2010年11月6日付け共同/東京新聞は、次のように報じています。
馬淵澄夫国交相は6日、大沢正明群馬県知事らとの懇談会で、同県の八ツ場ダムの建設について「私が大臣のうちは『中止の方向性』という言葉に言及しない。予断を持たず検証を進める」と述べ、前原誠司前国交相が表明した中止の方針を事実上、撤回。さらに建設の可否を検証した結果が出る時期は「12年度予算案に反映できる時期で(来年の)秋ごろだ」と説明、建設継続を求めてきた大沢知事らは発言を評価した。ただ八ツ場ダム中止は民主党がマニフェストで掲げる目玉政策の一つだっただけに、野党からは「見解を覆しておいて、何ら理由を述べないのは極めて不誠実だ」(石破茂自民党政調会長)と厳しい批判が出ている。(以下略)
この馬淵発言について、東京新聞社説は次のように主張しています。
八ッ場中止撤回 "迷走"に終わらせるな
2010年11月9日
馬淵澄夫国土交通相は、八ッ場(やんば)ダム(群馬県)につき建設中止の前提を事実上、撤回した。評価できる側面の一方、ダム事業の文字通り「予断なく再検証」の方針は貫くべきである。
昨年、政権交代直後に前原誠司前国交相が建設中止を表明、馬淵現国交相も当初、「中止の方向」をいっていたことを思えば、また"迷走"といえなくもない。 だが今回の発言は、有識者会議のとりまとめをへて、八ッ場を皮切りに九月から始まったダム事業再検証の趣旨を考えれば、当たり前でもある。
ダムを含むもの、含まないものと複数の治水対策を作り、さまざまな評価軸で検証するからには、初めからダムありきでもダム中止でも、"予断"になる。八ッ場は国と関係六都県、九市区町がダム中止、推進で真っ向から対立、国が中止の方向に固執すれば、膠着(こうちゃく)状態が続く恐れもある。
馬淵発言が冷静な話し合いの契機になれば、むしろ評価できる。また同相が、再検証終了の目標を来秋と初めて明言したのも、関係住民の不安を早く取り除くため、喜ばしい。
一方、ダム中止の事実上撤回により、八ッ場はもとより全国のダム推進派が元気づけられることも考えられる。それによって、逆の予断で事業の再検証がおざなりになってはならない。
すでに、八ッ場ダム建設の重要な根拠になった利根川の治水基準点・八斗島(やったじま)(群馬県伊勢崎市)における洪水時などの最大流量(基本高水)が、あやふやであることが明らかになっている。
毎秒二万二千立方メートルとされた最大流量は、上流部の森林などの保水力を示す飽和雨量が高まり変化したのに、約三十年間検証されていない。馬淵国交相自身が先月、最大流量の算出方法を見直すよう国交省河川局に指示した。 最終の評価がどうなるにせよ、これらの重要な基礎的データは、ダム事業再検証の場で明らかにした上で、議論を進めなくてはならない。
同省河川局がつくった検証の実施要領では、関係自治体からなる検討の場が重視され、各地方整備局に設けられた事業評価監視委員会の意見を聴き、事業継続または中止の対応方針を決める。
「予断なく再検証」するために国交相自身がこれらの場に、必要な情報の全面開示と、公正な議論の確保について、あらためて指示をすべきである。
東京新聞は、再検証をきちんとやれと言っています。
●読売新聞はどう見たか
同じ問題について読売の社説は、次のように主張しています。
八ッ場ダム 遅すぎた「中止棚上げ」表明(11月12日付・読売社説)
群馬県の八ッ場ダムについて、馬淵国土交通相が、これまでの建設中止の方針を棚上げする意向を示した。
事実上の中止撤回と受け止めてよかろう。
多額の工事費を投入し、地元も建設促進を求めているにもかかわらず、昨年9月に発足した鳩山前内閣は、衆院選での政権公約(マニフェスト)をもとに、強引に八ッ場ダムの中止を決めた。
それから1年以上過ぎ、ようやく非を認めた形だ。馬淵国交相は来秋までに最終的な結論を出すとしているが、それほど時間をかける必要はあるまい。
地元住民と真摯(しんし)な話し合いを続ける中で、建設再開を早期に決めるべきであろう。
