謎が残る鹿沼事件

2005-07-15,2007-10-12追記,2008-04-03追加的修正,2008-04-16修正

●「狙われた自治体」が出版された

「狙われた自治体」(副題は「ごみ行政の闇に消えた命」。以下「本書」という。)が岩波書店から出版されました。

第4回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞しただけのことはあって、力作です。未曽有の行政対象暴力事件の全貌に迫った下野新聞の連載記事ですが、そもそも遺体が見つかっていませんし、未解明の部分も多く残されています。

●「鹿沼事件」とは何か

本書で扱われる「鹿沼事件」とは、2001年10月31日に鹿沼市の廃棄物担当の職員小佐々守さんが帰宅途中で拉致・殺害され、事件の首謀者とされる人物が市内の廃棄物処理業者だった事件です。

●謎は解かれていない

この事件では、実行犯はだれか、首謀者はだれか、という問題はもちろん重要ですが、事件を誘発させた責任はどこにあるのか、事件の解決を遅らせた責任はどこにあるのかという問題も重要です。どちらも解明されたとは言えない状況にあると思います。

「「小佐々さんは結局、鹿沼のドロドロに巻き込まれてしまったんだ」。栃木県警のある幹部は、しみじみと語った。」(本書p124)

そうかもしれません。だったら、鹿沼のドロドロに巻き込んだ者の責任というものはないのでしょうか。

自殺した首謀者の遺体を発見した建設会社の社長が「○○(首謀者の名)を利用したやつらは多い。だがみんな逃げちまったからな」と寂しそうにつぶやいた(2004年3月30日下野新聞)そうです。利用したのはだれなのでしょうか。 

●めがねはいつ発見されたのか

本書p6には、「収穫を終えた田んぼには、セカンドバッグ、分厚い書類の束、ワイン3本、海外旅行のパンフレットが散乱していた。めがねも落ちていた。」と、小佐々さんのめがねが最初から見つかっていたように書かれています。

しかし、2003年8月22日付けの下野新聞には、「収穫を終えた田んぼには、バッグや分厚い書類の束、三本のワインが散乱していた。」で段落が切れており、めがねに関する記述はありませんでした。

そして、2001年11月当時の下野新聞には、慰留物について次のように二回に分けて書かれています。

「自転車は、同センターから約五百メートル離れた通勤路で、前輪が市道わきの田に突っ込む形で放置されていた。近くに小佐々さんのカバンがあり、財布や名刺入れが入っていた。衝突したような痕跡、争ったり、物色された様子はないという。」(2001/11/02)

「調べによると、小佐々さんは十月三十一日午後五時四十五分ごろに勤務先の同市上殿町の市環境クリーンセンターを退庁後、連絡が途絶えた。翌一日午前六時半ごろ、同センターから約三百メートル離れた市道わきで、倒れた小佐々さんの自転車、かばんと財布、眼鏡、三十一日の出張土産のワインなどが見つかった。」(2001/11/07)

めがねが落ちていたのに、「争った様子はない」というのは奇妙です。二つの記事の間のちぐはぐさは、めがねが当初は見つかっていなかったことを示唆するようにも思えます。

●当初、警察は拉致事件と見ていなかった

「たかがめがねにこだわらなくてもいいじゃないか」という意見もあると思います。しかし、本書p134には、小佐々夫人の手記が載っています。

「事件発生の翌朝、現場を見た私は「あーっ、やられちゃった」と心の中でつぶやいていました。クリーンセンター職員の皆さんも直感的にただならぬものを感じたようでした。ところが、私のもとを訪れた警察官は事件の重大性が全く分からないらしく、焦るばかりの私に「借金は?健康状態は?悩み事は?」。挙げ句の果てには「どこかに女でもいたんじゃないですか」と、あまりにも腹立たしいことを質問するばかりです。」

めがねが最初から発見されていれば、記者に対して「争った様子はない」とか、小佐々夫人に対して「どこかに女でもいたんじゃないですか」とかいう発言はなかったと思います。なぜなら、自ら蒸発する者が使い慣れためがねを道路や田んぼに捨てるということは、通常は考えられないと警察も考えると思うからです。

●なぜ捜査が進まなかったのか

捜査の遅れが遺体の未発見につながっていると思います。

本書p47には次のように書かれています。

「(栃木県警が作成した供述)調書をめくると、関係者のほとんどが失跡直後から小佐々さんは「事件に巻きこまれた」と述べ、谷津(首謀者とされる人物の仮名)の関与を疑っていたことが分かる。

