東京新聞はどうしちゃったのだろうか

2019-03-07

●沖縄の県民投票に関する論説委員の記事

2019年1月30日付け東京新聞に「私説 論説室から 日々、議論を重ねています」という記事が載りました。これを読んだ私は、東京新聞はどうなってしまったのかと思いました。執筆者は、白鳥龍也・論説委員です。

その一部を引用します。

「市長が市民の投票権を奪うのは許されない」。自説を述べたら即座に同僚から指摘された。「議会の決定を尊重するのも当然では」
辺野古新基地建設の賛否を問う沖縄の県民投票がこの日の議題。いくつかの市の市長が不参加を表明したのをどうとらえるか。

住民の請求を受けて県議会が条例を制定しあるテーマについて県民投票を行う。民主主義に基づく手続だ。一方、市町村議会が投票の在り方に疑問を持ち、投開票経費を盛り込んだ予算案を否決。市長がこれに従うのも民主主義に沿った一つの判断といえる。

県民投票条例で投開票が市町村の義務とされる中、市長に裁量権はあるか。二元代表制の自治体政治で市長は必ずしも議会と一致した判断をしなくてもいいのではーー。多くの論点はあるが、論説会議では一方的に市長方針を批判すべきではないとの点で一致した。

「辺野古新基地建設の賛否を問う沖縄の県民投票」と書くことについて、Wikipediaは、「「普天間飛行場の名護市辺野古への移設に対する是非を問う」と報じるメディアも少なくない[4][5][6]が、正確には「建設のための埋め立てに対する賛否を問う」ものである。」と書きますが、海の埋立てができなければ、基地は建設できないので、埋立てに反対=基地建設反対となるので、両者を厳密に区別して議論する実益はなさそうです。

●マスコミに見られる「どっちもどっち論」だと思う

県民投票をやることに決めたのも民主主義の結果だが、市長が議会の議決を尊重して、自分の市の住民には県民投票をやらせないと決めたのも民主主義の結果だ、というわけです。

どちらの民主主義も同じ価値に見えるのでしょう。マスコミによく見られる「どっちもどっち論」です。

マスコミがなぜ「どっちもどっち論」に陥るのかと言えば、どっちがまともかを判定する基準を持とうとしないからだと思います。

●論説会議は手続の違いを無視している

Wikipediaによれは、「普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している米軍基地建設のための埋立てに対する賛否についての県民による投票」の経緯は、次のとおりです。

2018年5月、自由と民主主義のための琉球・沖縄緊急学生行動(SEALDs琉球)代表の元山仁士郎(当時一橋大学大学院社会学研究科休学中)が代表を務める市民団体「『辺野古』県民投票の会」が県民投票に向けた署名集めを開始。9月、必要数となる有権者の50分の1(約2万3千筆)の約4倍にあたる92,848筆の署名を集めて県議会への条例案提出を直接請求した[8]。

これを受けて、県政与党である「社民・社大・結連合」と日本共産党らが中心となって沖縄県議会に選択肢を「賛成」「反対」の2択とした条例案を提出。これに対し、県政野党である沖縄・自民党と県政では中立的立場を取る公明党は「賛成」「反対」に加えて「やむを得ない」「どちらとも言えない」を加えた4択とする案を提出したが、10月26日に野党案(4択案)を賛成少数で否決し、与党案(2択案)が賛成多数で可決成立[7][9]、条例は10月31日に公布された[4][5]。

つまり、県民投票条例は、埋立て問題だけをテーマとして署名集めをし、必要数の約4倍の署名で直接請求して成立しました。

他方、市町村議会が県民投票を執行する経費を含んだ予算案を否決し、市長らが議会の意思を尊重して投票に反対するという場合には、住民の意思が直接示されているわけではありません。

市町村議会の議員は、一つの争点だけで当選したわけではありませんから、多数の議員が県民投票の実施に反対の意思を示したとしても、それが強い民意に裏付けられているとは言えません。