洪水防止と水道用水の確保を目的とする八ッ場ダムは、総工費4600億円という国内最大級のダムだ。水没予定地からすでに多くの住民が移転し、国道の付け替え工事なども進んでいた。
これに、突然待ったをかけたのが前原・前国交相だ。昨年9月の就任会見で中止を表明した。
今回、馬淵国交相は前任者の考えをひっくり返したが、将来、馬淵氏が退任した後に元に戻るようでは困る。菅内閣として中止撤回を正式に決めてはどうか。
民主党は「コンクリートから人へ」をスローガンに、公共事業を半ば罪悪視し、無駄の代表として八ッ場ダムを位置付けてきた。
だが、政権公約作りの過程で、八ッ場ダムの必要性や地元の考えなどを真剣に検討した形跡はうかがえない。これでは自治体や住民はたまったものではない。
関東地方の6都県は八ッ場ダム建設推進の立場だ。工事費の6割を負担する。
国と地方合わせ、これまで工事に3000億円以上使ったが、国の都合で中止すれば、国は自治体の負担分の返還を迫られる。財政事情が厳しい中、そんな無駄は、それこそ許されまい。
ダム建設の反対派は、6都県が推計した将来の水需要は過大だとして、工事費の差し止めを求める訴訟を各地で起こしたが、敗訴が続いている。裁判所が、自治体側の言い分を認めているわけだ。
民主党の政権公約には、八ッ場ダム以外にも、特別会計などの見直しによる巨額な財源の捻出(ねんしゅつ)、といった無理な目標が数多く盛り込まれ、国政を混乱させている。
菅内閣は、今回の馬淵発言を機に、マニフェスト至上主義を改め他の公約についても撤回・修正を大胆に進める必要がある。
読売新聞社説の結論は、建設再開です。
●推進論は感情論にすぎない
読売は、「多額の工事費を投入し、地元も建設促進を求めているにもかかわらず、昨年9月に発足した鳩山前内閣は、衆院選での政権公約(マニフェスト)をもとに、強引に八ッ場ダムの中止を決めた。」と書いています。
読売の結論は「建設再開」ですから、「多額の工事費を投入し」たことと、「地元も建設促進を求めている」ことが事業推進の理由だと言っていることになります。
しかし、これまでどんなに「多額の工事費を投入し」たとしても、ダムが不要なら建設すべきではありません。「多額の工事費を投入し」たから、たとえ必要でなくても、とにかく完成させちゃいましょうという議論は倒錯しています。
また、「地元も建設促進を求めている」から建設を再開しろということですが、「地元」の意見とは何かという問題があります。「建設反対」と言いたくても、村八分が怖くて言えない人もいるといいます。
その問題はさておき、地元が建設促進だから地元の意見に従えというのなら、地元の意見が中止ならば中止すべきだと読売は言うのでしょうか。では、地元が反対一色だったときに、読売は「八ツ場ダムは地元の意見を尊重して中止すべきだ」と主張したのでしょうか。多分していないと思います。また、全国のダム事業で、地元住民が建設に反対していますが、読売は地元の意見に従えと言っているのでしょうか。
地元が反対のときは沈黙していて、地元が賛成に回ると地元の意見を尊重しろと言うのはご都合主義です。
また、地元の意見が推進なら、どんなに効果のないダムでも建設しなければならないという考え方は理不尽です。
理想は、「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」(室原知幸)のでしょうが、逆に地元の意見が反対でも、どうしても必要なダムなら、強制収用してでも建設すべきでしょう。要は、必要性で決めるべきです。本当に必要なダムを造るなら、合理的な理由を素人にも分かるように説明できるはずです。事業者がまともな説明ができないということは、必要がないということです。
地元の意見は、合理性があるなら尊重すべきです。合理性のない意見は尊重する必要はないと思います。だって、八ツ場ダム建設事業には、国民が払った税金が使われるのですから。