「谷津は仕事のことで、小佐々さんから厳正な審査を受けていた。小佐々さんに恨みを持っていた」

「小佐々さんは拉致されたと思う。やったのは谷津以外に考えられない」

一部の職員たちは、谷津と市上層部との深いつながりにまで言及していた。」

本書p49には次のように書かれています。

「もう一つの重要な手がかりは、小佐々さんが残した手書きのメモだった。小佐々さんの妻、洌子さんが捜査員に伝えた。そこには谷津のフルネームと、谷津が設立した二つの会社名が記されていた。小佐々さんが、谷津を強く警戒していたことを示す証拠だった。」

本書p1には、更に細かく次のように書かれています。

「電話台の脇に張られた一枚のメモーー。  家族には全く見覚えのない男の名前と二つの会社名が並んでいた。続けてこうあった。  <受け取り拒否>  栃木県鹿沼市の環境対策部参事、小佐々守さんは、このメモを作った時、家族に厳命した。  「こうした名前で贈り物があっても、絶対受け取らないように」  その後、事件が起きて家族はメモの重大さに気付いた。  そこには、事件の「首謀者」の名前がはっきりと記されていた。  隣にあったのは、「首謀者」の男が設立した廃棄物関連会社の名前だった。  メモは事件後、県警に提出された。」

職員に箝口令が出されていたにしても、谷津が怪しいという供述や証拠が当初からあったにもかかわらず、なぜ捜査が進まなかったのか、犯人逮捕まで1年3か月もかかったのか、という疑問は残ります。

●警察はなぜ廃棄物業者を徹底調査しなかったのか(この項目07-10-12追記)

下野新聞07-10-11には、小佐々夫人ら遺族が起こした民事訴訟の第12回口頭弁論の模様が報道されています。

10月10日には、小佐々さんが行方不明になった直後から対応などを担当した男性職員の証人尋問が行われました。証人は、「小佐々さんの机の中にあったのは(事件を首謀した)廃棄物業者に関する文書ばかりで、行方不明が事件であれば廃棄物業者が関与しているのは間違いないと思った」と証言したそうです。

ここからは想像ですが、事件直後にもこの証人は同じことを警察に話したと思います。また、警察官も小佐々さんの職場の机の中に廃棄物業者に関する文書ばかりがあるのを見たはずです。(この文章2007-10-23修正)

そうだとすれば、怪しいのはその廃棄物業者だということは、素人でも感じますから、警察は、なぜその廃棄物業者を徹底的に調べなかったのか。今更ながら不思議に思います。

後記のように、職員の口は固かったかもしれませんが、小佐々さんの机の中に十分な手がかりはあったのではないでしょうか。

●職員が供述内容を否定した(この項目2007-10-25追記)

朝日新聞07-10-11には、証人となった職員が供述調書の内容を一部否定したと書かれています。

記事によると、「この日(10月10日)証言したのは同部環境課長」で「失跡前、小佐々さんと言葉を交わした最後の職員」だそうです。

課長は、「失跡後、小佐々さんの机の中の書類などを調べた結果、2週間ぐらいたってから、役員の関与が濃厚だという印象を持った」と証言したようです。しかし、なぜ「2週間ぐらいたってから」なのかは、書かれていません。

「事件直後にとられた供述調書での「事件後すぐ、あのゴミ処理業者が絡んでいる。役員の仕業だと確信した」などとした供述内容を一部否定した」そうです。結局、「(事件前に)危機感を持っている人はいなかった」と証言したようです。また、「交通事故に巻き込まれて連れ去られたのではないか、などと考えていた。当時は警察も失跡か徘徊だろうと言っていた」と述べたそうです。

「事件後すぐ、あのゴミ処理業者が絡んでいる。役員の仕業だと確信した」。「2週間ぐらいたってから、役員の関与が濃厚だという印象を持った」。「交通事故に巻き込まれて連れ去られたのではないか」。いったいどれが本当なのでしょうか。

いずれにせよ、職員が捜査に協力的でなかったにせよ、朝日新聞の記事によれば、警察は事件直後に現環境課長から「事件後すぐ、あのゴミ処理業者が絡んでいる。役員の仕業だと確信した」という内容の供述をとっているのですから、その業者を徹底的に洗うチャンスはあったはずです。

