常総市三坂町地先での砂利採取で堤防が危険になった(鬼怒川大水害)

2019-06-21

●2014年に砂の採取が行われていた

鬼怒川での砂利採取が終了した時期について群馬大学教育学部の青山雅史准教授(自然地理学)は、「土地履歴からみた液状化被害・水害の発生要因と危険度評価の検証」のp13において、次のように書きます。

1975 年 1 月国土地理院撮影空中写真を判読すると,河畔砂丘における砂の採取跡地に工場が造成されたことが読み取れる.聞き取り調査によると,この工場は家具関連の工場であったという.また,この空中写真の判読から,河畔砂丘におけるかつての砂の採取地のほとんどは上述の工場や空き地などへと変化し,砂の採取がおこなわれている様子は読み取れない.したがって,この時期には河畔砂丘における砂の採取は終了していたと思われる.

つまり、1975 年 1 月には、「(常総市若宮戸地区にある鬼怒川の)河畔砂丘における砂の採取は終了していた」と見ています。

では、鬼怒川全体での砂利採取はいつ終了したのでしょうか。

鬼怒川の河道特性と河道管理の課題 ー沖積層の底が見える河川ー (2009年5月、( 財 )河 川 環 境 管 理 財 団 河川環境総合研究所 )のp39には、「砂利採取が終了した 1991 年 」という記述があります。ただし、p101には、「砂利川区間 」について「砂利採取が行われた時期に採取量に応じて河床低下したが,砂利採取が終わった 2001 年以降は 60 ~ 70km 区間を除いて最深河床高の変化はほとんど無くなっている. 」(年表示は引用者が加工)と書かれています。

すなわち、鬼怒川における砂利採取は、基本的には1991年に終了したが、遅くとも2001年には完全に終わったという認識が示されていると思います。

しかし、グーグルアースプロで2014年3月22日の常総市三坂町地先の鬼怒川河川敷の衛星写真を見ると、次のとおり、砂利採取が行われています。赤線矢印は、2015年9月10日に堤防が決壊した箇所を示すために、引用者が加筆しました。

三坂町砂利採取

なお、2014年1月19日の衛星写真でも砂利採取をしている様子が写っています。

2014年の砂利採取は、国土交通省が発注した道路工事のために特別に砂利の採取を認可(砂利採取法第16条第2号)したのかもしれません。(どうもそうではなさそうです。関東地方整備局によると砂利採取計画書など作成していないとのことなので、認可権者が自ら採取するので、認可の手続は不要との解釈のようです。)

●砂利採取は堤防を危険にする

2014年に三坂町地先の河川敷で砂利採取が行われていたことは、水害直後からネット情報として流れていました。

しかし、私は、砂利採取が水害との関連でどのような意味を持つのか、ずっと分かりませんでした。

砂利採取は、一種の河床掘削であり、河道断面積を増大させるのだから、砂利採取が行われている地点の流下能力を高めるから、利水上のデメリット(周辺の井戸をからす。)が想定されることはともかくとして、治水上は、プラスにはなっても、マイナスにはならないのではないかと思っていました。

しかし、それは素人の浅はかさでした。

栃木県は、2017年3月に「栃木県土木史70年」を刊行しています。

その「第5篇 河川」のp226には、次のように書かれています。

戦後を迎え、昭和 27 年頃から土木建築が盛んとなり、その工事にコンクリートが多く使われるようになり、砂利の需要は急速に増大した。昭和 20 年代半ばから昭和 40 年代前期までの、約 15 年間が河川砂 利業者の最盛期であった。その後、砂利の採りすぎのため、沿岸の地下水が低下し、堤防が危険になるなど治水・利水上の支障(被害)が生じる問題が起きてきた。

「沿岸の地下水が低下し、堤防が危険になる」は、当初は因果関係を示すものかと思いましたが、そうではなく、「沿岸の地下水が低下し、利水上の支障が生じる」と「堤防が危険になり、治水上の支障が生じる」をつないだものと思われます。誤解を招く悪文です。

地下水とは関係ないですが、そして私の想像ですが、砂利採取により高水敷の地盤が下がるということは、堤防の基礎部分やそこに近い地盤が流水にさらされることになり、決壊が起きやすくなるということはないでしょうか。

加えて、鬼怒川では、上流に巨大ダムを建設したことで砂の供給が不足し、河床低下の弊害が出ていたのですから、砂利採取の許可や認可には抑制的であるべきだったと思います。

そうだとすると、河川敷内で砂利採取を許した国土交通省が鬼怒川大水害を招いたと言えないでしょうか。(そもそも国土交通省が自ら採取する場合は、許可や認可は不要というのが公式解釈のようです。)

●砂利採取の影響に関する「利根川百年史」の記述

建設省が1987年に発刊した「利根川百年史」にも、鬼怒川の砂利採取についての記述があります。しかし、発刊当時は、利根川の砂利採取は禁止されていなかったせいか、砂利採取による悪影響に関する記述は、歯切れが悪いという印象です。

鬼怒川における「戦後、旧河川法時代の砂利採取」として、次のように書かれています。

利根川合流点から45km地点の下館市川島地先は掘削も少なくあまり河床の変化はないが、川島から上流佐貫間は乱流と採取による河床変動が甚だしく、昭和10年代に施工した根固が2〜3mも浮き上がる状態であり、傾斜したものが多数ある。また揚水・取水施設のほとんどがなんらかの影響を受けている。採取の申請量は、1955年の7万9,000m3に対し1960年には73万m3と9倍強になっているが、実際の採取はこの申請量の2〜3倍になっているのではないかと推定される。(p1780。年表示は引用者が加工)