いずれにせよ、ダムは必要がある場合にのみ建設すべきで、感情論で建設の是非を決めるべきものではありません。
ダム推進論なんてだいたいがこんなものです。科学的な議論ではなく、感情論です。
●強引に建設を決めたことを免罪するのはご都合主義
読売は、民主党政権が「強引に八ッ場ダムの中止を決めた」と書きます。確かに、民主党の決め方がおかしいという点は同感です。が、自民党政権が強引に八ッ場ダムの建設を決めたことについて読売新聞が沈黙していたとしたらフェアな論評とは言えません。
全国のダム事業で、国、県、水資源機構等の事業者側は強引に計画を進めてきましたが、読売新聞はどれだけその強引さを非難してきたでしょうか。
強引に建設を決めたときには非難せず、強引に中止を決めたときだけ非難するのはご都合主義です。
いずれにせよ、これまで多額の費用を投じたとか地元のだれかが建設を求めていることを理由にダムの建設を正当化するのは、公共事業の本質論を見忘れた議論だと思います。
●自民党は必要性や地元の考えを真剣に検討したのか
読売は、「(民主党は)政権公約作りの過程で、八ッ場ダムの必要性や地元の考えなどを真剣に検討した形跡はうかがえない。これでは自治体や住民はたまったものではない。」と書きますが、では、自民党政権は、「八ッ場ダムの必要性や地元の考えなどを真剣に検討した」と言えるのでしょうか。読売は、過大な基本高水をでっち上げてダム建設の理由としてきた自民党政権をなぜ批判しないのでしょうか。
●自治体への返金と事業完成とどっちが無駄か
読売は、「国と地方合わせ、これまで工事に3000億円以上使ったが、国の都合で中止すれば、国は自治体の負担分の返還を迫られる。財政事情が厳しい中、そんな無駄は、それこそ許されまい。」と書きます。
読売新聞は、自治体に負担金を返還するのが「無駄」だと書きますが、だまされないでください。
読売新聞は同ダムが役に立つこと、そして、あと1,000億円程度つぎ込めばダムが完成することを前提としています。そんな前提は成り立たちません。
八ツ場ダムが治水、利水に役に立つことは全く証明されていません。
証明されていないどころか、利根川の治水計画の根拠である「 昭和22年関東地方に大きな災害をもたらしたカスリーン台風と同じ降雨があった場合、洪水(想定される洪水)が発生した場合、利根川・八斗島地点(河口より185km地点)では22,000m3/sが流れると予想されます。これは、おおよそ200年に1回の確率で起こる洪水に相当します。」(利根川ダム統合管理事務所のホームページ)という前提が崩れています。ここでは詳しく書きませんが、八ツ場ダムの必要性を科学的に検証すれば、確実に中止の結論になります。
読売新聞は、必要性のないダムを建設する無駄をどう考えるのでしょうか。
また、八ツ場ダムを中止した場合、自治体に負担金をいくら返還するかというと、2009年度時点で1,460億円と言われています(2009年9月23日付け産経。八ツ場ダムのウソ参照)。
他方、八ツ場ダムを完成させるには、あと6,000億円くらいはかかるでしょう。治水、利水という目的は破たんしているのですから、あと6,000億円くらい払う方が余程無駄です。
●裁判所はこれまで妥当な判決を下してきたのか
読売新聞は、「ダム建設の反対派は、6都県が推計した将来の水需要は過大だとして、工事費の差し止めを求める訴訟を各地で起こしたが、敗訴が続いている。裁判所が、自治体側の言い分を認めているわけだ。」と書きます。
要するに、裁判所が自治体の水需要推計が間違っていないと認定しているのだから、水需要の推計が過大であるという原告の主張は間違っている、だからダム建設は正しいというわけです。
この論法は、これまで裁判所が行政訴訟においてまともな判断をしてきたという前提があって言えることですが、そんな前提はありません。これまでの行政訴訟において、裁判所は行政の追認機関にすぎなかったという見方が妥当だと思います。
