「冤罪で死刑」はあって当然か

2008-03-21

●「週刊金曜日」に掲載された文章の意味が分からない

週刊金曜日 第688号 2008年02月01日のP63「論争」欄に「死刑制度について自由な議論を」(松浦庸夫) という論文が載っています。松浦氏は、冤罪を死刑制度廃止の理由とすべきでないとして、次のように書きます。

痴漢や窃盗でさえ冤罪はあるのだし、そのせいで 人生を狂わされる人々は跡を絶たないのだから、 警察の捜査や調書の取り方から見直していかな ければならない問題だ。
言い換えれば、(冤罪の可能性 を)死刑制度廃止の根拠とすべきではないのだ。

死刑制度について自由な議論をするのは結構なことですし、多様な意見があるのも結構なことです。しかし、意味の分からない文章が公になることは問題だと思います。

私は、上記文章を50回以上は読み返しましたが、全く意味が分かりませんでした。  

「言い換えれば」の前後は同じ意味でなければなりませんが、「痴漢や窃盗でさえ冤罪はある」ということが、どうして「死刑制度廃止の根拠とすべきではない」ということと同義なのか私には分かりません。  

敢えて解釈すれば、「痴漢や窃盗の冤罪で人生を狂わされる 人がたくさんいるのだから、殺人罪など死刑が用意されている重罪の冤罪で人生を丸ごと失っても我慢すべきだ」 ということでしょうが、そんなひどいことを言う人はいないと思います。「冤罪で死刑」はあって当然と言う人がいるとは思えません。逆ならまだ理解できます。つまり、「冤罪で死刑に処される人もいるのだから、痴漢や窃盗での冤罪は我慢すべきだ」という意見なら、私は納得できませんが、世の中にはそう考える人も何人かはいるのかもしれない、という意味では理解できます。親鸞は深い意味があって「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言ったそうですが、松浦氏も深い意味があって逆説的なことを書かれたのでしょうか。

松浦氏がなぜ痴漢や窃盗を持ち出すのかも分かりません。「警察の捜査や調書の取り方」に問題があると言いたいのなら、痴漢や窃盗を持ち出す必要はないと思います。痴漢や窃盗の取り調べよりも殺人事件の取り調べの方が慎重に行われるでしょうから、「ましていわんや」という議論は成り立たないからです。

松浦氏は、「冤罪の問題は「警察の捜査や調書の取り方」を正常化させて解決すべき問題だから死刑とは別問題だ」と言いたいのかもしれません。「警察の捜査や調書の取り方」が正常化するのはいつのことでしょうか。いつまで待てばいいのでしょうか。現に冤罪で死刑を言い渡された人にとっては、全く説得力を持たない議論です。しかし、松浦氏がそんな冷たいことを言うとは思えません。だから、上記の文章の意味が分からないです。

松浦氏は、「警察の捜査や調書の取り方」が正常化すれば、冤罪が皆無になる日が来ると考えているのでしょうか。警察や検察はもちろん、どんな優秀な裁判官でも必ずミスを犯すものであるという前提をだれも否定できないと私は思います。

刑事司法の目的が無辜を罰しないことである 以上、冤罪による死刑囚がいるし今後もいるであろうという現実から目を背けた立論が 妥当とは思えません。そんなことは松浦氏は承知の上で上記のことを書かれたのでしょうから、理解に苦しむのです。

松浦氏は、自分が冤罪で死刑を言い渡されても同じ主張を されるのか知りたいところですが、連絡の取りようもありません。

●松浦氏への反論が載った(2008-03-25修正)

週刊金曜日 第690号 2008年02月15日のP63「論争」欄に「犯罪者の人権について議論を」(内川桂太朗)が掲載されました。内川氏は次のように書きます。

投書者(松浦氏)は死刑と冤罪の関係について、冤罪は痴漢等でも起こりうるもので、警察の捜査・取り調べ等の問題であるとして死刑制度存否の議論の対象にしない趣旨を述べている。確かに、たとえ軽犯罪であっても冤罪に遭えば人生が狂わされる事例は後を絶たず、これらの主な原因が捜査機関にあることは異論がない。
しかし、捜査機関がより透明性の高い方法をとったとしても、人間である以上ミスは生じる。つまり、いかなる状況でも常に冤罪の可能性は付きまとうといえる。とすれば、これらを警察の捜査・取り調べ等の問題としたところで完全な解決は得られない。私はこの問題につき、冤罪にあった場合、せめて生命および社会復帰可能性を残すという意味で、冤罪の可能性を死刑廃止の理由に掲げることは不合理ではないと思う。

結論としては私と同意見なのですが、これでは「人間である以上ミスは生じる。つまり、いかなる状況でも常に冤罪の可能性は付きまとうといえる。」ということを松浦氏が理解していないという前提での反論であり、松浦氏をおかしな人に仕立て上げた議論になってしまっていると思います。

内川氏は、松浦氏が「冤罪は警察の捜査や調書の取り方の問題である」としていることをもって、松浦氏が「冤罪は完全に解決できると考えている」と解釈していますが、早とちりのような気がします。世の中に「冤罪は完全に解決できると考えている」と考えている人は一人もいないと思います。まして週刊金曜日に投書する人で、冤罪によって刑場の露と消える命の無念さに思い至らない人はいないでしょう。

松浦氏は、週刊金曜日 第611号 2006年06月23日で「9・11米テロの陰謀説を検証せよ!」(松浦庸夫)という正当な意見を投書している方ですから、 それほどおかしな考え方はしていないと思います。人違いでなければ、著作もあるような知識人ですし。 <;p>法律の専門家ではないとしても、冤罪については、「それでもボクはやってない」(周防正行監督)や「ザ・ハリケーン」(ノーマン・ジェイソン監督)や「トゥルー・クライム」(クリント・イーストウッド監督)などの映画くらいは見た上で、一定の所見はお持ちなのでしょう。袴田事件や御殿場事件のこともご存知の上での意見表明だと思います。

松浦氏を「冤罪が根絶できると考えている浅はかな人」とか「冤罪の死刑囚を切り捨てる冷血漢」のようなレッテルをはるような論法では、ののしり合いのような不毛な議論になりがちで、いつまで議論しても死刑廃止の是非についての結論は出ないと思います。

松浦氏は今後も冤罪が絶えないことは百も承知で、冤罪の問題を死刑廃止問題から切り離せと書いていると思います。それでも冤罪の死刑囚の命を切り捨てるかのような意見を書くのはなぜなのか。彼はその理由として痴漢や窃盗でも冤罪があると書くだけです。「取り調べをまともにやればいい」と書いているようにも読めますが、それが百年河清を待つような話であることは彼も分かっていると思います。痴漢や窃盗の冤罪がなぜ冤罪による死刑囚の命の切り捨て容認につながるのか。その思考回路を明らかにしてもらった上で、反論するなら、反論すべきだと思います。

●週刊金曜日に責任はないのか

週刊金曜日に責任はないのでしょうか。松浦氏と内川氏の「論争」を読んだら、松浦氏が、完璧な人も制度もあり得ないということも分からないような、おかしな人に仕立て上げられてしまっています。面目丸つぶれではないでしょうか。読者も意味の分からない文章を何十回も読まされるはめになり、時間を浪費させられます。

松浦氏の上記文章は、編集部が読んでも意味が分からなかったと思います。真意も確認せずに、意味が分からないまま掲載することに責任はないのでしょうか。

(文責:事務局)
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