「根固」とは、「根固工(ねがためこう)」のことで、「洪水時に河床の洗掘が著しい場所において、護岸基礎工前面の河床の洗掘を防止するために設けられる施設です。」(最上川電子大事典から )。

「根固工」とは、低水護岸を保護するための施設ですから、それが浮き上がったり、傾斜したりしたとしても、氾濫の原因にはなりませんから、砂利採取による悪影響といっても、それほど深刻には考えられていなかったと思います。

なお、砂利採取に対する規制は実にいい加減なものであり、鬼怒川に限らず、採取の申請は形だけであり、実際は、採取量を監視する制度はなかったようなので、採取のし放題だったようです。

利根川水系河川について、「このような採取状況に伴って各地の河川では河床低下による「橋脚、護岸、根固等の浮き上がり破損、水位低下による農業用水等の取水の困難等の現象が顕著となり、従来からの河川利用者との間にトラブルが生じ、また河道の安定もおびやかすこととなった。」(p1781)とも書かれていますが、砂利採取が「河道の安定もおびやかす」といっても、具体的には、「橋脚、護岸、根固等の浮き上がり破損」しか挙げていません。

つまり、砂利採取が氾濫水害とは結び付けられていません。

「利根川百年史」は、「新河川法施行後の砂利採取」の中で、鬼怒川については、掘削量がピーク時から半減したことのほかには、「賦存量も僅かになったため、対策の検討が急がれている。」(p1784)としか書かれていません。

「鬼怒川における砂利採取の課題は、賦存量の減少かよ」とツッコミたくなります。執筆者の認識は極めて甘いと思います。

また、「先に述べたように砂利採取の著しい増加に伴い、河川管理施設の損傷をはじめとした治水・利水上の被害が生ずるとともに、河川砂利の涸渇化が社会問題となってきた。」(p1782)という記述もあるので、「利根川百年史」の執筆者の関心事は、水害や利水ではなく、骨材の不足(それによるインフラ整備の遅れ)だったように思います。

そんなわけで、「利根川百年史」には、砂利採取によって地下水の水位が低下し、堤防の脆弱化につながるとは書かれていません。

したがって、砂利採取が堤防決壊につながる問題だとは、私は思いもしませんでした。

それだけに、「栃木県土木史70年」の上記記述は、青天の霹靂でした。

「利根川百年史」を執筆した建設省職員は、砂利採取が堤防決壊につながることを知りながら隠していたのでしょうか。それとも、当時は、そんな知見はなかったのでしょうか。どっちだったのか、今は分かりません。

●"逆噴砂"は砂利採取のせいか

naturalright.orgが「三坂町決壊箇所高水敷の洗掘痕」で指摘していることですが、水害発生後の三坂町地先の堤防決壊箇所付近の高水敷に奇妙なものが、次のとおり、GoogleEarthProの初期設定の衛星写真(撮影時期は2015年10月頃か)に写っています。

逆噴砂

画面中央に見えるブルーシートが引っかかった穴から流れ出たように見える大量の砂です。

私の推測ですが、この穴と堤内地の押堀に見える穴とが地下でつながっていて、洪水時には、洪水がその穴を通って堤内地に流れていたが、洪水の水位が下がると、押堀から河道内へと氾濫水が逆流し、砂と一緒に河道内に吐き出されたものだと思います。

砂は、先の千切れたヤツデの葉のような形に広がっています。その幅は、近くにあるクレーン車の全長の7倍くらいはあるので、クレーン車の全長を控えめに7mと仮定しても、約50mにもなります。

噴砂が逆向きに起きたと考えられないでしょうか。

国土交通省が砂利の過剰な採取を認めたこと(自ら採取したこと、という表現が正確か)が被害の要因になっていないでしょうか。

●砂利採取箇所と堤防決壊箇所が一致している

下の写真は、国土地理院が公表する空中写真(1988〜1990年に撮影)です。場所は、三坂町地先の堤防決壊箇所付近です。赤線矢印は、堤防の決壊幅を示すために引用者が加筆しました。

低水路やその付近で砂利採取をすると、水位を下げて利水上の障害が出るからでしょうか、鬼怒川左岸21k付近の堤防のすぐ近くで砂利採取をしているように見えます。2015年9月水害での決壊幅と妙に一致しているのが気になります。

もちろん、この後、掘削面積が拡大していった可能性がありますが、堤防の脇だけ掘った可能性もあります。

仮に21k付近の堤防の脇だけ掘削されたとすると、そこだけ堤防の厚さが減り、カミソリ化するのですから、水圧に耐える力が弱くなります。中学生でも推測できることですが。

冒頭に示した2014年の写真でも言えることですが、砂利採取のための掘削は、決壊箇所となった堤防に極めて近い場所に迫っているように見えます。決壊がここで起きる必然性があったように思います。

河川管理者が安易に砂利採取を許したことが堤防を危険にしたと言えないでしょうか。因果関係も明確ではなく、昔の話なので、この件については今更責任追及もできませんが、あまりにもピンポイントでやられちゃっているなと感じるのは、私だけでしょうか。


堤防脇砂利採取

参考までに、2015年9月11日撮影のGoogleEarthProの衛星写真を示しますので、読者各位で決壊箇所と上記砂利採取箇所との位置関係を確認していただきたいと思います。

破堤幅

この記事で言いたいことは、河川官僚は、砂利採取が堤防を危険にすることを、いつの頃からかは分りませんが、知っていたということです。

(文責:事務局)
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