ダムの目的に防災を加えるのか

2016-09-24

●鰕原議員は東大芦川ダムに未練タラタラ

2016年7月13日の鹿沼市議会本会議で鰕原一男議員は、次のように質問しました。

2003年、ダム中止を決定した当時の社会、経済、政治情勢等と現在は様変わりしている状況等もありますし、自然災害も多く発生しております。またその間、限界集落や消滅可能都市などの言葉が生まれ、急激な人口減少と少子高齢化は、特に山間地の衰退を招き、地域の消滅の可能性が現実としてある。この認識が出てきています。

もし、東大芦川ダムが着工されていれば、県道古峯原線の拡幅改良工事等が進み、市民や高齢者にとって安心安全な生活のできる道路整備が更に進んでいたかもしれませんし、観光面で見ても、東大芦川ダムという資源が増したことにより、前日光県立公園を訪れる方の増につながったかもしれません。

そして、何より、河川の洪水調整がなされ、災害の減少につながっていったかもしれません。平成18年に粟野町が鹿沼市と合併し、鹿沼市民となった私はそんなことを思いますが、佐藤市長はどう思っていますか。お聞かせください。

2016年5月に3期目の当選を果たしたばかりの佐藤信市長は、次のように答弁しました。

鹿沼市の中で南摩ダムが具体的に進んでまいりました。と同時に東大芦川ダムがあった方がよかったと思う方は少数派だと私は思います。

なぜならば、河川改修で洪水調整は図れる。そして鹿沼市が要望していた0.2m3/秒の取水については南摩ダムから取水できるということは、十分それに代わる機能は保証されているということだと思います。

おかげさまで、東大芦川ダムは大変、清流が残りました。すばらしいアユがとれて準グランプリもいただきました。そして大勢の人たちが清流を求めて川遊びに見えておられます。

そういったものをいかに地域の振興に生かしていくかという課題はもちろんございますが、ダムがあったらば、仮定の話になりますから、それですべて解決できたかというと、決してそういう単純な問題ではなかったろうと。

プラス、マイナス当然考えられると思いますけれども、それは県が十数年前に決めたことですから、今、私にどうこう求められてもお答えのしようがない。生かされた条件の中で地域の振興に努めるということに尽きるだろうと思います。


●道路だけが立派になっても意味がない

鰕原議員は「東大芦川ダムが着工されていれば、県道古峯原線の拡幅改良工事等が進み、市民や高齢者にとって安心安全な生活のできる道路整備が更に進んでいたかもしれません」と言いますが、ダムができていれば、どれだけ県道がよくなったのかは分かりません。

また、県道古峯原線は、狭くて危険な道路ではないと思います。無理に拡幅すれば、災害が起こりやすくなるというリスクも考えるべきだと思います。

道路がどうであれ、人口は減少していくのですから、佐藤市長が言うように、道路がよくなればすべてがよくなるかのような幻想を振りまくべきではないと思います。

鰕原議員は、「2003年、ダム中止を決定した当時の社会、経済、政治情勢等と現在は様変わりしている状況等もありますし、自然災害も多く発生しております。またその間、限界集落や消滅可能都市などの言葉が生まれ、急激な人口減少と少子高齢化は、特に山間地の衰退を招き、地域の消滅の可能性が現実としてある。この認識が出てきています。」と言い、状況の変化を枕詞にしているだけで、結局は、状況の変化を全く考慮していないと思います。

●佐藤市長の答弁にも問題がある

東大芦川ダムに未練タラタラの質問に、佐藤市長が戸惑うのも、また、同ダム事業の復活を望む市民が少数派であると答弁するのも当然としても、ダムの水はできるだけ使わないと再三答弁しながら、ダムの水が必要という前提での答弁は不当です。

「いつか使う時が来るかもしれない」という言い訳が通用するなら、無駄な買い物はあり得ないことなります。

●ダム観光も幻想にすぎない

「前日光県立公園を訪れる方の増につながったかもしれません。」とも言いますが、正に「かもしれません。」であり、観光客が増える保証はありません。

「前日光県立公園」とは具体的にどこを指しているのか不明ですが、古峯(ふるみね)神社を訪れる客は、大芦川の清流を見ながら神社に向かうことに魅力を感じていると思いますが、ダムからの放流で大芦川が濁流と化す可能性もあり、そうなれば、その魅力は半減ではすまないほど減るかもしれません。ダムができれば、川遊びや釣りの楽しみを人々から奪うことは確実です。