それにしても、当時、警察が「徘徊だろうと言っていた」のだとしたら、ひどい話ではないでしょうか。「徘徊」とは、「目的もなく、うろうろと歩きまわること。うろつくこと。 」、「葛藤からの逃避、精神病・痴呆などにより、無意識のうちに目的なく歩きまわること。」(大辞林)です。事件当時、小佐々さんは57歳で徘徊するような年齢ではなく、徘徊する癖や病気も持っていなかったと思います。(この段落2007-10-30修正)

次の項目では、「警察に対しては、不確かな情報でも提供すべきですが、警察側からのコメントを見る限り、(職員は)提供したとは思えません。」と書いてしまいましたが、不確かな情報どころか、「役員の仕業だと確信した」とまで供述しているではありませんか。事件の解決を遅らせたのは、職員なのでしょうか、警察なのでしょうか。謎は深まるばかりです。

●箝口令を出したのはだれか

本書p13には次のように書かれています。

「ごみをめぐる何らかのトラブルに巻き込まれ、連れ去れたのではないか」。そう見立てた県警の捜査員は、「市職員から手がかりが得られるはず」と期待したが、職員たちは一様に口が重かった。「あんなに非協力的なのはおかしい」。捜査幹部は、いらだちを隠さなかった。」

本書p21には次のように書かれています。

「容疑者逮捕後、鹿沼市役所内は異様な緊張感に包まれていた。小佐々さんが勤務していた環境対策部では、アポイントなしで訪れる記者の入室を禁止する張り紙を出した。鹿沼市の廃棄物行政をめぐるトラブルが事件の引き金となったことが分かったが、それでも職員たちは一様に「分からない」と口をつぐんだままだった。

本書p50には次のように書かれています。

「汚職や知能犯罪を専門とする捜査二課が、水面下で動いていた。情報は市役所ルートから得られると見込んでいた。だが、癒着の核心を追っていくと、いつも「沈黙」の壁にぶつかった。例えばーー。職員の一人から「あの職員に聞けば分かる」と聞き出し、捜査員がその職員に当たる。すると「そんな話は知らない」と一蹴されてしまう。その繰り返しだった。捜査員の一人はある時、意を決して鹿沼市の渡辺南お助役に迫った。

「捜査を進めると、市の不祥事に突き当たるかもしれない。それでも捜査に協力してほしい」

助役は、「……分かった。協力する」と応じたが、その後も職員たちの態度は変わらなかった。」

「阿部和夫市長は(小佐々さんの葬儀の)弔辞で「警察の捜査に全面協力した」と涙声で強調した」(本書p126)が、小佐々夫人は、「何もかも分かっているはずの職員の皆さんが、口を閉ざしてしまいました。まるで、かん口令が出されているような感じでした。」(本書p135)と嘆きます。

小佐々夫人が朝日新聞に寄せた手記にも「何もかも分かっているだろうと思っていた職員の皆さんが、口を貝のように閉じてしまいました。警察も「何も話してくれない」と頭を抱えていました。」(2003.10.31朝日新聞)と書かれています。

2003年3月22日の朝日新聞記事にも次のような記述があります。

「市の幹部は当初から無表情に繰り返した。
「なぜ失踪したのか見当もつかない」

市長以下、市の関係者は当然、最初から事件の背景がわかっていたはずだ。」

「「箝口令が出ている」「小佐々さんと同じ職場にいた職員は何も話さない」」

「「職員が捜査に協力的だったら、もっと早く事件を解決できた」
捜査員の一人は、そう打ち明ける。」

小佐々夫人までが「箝口令が出されていたようだ」と感じていました。 実際箝口令が出されていたとすると、出したのはだれか、なぜ出したのか、という疑問が残ります。

2003年3月1日付けの朝日新聞には、阿部市長と渡辺助役に対するインタビュー記事が載っています。その中に次のようなやり取りがあります。

--小佐々さんが行方不明になった後、市長をはじめ、市の幹部はずっと「思い当たる節はない」と繰り返してきた。しかし、事件直後、すでに市は「念書」を県警に任意提出している。メディアも市民も「(職員は)知らないふりをしていたのではないか」という釈然としない思いを抱いている。

助役「県警が『これは業務がらみの事件だ』というまで、我々としては不用意なことは言えないでしょう。確証がないわけだよ。逮捕の知らせがあるまでは言えない。(以下略)」

確かに、職員がマスコミに対して憶測でものを言うのは問題でしょう。しかし、警察に対しては、不確かな情報でも提供すべきですが、警察側からのコメントを見る限り、提供したとは思えません。