市町村議会の意思決定を軽いとは言いませんが、92,848人の県民の意思を比べて、「どっちもどっち」ということにはならないと思います。

●論説会議には憲法的視点が欠けている

二つの民意の手続や形式の違いの次に注目すべきことは、理由の問題です。つまり、県民投票を実施する理由と阻止する理由を比較すべきです。

東京新聞の論説会議は、「市長がこれ(議会の議決)に従うのも民主主義に沿った一つの判断といえる。」と言いますが、東京新聞の論説委員には、あらゆる権力作用を憲法規範から見るという視点がないのでしょうか。

日本国憲法第98条第1項には、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と書かれています。いわゆる憲法の最高法規性というやつです。

確かに、自治体の条例や議決については触れていませんが、自治体が憲法違反をやっていいという解釈はあり得ません。自治体は、法律に違反する条例を制定することができない(憲法第94条)のであり、法律は憲法に違反して制定できないからです。議会の議決も憲法に違反し得ないと思います。

ちなみに、日本国憲法第98条第1項の解釈で、憲法学者は「地方公共団体の条例・規則は、「法律・命令」に準ずるものとみることができるので、それに含まれると解される。」(芦部信喜「憲法」第四版p13)と書いています。

したがって、私には、上記二つの民主主義が同価値だとは思えません。

Wikipediaを見ると、市町村が県民投票に反対する理由は一つではありませんが、論説会議では、議会が「投票の在り方に疑問」を持ったことに着目してしています。

つまりは、新基地建設に賛成か反対かの二者択一ではおかしい、という程度の理由です。

新基地建設の是非を問うという大義と比べて、大義と呼ぶほどのものは何も含まれていない、いちゃもんではないでしょうか。

賛否どちらでもない人は白票でいいじゃないですか。憲法で保障された参政権が「二者択一では民意が正確に反映されない」という程度の理由で否定されてよいとは思えません。

市長たちの県民投票不参加表明がなぜ憲法違反かについては、2019年1月10日付け沖縄タイムス記事木村草太氏が緊急寄稿 「県民投票不参加は憲法違反」に書かれているので、ご参照ください。いつまでも削除されないわけではないので、要点を引用します。

一番の問題は、憲法14条1項が定める「法の下の平等」に反することだ。一部の市町村で事務執行がなされないと、住んでいる場所によって「投票できる県民」と「投票できない県民」の区別が生じる。「たまたま特定の市や町に住んでいた」という事実は、県条例で与えられた意見表明の権利を否定するだけの「合理的な根拠」とは言えない。したがって、この区別は不合理な区別として、憲法14条1項違反だ。


この点、投票事務が配分された以上、各市町村は、その区域に居住する県民に投票権を与えるかどうかの選択権(裁量)を持つはずだとの意見もある。しかし、「県条例が、そのような選択権を認めている」という解釈は、県民の平等権侵害であり、憲法14条1項に反する。合憲的に解釈するならば、「県条例は、そのような選択を認めていない」と解さざるを得ない。
さらに、平等権以外にも、問題となる権利がある。県民投票は、県民全てに開かれた意見表明の公的な場である。県民の投票へのアクセスを否定することは、憲法21条1項で保障された「表現の自由」の侵害と認定される可能性もある。さらに、憲法92条の規定する住民自治の理念からすれば、「県政の決定に参加する権利」は、新しい権利として憲法13条によって保護されるという解釈も成り立ちうる。

多くの素人には表現の自由違反の問題は思いつきませんが、素人でも平等原則違反くらいは思いつきます。

●まとめ

要するに、県民投票を実施するという民意と実施させないという民意が対立するように見える場合、まずは、どちらの民意の方が重い手続を経て形成されたかに着目すべきであり、次に、二つの主張の理由のどちらがより合理性があるか、そして憲法に適合するか、という視点から優劣を判断すべきだと思います。

ところが東京新聞の論説会議では、あれも民主主義これも民主主義、新聞社がどちらかに肩を持つべきではないと考える、というのが上記記事の論旨なのでしょうから、一読者としては憂鬱になります。

結局は、「市長が市民の投票権を奪うのは許されない」という白鳥委員の考えが正しいのだと思います。手続的な正当性や投票を実施する大義を瞬時に判断されたのだと思います。

「市長が市民の投票権を奪うのは許されない」のどこがおかしいのでしょうか。

正しい少数意見をろくでもない多数意見が潰したという好例ではないでしょうか。

(文責:事務局)
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