鰕原議員は、物事にはプラスとマイナスの両面があることを知らないのでしょうか。少なくとも、釣りや川遊びという楽しみを知らないのだと思います。

また、ダムによる地域振興を図った旧・栗山村がどういう運命をたどったのかを知らないのでしょうか。

旧・栗山村への観光客の推移は次のとおりです。
年   宿泊客数  観光入込客数
1989年 420,200 人 642,800人回
2015年 210,142 人   321,516人回
(出典:日光市統計書、栃木県主要観光地の活性化戦略に関する調査研究報告所(2005年1月社団法人中小企業診断協会栃木県支部))

「観光入込客統計に関する共通基準」(2013年 3 月改定、国土交通省観光庁)によると、「観光入込客(かんこういりこみきゃく)」とは、日常生活圏以外の場所へ旅行し、そこでの滞在が報酬を得ることを目的としない者とします。本基準では、観光地点及び行祭事・イベントを訪れた者を観光入込客とします。

そして、「観光入込客数」とは、都道府県の観光地点を訪れた観光入込客をカウントした値で、例えば、1人の観光入込客が当該都道府県内の複数の観光地点を訪れたとしても、1人回と数えることとなります。

旧・栗山村への宿泊客数も観光入込客数も、26年間で半減しています。

1984年に完成した川治ダムの生活再建事業として建設され、85年にオープンした「栗山館」という宿泊施設は、わずか十年余の営業で閉鎖されました(2009年12月9日付け東京新聞【公共事業を問う】【第一部】翻弄される人々(5) ダムありき 『自腹なら造らない』)。

五十里ダムを展望するドライブインも閉鎖されています。

栗山村が日光市に合併された末期を見れば、ダムによる村おこしは無理と悟るべきです。

●宮ヶ瀬ダムによる観光は成功したのか

ダム観光が成功したと言えるような場所はほとんどないと思います。

高橋定雄・唐澤仁士・木暮陽一『ダム不要論を糺すー八ッ場ダム建設中止は天下の愚策ー』(建設人社、2011年)p200〜201は、「ダム湖が観光に寄与している例として、八ッ場ダムと同じ関東圏にあり、同じ多目的ダムである神奈川県の宮ヶ瀬ダム湖を挙げてみたい。」として、清川村の観光客数が増加しているグラフを示しています。

そして、「宮ヶ瀬ダム完成後はダム周辺施設利用者数や清川村総観光客数が増えていることが分かる。」「(ダム湖観光が成り立つかどうかの)本当の答えは、(八ッ場ダムと)同じ多目的ダムである宮ヶ瀬ダムの観光客の入りこみ数に現れているのではないだろうか。」と続きます。

宮ヶ瀬ダムは、1969年に国直轄ダムとして計画が発表され、1971年着工、1987年に本体工事に着工し、2000年12月に竣工しました。

「宮ヶ瀬湖に隣接する相模原市(かつての津久井町)、愛川町、清川村はそれぞれ大規模な湖畔公園を建設した。」(諸星智哉氏のFB)ようです。

宮ヶ瀬ダムがもたらした清川村への御利益はどうだったかというと、第39回土木学会関東支部技術研究発表会(2012年)での「ダム構造物が水源地域に与える影響と効果 −宮ヶ瀬ダムを事例として− 」(芝浦工業大学の学生たち)という論文(2012年執筆か)でさえ、次のようなものを挙げるにすぎません。

以上から水特法が適用された宮ヶ瀬ダムの建設による効果をまとめる.
(1)人口は増加し,その後,維持している.建設後,高齢者人口の増加と若年者人口の減少は見られるが,高齢者比率は全国平均よりも低い.
(2)一時的な建設業の雇用と継続的な製造業とサービス業の雇用の発生が生じている.
(3)産業の就業に関しては上下流の交流が発生している.建設以前,ほとんどみられなかった他地域からの従業者の通勤流入が発生している.
(4)観光客の増加はダム建設によるものであるが,観光客による消費額は少なく,レクリエーションとしての利用が中心である.