●裁判所がまともでなくなっている
裁判官の実態については、新藤宗幸氏が「司法官僚ー裁判所の権力者たち」 (岩波新書) に詳しく書いています。名著ですので、是非買って読んでください。あるブログが新藤氏の著書を引用していますので、孫引きします。
つまり、裁判官の人事上の命運は、ひとえに最高裁事務総局という、司法官僚のエリート組織に完全に握られているのが、日本の裁判所の実態なのである。
さらに新藤氏は1974年9月に発生した台風16号による東京都狛江市の多摩川堤防決壊に伴う国家賠償法に基づく損害賠償訴訟についての重大な事例を紹介する。この訴訟では東京地裁が79年1月に住民勝訴の判決を示したが、87年8月に東京高裁は住民逆転敗訴の判決を提示した。
新藤氏はこの問題に関連して、1987年11月8日付朝日新聞が、83年12月2日に最高裁事務総局が全国の地裁・高裁の水害訴訟担当裁判官を集めて裁判官協議会を開催していた事実を報道したことを紹介する。新藤氏はこの裁判官協議会がクローズアップされた理由が、84年1月26日の大東水害訴訟最高裁判決直前の協議会であったことを指摘する。
これらの事実関係を踏まえて新藤氏は次のように記述する。
「朝日新聞のスクープ記事や多摩川水害訴訟の東京高裁判決を機として、最高裁事務総局がこれまでみてきた人事による裁判官コントロールにくわえて、法律の解釈や判決内容についてもコントロールしているのではないか、そしてこの二つは相互に密接に関係しつつ、下級審や裁判官にたいする事務総局「支配」の基盤となっているのではないかとの問題関心が、在野の弁護士を中心にたかまっていった。」
どうです。「83年12月2日に最高裁事務総局が全国の地裁・高裁の水害訴訟担当裁判官を集めて裁判官協議会を開催していた」のです。
こんなことされたらまともな判決が出るはずがありません。
裁判官の多くは、昇進したいし、左遷されたくないので、最高裁事務総局の指示に反する判決を書けない仕組みができ上がっているのです。まともな判決が書けるのは、余程気骨のある裁判官か定年間際で先の見えた裁判官くらいのものという話もあります。多くの裁判官は、上ばかり見ているヒラメ裁判官になっているという指摘もあります。
したがって、裁判官は常にあるいはおおむね自らの良心に従ってまともな判決を書いているという前提が成り立ちませんから、「裁判所が自治体の言い分を認めているから自治体の水需要予測が正しい」という理屈は成り立ちません。
読売新聞の論説委員が自治体の水需要予測の正当性の根拠を裁判所の権威以外に挙げられないということは、自治体の水需要予測が科学的根拠に乏しいことを物語っていると思います。
朝日新聞は、「利水面では、人口が減っていくのに新たな水源がいるのか。」と書いています。そういう疑問を持つのは当然でしょう。
ところが読売新聞は、「裁判所が、自治体側の言い分を認めている」ので水需要予測は過大ではない、「利水目的は成り立つ」という結論を導き出そうとしているのですから、乱暴な理論です。
判決の権威を持ち出す立論も結構ですが、前提として、その判決が妥当であることが必要でしょう。
不当な判決を論拠とする論理は不当なものにしかなり得ません。
ちなみに、私は諫早湾を開門すべきだと思います。その根拠として、福岡地裁も福岡高裁も判決で開門を命じたことを挙げたいと思います。なぜ判決を根拠に主張するのかと言えば、判決が妥当だと考えるからです。
判決を引き合いに出すなら、判決の妥当性を吟味すべきです。
●諫早判決で読売社説はどう主張しているか
2010年12月7日の47newsに次の記事が掲載されました。
二審も「開門」命じる 諫早湾干拓訴訟 福岡高裁判決
国営諫早湾干拓事業の潮受け堤防閉め切りによって漁業被害を受けたとして、福岡、佐賀、長崎、熊本4県の漁業者ら100人が国に対し、潮受け堤防の撤去と排水門の開門を求めた訴訟の控訴審判決が6日、福岡高裁で言い渡された。古賀寛裁判長は、漁業被害と堤防閉め切りとの因果関係を認定した上で「堤防閉め切りは漁業をする権利を侵害しており違法」と述べ、一審佐賀地裁判決に続き排水門を5年間常時開門するよう命じた。