谷津が小佐々さんの殺害を謀ったという確証が役所の中に存在するはずがありません。状況証拠となる情報を提供する義務が事件の背景を知っている職員にはあったはずです。

●阿部和夫市長はクリーンセンターでの癒着を知っていたのか

「市長がクリーンセンターでの不正や癒着の問題を知っていたのか」という問題と「小佐々さんをなぜクリーンセンターに異動したのか」という問題は、不可分です。

「阿部市長は取材班に「(クリーンセンターでの)トラブルを知っていたら、小佐々さん一人で対応させなかった」と繰り返した。」(本書p63)と書かれているように、阿部市長は、小佐々さんが行方不明になるまでは、クリーンセンターで不正や癒着があったことを知らなかったと主張していました。

阿部市長は、小佐々さんの異動の理由を「ISO(国際環境基準)取得のため、現場をよく知り経験豊富な人材を選んだ」(2004.3.26下野新聞)、「癒着があったかなかったかというのは、小佐々さんが行方不明になり、「どういうことになっているんだ」と確認したのが最初でした」(2003.2.13朝日新聞)と言っていたのです。

しかし、取材班は、「この(小佐々さんのクリーンセンターへの)二度目の赴任を、市議会調査特別委員会(百条委員会)はのちに「センターの問題を承知の上で、市長は小佐々さんを(クリーンセンターの参事として)起用したのではないか」と推測した。」(本書p63)と書きます。

市議会調査特別委員会がそう推測した根拠は、山崎正信委員長が阿部市長に対し、小佐々さんの異動について、「一つには、重要な課題であるISO取得問題があること。それから、はっきりした状況ではないけど、モヤモヤしたものがあそこ(クリーンセンター)にあるということ。それらを合わせて異動を行ったということでよろしいですね」(本書p103)と言うと、「阿部市長はあいまいにうなずいた」(同頁)ことにあります。

確かに「モヤモヤしたもの」とは何なのかはっきりしない言い回しですが、その前に山崎委員長は、「環境クリーンセンター内にいろいろな問題が発生していることは知らなかったということですか」(本書p102)、「小佐々氏は「あそこを変えられるのはあなたしかいない」と市長に言われたという。証人もあそこにドロドロしたものがあると認識していないと合わないのですが」(同頁)と重ねて聞いているのですから、「モヤモヤしたもの」とはクリーンセンターでの不正や癒着であることは明らかです。

そうだとすれば、阿部市長は山崎委員長の問いにうなずくべきではありませんでした。なぜなら、阿部市長の発言は矛盾してくるからです。

「癒着があったかなかったかというのは、小佐々さんが行方不明になり、「どういうことになっているんだ」と確認したのが最初でした」(2003.2.13朝日新聞)と言っていたのに、5か月後の百条委員会で「クリーンセンターに癒着があったことを知っていた」となるのは矛盾です。

矛盾するということは、「癒着を知らなかった」と「癒着を知っていた」のどちらかの発言がウソだったということになります。

●なぜ報告がなかったのか

本書p63には、「センターでは、谷津が「詐欺的行為」を繰り返していたが、小佐々さんは着任とともに指導を厳しくした。谷津は反発し、度々小佐々さんらをどう喝した。渡辺助役に高級タンスを送り付ける一方、自宅や執務室に押し掛けて「助役がやらせているのか」と迫った。ところが、「対立」は市長まで報告されていなかった。」と書かれています。

このことを2003年7月4日付け読売新聞は、次のように報じています。

「(百条)委員会は非公開で行われた。終了後に会見した山崎正信委員長によると、渡辺助役は、「2000年末ごろ、元社長が職場に来て、『チェックが厳しくなっているのはあなたの指導なのか』と言われた」「調査に対する抗議だった」などと述べた。

当時は、市環境クリーンセンターに佐野市のごみを持ち込んだ元社長が佐野市から水増しした処理費を得ていた問題について、小佐々さんが調査をしていた時期と重なる。

また、渡辺助役は、元社長が2001年春、自宅にやって来て、「最近、センターのチェックが厳しい。何とかならないか」などと言われたことも明かしたうえ、「決められた通りにやっている」と突っぱねたことを証言した。」

この記事からは、小佐々さんが谷津の不正に関して調査していたこと(命令されてやったのか、自発的にやったのかは不明)、その調査について助役に報告していたことがうかがわれます。しかし、2000年末ごろ、谷津から『チェックが厳しくなっているのはあなたの指導なのか』と言われて、助役がどう答えたのかは、なぜか明らかにされていません。