「(清川村の)人口は増加し,その後,維持している」と書かれていますが、2008年にピークだった3566人の人口が、2015年には3216人となり、たった7年間で350人、約1割減っています。

上記論文は、宮ヶ瀬ダム完成後、清川村で「継続的な製造業とサービス業の雇用が発生」し、従業者の通勤流入が発生していると報告しますが、後記のように、2015年1月30日付け神奈川新聞は、清川村は「消滅可能性都市」として民間調査機関に名前が挙げられており、「(清川村の)街の活力が失われていく大きな理由は学校を卒業後、外に出て行く若者が後を絶たないことだ。」と報じているのですから、線香花火のような「雇用の発生」を針小棒大に言っているように思います。

上記論文は、所詮土木学会での発表論文ですから、土木学会の意向=国土交通省の意向から大きく外れるわけにはいかないのでしょうから、そこで論じられるダムの効果は割り引いて読む必要がありそうです。

上記論文には、「観光客のほとんどが日帰り客であり,一人当たりの消費額は約 61 円と,非常に少ない.今回対象とした水源地域では観光地として,観光客に消費させるシステムが体系化されていないことが考えられる.すなわち,一般的な観光客に消費をさせるような観光地ではなく,レクリエーション客や学童の団体見学が多いと考えられる.」とも書かれています。

ダムを近隣都県の小中学校の社会科の見学コースに組み込んでしまえば、大量の見学客数を安定的に確保できます。

1人当たりの消費額が約61円ということは、観光客の大半が学童である可能性があります。

『ダム不要論を糺す』で高橋定雄さんたちは、「宮ヶ瀬ダム完成後はダム周辺施設利用者数や清川村総観光客数が増えている」と書きますが、それがどうしたというのでしょうか。

そもそも清川村の日帰り客数は、ダム完成後7年くらいまでは増えて300万人を超えていますが、それ以降減少傾向にあり、2015年には184万人台にまで減っており、今後も減り続ける可能性があります(清川村の観光入込客の状況)。

確かに観光客は昔よりは増えていますが、村にろくにカネを落とさず、村の人口は減っていきます。国の推計では、清川村の人口は、2010年(3459人)を基準とした場合、2040年には64.4%(2228人)にまで落ち込むと予測されています。

清川村の財政は、ダム関係の(固定資産税に相当する)交付金のおかげで健全だとされていますが、資産の減価償却に伴い毎年2000万円ほど減るようです。

2015年1月30日付け神奈川新聞は、次のように報じています。

◆清川村長選まで2週間 人口減と観光振興課題
任期満了に伴う清川村長選(2月10日告示、同15日投開票)の告示まで2週間を切った。現在、出馬表明しているのは2期目の大矢明夫村長のみで、前回に続いて無投票のムードが強まっている。歯止めがかからない人口減少など、県内唯一の村が抱える課題を点検した。

今月23日、大矢村長は3選に向けた公約を発表した。2014年度にスタートさせたばかりの第3次総合計画の重点施策がベースになっているが、小規模多機能型居宅介護施設の整備や、庁舎前にある交流促進センター「清流の館」を拡充した「道の駅」の整備など新規事業も見られる。

大矢村長は「周辺の厚木市、愛川町との間で消防やごみ処理業務の広域化協議を進めており、最後までやり遂げたい」と続投の必要性を強調した。

一方で、2回連続となる無投票の見通しには「課題が山積する村政を運営していくのは相当な覚悟が必要。若い人が挑戦するには厳しいかもしれない」など、寂しさも漂わせた。

〇「消滅可能性都市」
街の活力が失われていく大きな理由は学校を卒業後、外に出て行く若者が後を絶たないことだ。

村の人口は1990年の3549人をピークに減少に転じ、昨年11月末の時点で3088人。大矢村長も就任以来、人口増加や定住促進に力を入れてきた。

具体的には、所得制限なしの中学卒業までの医療費無料化や出産祝い金(10万円)、村有地を活用した宅地分譲、借り上げ型の村営住宅の建設など。他自治体と比較しても先進的で手厚い施策と言えるが、人口は容易には上向かない。

