インターネットで検索することはできませんでした。)

国土交通省水管理・国土保全局河川環境課河川保全企画室長の齋藤博之氏は、「これからの河川管理」において新河川法第1条の「河川管理」を「河川工事(改良工事、修繕工事)、「河川の維持」及び「行政管理(狭義の管理)」であると説明していますので、旧河川法の直轄工事区間が新河川法の直轄管理区間に引き継がれたという以上、少なくとも工事区間が引き継がれたと読み取ることができると思います。

●直轄工事のための事務所(出先機関)は切れ目なく存在する

鬼怒川の直轄工事期間を組織面から考えてみます。

上記のとおり、鬼怒川の直轄工事は1926年に始まりました。

その最初の工事は、鎌庭捷水路の開削工事(1928年着工、1935年完工)だったと思います。

篠原修著「河川工学者三代は川をどう見てきたのか」のp71に次のように書かれています。

安藝は大正15年(1926年)、東京帝大帝大(ママ)土木を卒業して内務省に入省する。(中略)配属されたのは東京土木出張所だった。昭和2年(1927年)に現場の鬼怒川工事事務所勤務となる。安藝はラッキーだった。配属された鬼怒川工事事務所の所長が青山士だったからだ。青山は当時、荒川上流工事事務所の所長で鬼怒川の担当を兼務していた。

安藝とは安藝皎一のことで、鎌庭捷水路を担当した河川工学者であり、「東京土木出張所」とは、正式には内務省土木局東京土木出張所のことで、現在の国土交通省関東地方整備局に当たるようです。

篠原は、「鬼怒川工事事務所」と書いていますが、下館河川事務所のサイトによると、1927年の2月16日(設置日)から4月30日までは、「鬼怒川改修事務所」だったと思われます。その場所は、茨城県真壁郡伊讃村大字伊佐山(現在の筑西市伊佐山)だったようです。

「利根川百年史」p249によると、「鬼怒川改修事務所」の人員構成は貧弱で、技手2人、雇1人、工手5人の計8人でした。これだけの人数でどうやって鬼怒川の直轄工事を実施していたのか疑問ですが。

鬼怒川の直轄工事のための組織は、いつからいつまで存在したのでしょうか。

下館河川事務所のサイトの事務所紹介のページをコピペしておきます。

ここから分かることは、鬼怒川の改修工事のための測量員詰所が1926年12月に開設され、これが前身となり、翌1927年からは「鬼怒川改修事務所」が開設され、名称を変えながら、そして小貝川改修事務所(後に小貝川工事事務所)と統合されながら、連綿と存続し、現在の下館河川事務所までつながっているということです。

鬼怒川の工事事務所や河川事務所が閉鎖された様子はうかがえません。

沿革
鬼怒川約99.6km、小貝川約81.9km、合計181.5kmと関東地方整備局管内で最も長い区間を担当しています。
鬼怒川の改修工事のための測量員詰所が、大正15年12月に開設され、昭和2年2月には鬼怒川改修事務所に改められて、本格的な鬼怒川の改修が始まりました。昭和8年4月には小貝川改修事務所が設置され、小貝川の改修を進めてまいりました。その後、昭和39年7月にこれらの事務所を統合し、下館工事事務所となりました。
平成15年4月からは下館河川事務所に名称が変更され、現在に至っております。
鬼怒川工事事務所
大正15年12月
茨城県結城郡宗道村及び栃木県河内郡本郷村に改修工事のため測量員詰所開設
昭和 2年 2月16日
鬼怒川改修事務所設置(茨城県真壁郡伊讃村大字伊佐山)
昭和 2年 5月 1日
鬼怒川下流改修事務所設置(名称変更)
昭和 4年 4月 1日
鬼怒川改修事務所(名称変更)
昭和23年 9月 1日
鬼怒川工事事務所(名称変更)
昭和29年 3月15日
町村合併による市制施行に伴い、下館市大字伊佐山に位置変更
昭和39年 6月30日
鬼怒川工事事務所廃止(小貝川工事事務所と統合)
小貝川工事事務所
昭和 8年 4月 1日
小貝川改修事務所設置(茨城県北相馬郡山王村)
昭和12年 4月
茨城県結城郡水海道町へ位置変更
昭和21月10月 1日
上流改修事務所(現在地)と下流改修事務所(水海道)に分離
昭和22年 7月 1日
上下流統合し小貝川工事事務所と改称(茨城県真壁郡中村中館)
昭和29年 3月15日
町村合併による市制施行に伴い、下館市中館と位置変更
昭和39年 6月30日
小貝川工事事務所廃止(鬼怒川工事事務所と統合)
下館工事事務所
昭和39年 7月 1日
鬼怒川工事事務所と小貝川工事事務所が統合し、下館工事事務所設置(下館市中館)
平成 5年 6月 7日
新庁舎(下館市二木成)にて業務開始。現在に至る。
平成13年 1月 6日
省庁再編により国土交通省 下館工事事務所となる。
下館河川事務所
平成15年 4月 1日
下館工事事務所の名称が下館河川事務所となる。


●1947年から1965年までの間に鬼怒川工事事務所が存在した

地方自治法が施行された1947年から新河川法が施行された1965年までの間に鬼怒川工事事務所が存在したという根拠として、下館河川事務所のサイトの上記ページだけでは不十分だという意見を持つ人のために、下記の事実を集めてみました。

■1950年度決算検査報告
会計検査院のサイトに1950年度決算検査報告というページがあり、直轄工事の経理が著しくびん乱しているものという項目の中に次のような記述があります。
「本局送金のうち2,000,000円は鬼怒川工事事務所から関東地方建設局に送付したもので、同局では23年度に株式会社松崎商会から購入した銅線を同商会に保管させたことに整理したもの」

「又、26年5月鬼怒川工事事務所氏家出張所においては宿直職員が殺害されて保管中の現金800,000円盗難にあい」とも書かれています。

1948年や1951年に鬼怒川工事事務所が存在したということだと思います。

■鳩ヶ谷ロータリークラブ会報

鳩ヶ谷ロータリークラブの2011年11月24日号の会報に次のような記述があります。

私は昭和 32(1957)年、宇都宮市に生まれました。当時、父親が建設省の技官で関東地方建設局鬼怒川工事事務所に在籍していた関係で、茨城県結城市に住んでおり、そこからほど近い宇都宮市で生まれた訳です。

1957年に国の出先機関としての鬼怒川工事事務所が存在したということです。

■ダム便覧

ダム便覧のサイトの◇ 11. 鬼怒川のダムのまとめの中に鬼怒川工事事務所編・発行『鬼怒川その治水工事』(昭和36年)と書かれています。

1961年に鬼怒川工事事務所が存在したということです。

(文責:事務局)
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