「渡辺助役は「脅迫めいた話もなく、当時はそんなに危険だという認識はなかった」と(下野新聞取材班に)話した。」(本書p63)のです。これが、助役が市長にクリーンセンターでのトラブルを報告しなかった理由と思われます。

小佐々さんらが谷津にどう喝されていたことは事実です。しかし、助役は「脅迫めいた話もなく」と言います。

そうだとすると、小佐々さんは、谷津の調査をしていたことは報告していたが、谷津にどう喝されていることは助役に報告していなかったことになります。クリーンセンターへの異動に当たり、阿部市長から「クリーンセンターを変えられるのは君しかいない」(2003.2.24毎日新聞)と言われるほど優秀さを認められていた小佐々さんが、谷津からどう喝されていることをなぜ助役や市長に報告しなかったのか疑問です。

仮に小佐々さんが本当に谷津をめぐる問題を助役に報告していなかったとしても、助役の新築祝いに高級家具を送り付ける人物を助役がなぜ「危険」と認識しなかったのか、疑問です。

本書にも「「組織防衛や情報管理に腐心する(鹿沼市の)体質を考えれば、なぜ今回のトラブルの報告が上がらなかったのか不思議だ」。釈然としない思いを口にする職員もいる。」(p64)と書かれています。

●小佐々さんはなぜクリーンセンターに異動させられたのか(2008-04-16修正)

阿部市長は、2000年6月に初当選を果たし、その約3か月後の10月1に小佐々さんをクリーンセンターに異動させています。

その理由について本書は、「小佐々さんの起用は新市長の嫌がらせだ。谷津はそう思っていた」(本書p119)という鹿沼環境美化センター役員の見方を載せています。

谷津は、2000年6月の鹿沼市長選で新人の阿部氏を支援せず、現職の福田武氏を支援しました(本書p83)。

本書p125には、「選挙で応援しなかったら1年間、市の仕事がもらえなかった。」という鹿沼市内のある建設業者の話が書かれています。「2003年9月に行われた鹿沼市議選の直後、阿部市長が、当選した市議たちに日本酒を贈っていた事実が判明した。公費が使われていた。だが、共産党と反市長派とされる市議に日本酒は配られなかった。」というエピソードも紹介されています。

阿部市長がなぜ小佐々さんを定期異動時期の2001年4月1日まで待たずにクリーンセンターに異動させたのかについて、2003年2月13日付けの「新しい鹿沼」(日本共産党鹿沼市議団ニュース)には、「古沢市政、稲川市政、福田市政と受け継がれてきた流れが阿部市長で変わり、今回この問題が初めて表に出てきました。業者との不正常な関係を解消しようと努力した市長の姿勢は間違っていませんでした。」という見方が示されていますが、正しい見方ではないと思います。

なぜなら、もし、小佐々さんの異動が「業者との不正常な関係を解消しようと努力した市長の姿勢」の表れだとするならば、「阿部市長は取材班に「(クリーンセンターでの)トラブルを知っていたら、小佐々さん一人で対応させなかった」と繰り返した」(本書p63)りしなかったはずですし、「癒着があったかなかったかというのは、小佐々さんが行方不明になり、「どういうことになっているんだ」と確認したのが最初でした」(2003.2.13朝日新聞)という発言もしなかったはずだからです。

「渡辺助役は「脅迫めいた話もなく、当時は(谷津が)そんなに危険だという認識はなかった」と(下野新聞取材班に)話した。」(本書p63)のであり、谷津の不正を阿部市長に報告していなかったというのですから、阿部市長がクリーンセンターと「業者との不正常な関係」を認識することさえなかったはずです。

阿部市長が「業者との不正常な関係を解消しようと努力した」のであれば、小佐々さんを孤立無援の状況で業者に立ち向かわせるとようなことはしなかったはずです。組織的な対応をとったはずです。

日本共産党鹿沼市議団が「業者との不正常な関係を解消しようと努力した市長の姿勢は間違っていませんでした。」という見方をするに至った根拠は示されていません。

小佐々さんはなぜクリーンセンターに異動させられたのでしょうか。

阿部市長によれば、「ISO(国際環境基準)取得のため、現場をよく知り経験豊富な人材を選んだ」(2004.3.26下野新聞)ためです。

これに対し、上記のとおり、市議会調査特別委員会(百条委員会)はのちに「(クリーン)センターの問題を承知の上で、市長は小佐々さんを(クリーンセンターの参事として)起用したのではないか」と推測した。」(本書p63)のです。