昨年5月、民間研究機関が発表した試算で2040年に子どもを産む若年女性(20〜39歳)が半数以下に減る「消滅可能性都市」にも名前が挙がった。最終手段として市町村合併はあるのか。大矢村長は「人口規模だけで選択すべきではない」と否定的だ。

〇宮ケ瀬ダム15年
村を代表する観光地・宮ケ瀬湖は、国直轄ダムとして完成から今年で15年を迎える。その恩恵として村税収入の約75%を占める国有資産等所在市町村交付金が、現在の健全な財政運営を支える。

だがこの交付金は、ダムの減価償却で毎年約2千万円ずつ減少している。それと同じように数々あったダムの恩恵も今後は目減りする。

ダム水没地域の住民の移転事業として整備された、湖畔の観光施設は約30年が経過して老朽化。レジャーの多様化などを背景として、観光客数は13年度が約70万5千人で、最も多かった05年度の約102万5千人の約3分の2に落ち込む。

観光拠点の水の郷地域には土産物店や飲食店など13店舗がある。地元の観光協同組合長の川瀬正行村議は「どの店も経営状況は厳しく、高齢化や後継者不足に直面している。老朽化した商店街の改修に向けて足並みがそろうか、難しい」と話す。

清川村の未来は決して明るいようには見えません。

ちなみに、愛川町の中山まさき町議会議員は、神奈川県内で清川村と愛川町の人口の減少の仕方が激しいと言います。

ダム観光が比較的成功したとされる宮ヶ瀬ダムでも、この程度の御利益しかないことを鰕原議員は把握した上で発言されているのでしょうか。

●東大芦川ダムの洪水調節効果も幻想にすぎない

鰕原議員は、「何より、河川の洪水調整がなされ、災害の減少につながっていったかもしれません。」と言いますが、この言い方では、東大芦川ダムがないために、大芦川流域で大きな水害が度々起きているかのような誤解をする市民がいると思います。

栃木県が1999年8月に作成した東大芦川ダムのパンフレットにも「大芦川では毎年のように出水被害が発生しています。東大芦川ダムが完成すればこうした被害が軽減されます。」と書かれています。

しかし、私は大芦川での大水害が毎年のように起きているという話は聞いたことがありません。

そもそも大芦川は、掘り込み河川であり、河岸を保護するだけの「護岸」はあっても、河岸の高さを盛り上げた「堤防」のある区間はほとんどありません。(ただし、行政は、掘り込み河川でも「掘込構造の堤防」があると表現するようで、Wikipedia「堤防」の定義とは違います。丹後広域振興局の「河川堤防構造の違いについて」参照)

人家は河岸よりも高い場所にありますから、川から水があふれても常総市の水害のような水害は起きないのです。

昔は、大芦川から水があふれて家が流され、死者が出たこともありました。

1902年9月28日の足尾台風で大芦川流域に死者18人が出たこともありましたが、古河市兵衛が経営する足尾銅山の操業のために西大芦地区の山林が皆伐された時期であったと言われており、そうだとすれば、大きな台風ではありましたが、人災的側面の強い災害でした。

その後、1919年9月17日と1938年9月1日にも台風による被害があり、1947年9月15日のカスリーン台風でも大きな被害がありましたが、地元の人の話によると、大芦川流域の人々は、それまでの被害に懲りて大水で浸水するほど川の近くに家を建てなくなったということです。

栃木県が言っている被害とは、ほとんどが護岸の崩落のことです。

確かに、1998年9月15日の台風5号では、西大芦小学校前の県道の基盤の砂利が洗掘されて崩落しましたが、県が親水公園を建設するために二筋に分かれていた川筋を一本にしたために、激流が県道の下部の護岸に激突するようになったために起きた崩落であり、栃木県の河川工事が招いた自業自得の人災です。