この判決について、読売新聞社説は次のようにコメントしています。
諫早湾干拓訴訟 「開門」命令が問う政治の責任(12月8日付け読売社説)
国の諫早湾干拓事業を巡り、漁業者側が潮受け堤防排水門の開放などを求めた訴訟で、福岡高裁は事業の影響調査のため5年間、堤防を常時開放するよう国に命じる判決を言い渡した。
堤防の閉め切りと、漁獲高が減少するなどの漁業被害との因果関係を明確に認めた。堤防閉め切りが地元漁業者の漁業を営む権利を侵害しているとも指摘した。
1審の佐賀地裁と同様、漁業者側の主張をほぼ全面的に認めた判決と言えよう。
国側は、開門すれば高潮や洪水時に堤防の防災機能が失われ、堤防内の調整池に海水が入り込んで干拓地農業にも被害が出ると主張していた。地元長崎県や干拓地農家の意向を踏まえたものだ。
しかし判決は「影響は限定的」と、これを退けた。
開門の準備に3年間の猶予を与えた上で、とりあえず排水門を開け、有明海の環境に及ぼす影響や漁業資源の回復策などを5年間で探れ、と命じた判決である。
干拓事業は、有明海の一角である諫早湾を全長7キロの潮受け堤防でせき止め、内側に広大な調整池と農地を造成した。1989年に着工、総額2500億円を投じて2008年に事業は完成した。
干拓による環境変化で魚介類が減少したとする漁業者側は、まず工事の差し止めを求めたが敗訴した。事業が完成した後は、堤防の撤去や排水門の開放などを求める訴訟で国と争ってきた。
干拓地農家の不安、長崎県や有明海に臨む周辺各県の思惑なども絡み合う中、「諫早問題」が混迷を深めた背景には二転三転した政治の対応のまずさもあろう。
自民党政権は、地方への利益誘導を狙って大型公共事業を乱発した。諫早湾干拓もその一つだ。
民主党は、有明海を再生するとして野党時代から開門に前向きだった。政権交代後の今年4月には、政府・与党の検討委員会が開門を妥当とする報告書をまとめた。
しかし、検討委を主導した当時の赤松農林水産相が宮崎県の口蹄疫(こうていえき)問題を機に退任した後は、この問題から遠ざかっている。
農水省は、開門の適否を判断する環境影響評価を進めており、来春に報告をまとめる方針だ。
判決を受けて仙谷官房長官は、開門に前向きな姿勢を示しつつ、環境影響評価の結果も踏まえて検討する意向を表明した。
最終的な判断は政治に委ねられる。漁業者と農家、双方に配慮した解決策を探る責任があろう。
八ツ場ダムについては、「早期に建設再開を」と主張していたのに、諫早湾干拓については、「(政権には)漁業者と農家、双方に配慮した解決策を探る責任があろう。」というコメントです。
これって、主張なのでしょうか。控訴審判決が出たのですから、この判決に政府はどう対応すべきかという論点について、新聞社の立場を述べるのが社説ではないでしょうか。
「社説」とは、「新聞・雑誌などで、その社の主張として載せる論説」(大辞林 第二版 (三省堂))のことです。読売新聞の諫早湾に関する社説は、解説記事にすぎません。「(政権には)漁業者と農家、双方に配慮した解決策を探る責任があろう。」なんて無責任な話はだれだって言えます。わざわざ新聞に書く意味のある文章とは思えません。
ちなみに、読売の「(政権には)漁業者と農家、双方に配慮した解決策を探る責任があろう。」は、朝日新聞の社説(12月7日付け)の「対立してきた漁業者と農業者が共存できる道を、政府は目指すときである。」と似ており、読売は朝日を参考に書いたようにも思えます。しかし、朝日新聞は、「高潮の恐れがあるような天候など、防災に必要なときは、判決がいうように状況に応じて閉めればいい。」という具体的な解決策を提示していますし、「いまこそ、開門に向けて動き出すため、菅首相自らが積極的に政治決断するときだ。」という明確な主張を打ち出している点で読売新聞とは違います。