日本共産党鹿沼市議団も「業者との不正常な関係を解消しようと努力した」と書くのですから、小佐々さんは「業者との不正常な関係を解消」するために異動させられたことになります。

市議会調査特別委員会(百条委員会)や日本共産党鹿沼市議団の見方が正しいとすれば、阿部市長がウソを言っていたことになります。政治家がウソをつくことは大問題です。なぜ新聞社も議会も日本共産党鹿沼市議団も市長がウソをついたことになるということを問題視しないのかが理解できません。

日本共産党鹿沼市議団が「市長がウソをついたかどうか」という問題を不問に付して、市長が言ったことと逆の事実を前提として「業者との不正常な関係を解消しようと努力した市長の姿勢は間違っていませんでした。」と市長を誉める理由が理解できません。市長を誉める前に、市長がウソをついたことを問題にするのが筋ではないでしょうか。

仮に市長が「(クリーンセンターと)業者との不正常な関係を解消しようと努力した」としても、その動機が上記のように「小佐々さんの起用は新市長の嫌がらせだ」ということだとしたら、あまり誉められたものではないと思います。日本共産党鹿沼市議団は、市長の動機まで見据えた上で誉めているのでしょうか。

●谷津を自殺現場まで運んだのはだれか

谷津は、鹿沼市池ノ森地内の工場建設予定地に駐車されたダンプカーの中で自殺したとされています(本書p16)。遺体が発見される3日前に所在不明となった病院から約7キロメートル(本書p18)、自宅からも約6キロメートルは離れています。愛車ベンツは遺体の周辺にはなかったようです。彼は糖尿病であり、彼の生活習慣から考えて、長距離を歩くことは考えられないと言う人もいます。だとすると、彼を自殺現場まで運んだのはだれか、という疑問が残りますが、未解明のままです。

●阿部市長はうまく処理した

阿部市長は、2000年6月に初当選を果たし、同年10月に小佐々さんをクリーンセンターに異動させました。

2001年10月31日に小佐々さんは失踪しました。

2003年2月6日に小佐々さん殺害の実行犯が逮捕されました。翌2004年は、阿部市長にとって2期目の選挙の年です。事件が尾を引き、選挙に悪影響が出るのを恐れたと推測されます。

行政と業者の癒着が問題となった鹿沼事件ですが、職員の中から一人の被逮捕者も出さず、2004年5月の鹿沼市長選の結果も、小林守前衆議院議員が市長選候補者として取りざたされましたが、土壇場になって小林氏が立候補を断念し、阿部市長が無投票当選を果たしました。阿部市長は、事件をうまく処理したと言えると思います。

小林守氏といえば、2005年8月に次のような報道がされました。

鹿沼市、元衆院議員に教育長就任要請  

鹿沼市が元民主党衆院議員の小林守氏(60)に、次期教育長への就任を要請していることが4日、わかった。小林氏は「条件が整えば、前向きに考えたい」と話しており、市は承諾が得られれば、9月定例市議会に人事案を提出する方針だ。  小林氏は、郷土の自然や歴史などを学ぶNPO法人「鹿沼学舎」の事務長を務めるなど、教育活動に熱心に取り組んでいることから、9月に任期満了を迎える西山義信教育長の後任候補に挙がった。  小林氏は1984年、鹿沼市職員から県議に転じ、90年に衆院選初当選。4期務めたが、03年11月の衆院選で落選した。 (読売新聞2005-08-05)

民主・小林氏が離党届 「報道先行で責任」  

民主党の小林守前衆院議員(60)が鹿沼市の阿部和夫市長から同市教育長への就任を要請された件で、小林氏は五日、同党県連に離党届と県連常任顧問などの役職辞任届を提出した。県連は扱いを保留している。  下野新聞社の取材に対し、小林氏は「就任要請について、簗瀬進県連代表に報告する前に報道されたことに対する責任がある」と説明。また「就任を受諾した場合は市議会の同意が必要。議員に判断していただく際に、政党に所属しているのは好ましくない」とし、あらためて就任を前向きに検討する考えを示した。  小林氏は三日夜、就任要請を受けたことを鹿沼市内の同党県議、市議に報告。次期衆院選栃木2区に小林氏の後継として立候補する福田昭夫前知事に対しては、四日に電話で連絡した。  福田氏は「教育行政に対する小林さんなりの考えがあるのだと思う。ただ、(教育長就任の場合)選挙への影響はないとはいえない。状況を見ながら、対応を考えていく」と話した。 (2005年8月6日 下野新聞)

(文責:事務局)
その他の話題へ>このページのTopへ