読売新聞社説は、ダム訴訟では、裁判所が被告を勝訴させたことも根拠にして、事業再開を主張しました。
その論法で行けば、諫早湾干拓訴訟では、福岡高等裁判所は一審に続き、漁民を勝訴させたのですから、「早期に開門調査を開始すべきだ」と読売新聞は主張してもよさそうなものですが、そのような主張はしません。
そもそも読売新聞は、諫早湾干拓訴訟の控訴審判決を受けて社説を書きたかったのか疑問です。他紙が書いているので、仕方なく書いて格好をつけたようにも見えます。産經新聞に至っては、この件に関して社説を書いていません。
読売・産経路線としては、今回の漁民勝訴の判決は受け入れ難いのかもしれません。少なくとも、上記読売社説に今回の判決を歓迎する気持ちを読み取ることはできません。
読売新聞は、湾の閉め切りにより甚大な被害が出ていても、漁業者が自殺するほどの被害に苦しんでいても、そういう事実は眼中にないようです。
読売新聞社説は、事業推進の判決は正しいと評価して宣伝するが、事業中止の判決についてはそっけない態度であり、ご都合主義だと思います。
●各紙の社説を読み比べてみると
諫早湾判決に関する各紙の社説を見出しで比べてみましょう。社説の読み比べは、「この国を考える」というサイトの諫早湾干拓ー開門を決断せよというページでできます(ただし読売は引用されていません。)。
朝日新聞(12月7日付け)は、「諫早湾干拓ー開門を決断するときだ」
毎日新聞(12月9日付け)は、「諫早湾判決 政治の責任で開門を」
日本経済新聞(12月7日付け)は、「今度こそ諫早の開門調査を」
です。
これに対して、読売新聞(12月8日付け)は、上記のように「諫早湾干拓訴訟 「開門」命令が問う政治の責任」です。
次に八ツ場ダム問題についての社説を比べましょう。
八ツ場ダムに関する馬淵大臣発言については、上記サイトの八ッ場ダム どうみる中止「撤回」で社説の読み比べができます。見出しで比べてみます。
朝日新聞(11月11日付け)は、「八ツ場ダムー改めて中立からの検証を」
東京新聞(11月9日付け)は、「八ッ場中止撤回 "迷走"に終わらせるな」
毎日新聞(11月9日付け)は、「八ッ場中止棚上げ なし崩しにならぬよう」
日本経済新聞(11月10日付け)は、「八ツ場ダム 政権の考え明確に」
です。
これに対して読売新聞(11月12日付け)は、上記のように、「八ッ場ダム 遅すぎた「中止棚上げ」表明」 です。
産経新聞(11月10日付け)は、「八ツ場ダム 弄ばれる住民を考えたか」です。中身を読むと読売に近いと思います。例によって、読売・産経路線というものでしょうか。
いずれにせよ、八ツ場ダムに関して明確に推進の立場を明確にする読売新聞の社説は、他紙と比較して特異と言えます。
もちろん特異な見解は大いに結構ですが、中身を見ても、事業推進の理由は非科学的で、間違った見解と評価せざるを得ません。
●まとめ
読売新聞は、八ツ場ダムの建設再開を求めているわけですが、その理由は、「多額の工事費を投入し」ているし、水没予定地からすでに多くの住民が移転し」ているし、「国道の付け替え工事なども進んでいた」のだから完成させないともったいないとか、「地元も建設促進を求めている」という感情論であったり、全体的な費用対効果を無視して、中止すれば国が自治体に負担金を返還することを無駄と決めつけていることであったりして、説得力のある理論ではありません。
読売新聞は、八ツ場ダムの二大目的の一つである利水についても触れていますが、利水目的が破たんしていないことの根拠をダム訴訟の地裁判決の権威に求めているだけですので、説得力はありません。
理由づけの貧弱な判決に権威を求めるのは間違っています。
読売新聞は、「無駄遣い」の撲滅に興味はないようです。というよりも、「無駄」のとらえ方が多くの国民とは違うのではないかと思います。
とにかく、八ツ場ダム問題を通して読売新聞がどっちを向いて新聞を書いているかを実感できたと思います。