栃木県は、2003年4月29日に「東大芦川ダム費用対効果について」という資料を作成して、費用対効果は1.7と計算しましたが、後日、私が計算根拠を調べると、酒野谷あたりで4mの浸水被害が起きるというデタラメな想定によるものであることが判明しました。

2015年9月関東・東北豪雨でも、草久で24時間雨量380mm(おそらく史上第2位)の豪雨がありました(「2015年9月関東・東北豪雨出水報告会」(2015年12月18日利根川上流河川事務所)p4)が、大芦川流域で大きな被害があったとは聞いていません。

大芦川に大きな被害がない以上、東大芦川ダムに被害軽減効果がほとんどないことも明らかです。

鰕原議員は、公人として、東大芦川ダムがあれば水害を軽減できた、だから環境を破壊してでも、数百億円かけてでもダムを造れと言うのであれば、大芦川流域の水害被害額はどの程度あり、ダムによってどの程度軽減されるのかを定量的に述べるべきです。

税金を使えと言うなら、その根拠を定量的かつ科学的に説明するのが筋です。

直感も時には大事ですが、「河川の洪水調整がなされ、災害の減少につながっていったかもしれません。」という程度の思いつきみたいな話は、一般市民でも酒場で言える話であり、議会でするレベルの話ではないと思います。

県が中止したダム事業の復活を鹿沼市が求めるよう議員が市長に要請することは、あってはいけないということはありませんが、それを言うなら、その政策を支えるデータ(「政策事実」ともいうべきでしょうか。)を示すのが筋でしょう。

不思議なのは、東大芦川ダムがあった方がよかったと主張する鰕原議員が「東大芦川ダムができていれば、鹿沼市は早期に表流水を使えるというメリットがあった」と言わないことです。鰕原議員でさえも、鹿沼市が表流水を必要としていないことに気付いているということなのでしょうか。

●「ダムが消火に役立つ」

鰕原議員は、南摩ダムの治水や利水という名目上の目的が破綻していることに気付いたのか、新たな目的を探してきました。次のように発言しました。

利水、治水、観光と多面的な機能があることがその(南摩ダムの)効果として考えられますが、去る3月、上永野地内の山林火災に際し、自衛隊のヘリコプターが消火活動を行いました。多量の水を群馬県の草木ダムより汲み上げ、散水量245トン、散水回数49回の消火活動を行いました。このことにより鹿沼市の70%を占める山林で大きな山火事が発生した場合、南摩ダムの貯水が災害の拡大を防ぐことに役立つ可能性も分かりました。

治水、大水災害、火災、火事の災害に備える機能がダムにはあるということです。

また私は、南摩ダム事業継続が図れることにより、合併以来交通量が増えています下日向・粟野線、栗沢峠の拡幅改良工事の早期実施に期待しています。

合併して10年以上経ったのに下日向・粟野線、鹿沼市内中心部へつながる道の改良は遅々として進んでいません。下日向・粟野線の拡幅改良工事、南摩ダム建設に関連する事業として粟野より強く要望しておきます。

最後に、ダム建設地及び水源地の市長として、鹿沼の佐藤市長はダム本体工事の着工、完成に向け、自ら進んで積極的な政治活動を行い、鹿沼市の活性化、発展につなげる新たな資源の構築を目指すことをお願いし、次の質問に移ります。

自衛隊のホームページで栃木県鹿沼市における山林火災に係る災害派遣について(最終報)を見ると、2016年3月3日に鹿沼市の谷倉山(やぐらさん)で山林火災があり、「消防による消火活動が行われるも鎮火に至らず。このため、4日(金)04時00分、栃木県知事から陸上自衛隊第12特科隊長(宇都宮)に対して、山林火災の消火活動に係る災害派遣要請があった。」ので、自衛隊が4日の17時まで消火活動を行ったようです。

鰕原議員は、南摩ダムが水がたまらない欠陥ダムだということを知らないのでしょうか。

草木ダムは普通のダムですが、南摩ダムは南摩川の流量が少ないために、黒川と大芦川から導水しないと水がたまらないダムだという違いを認識すべきです。

国土交通省による南摩ダムの 1955 〜 1984 年までの運用計算において、30 年間のうち 12 年は最低貯水量(1000 万m3)になる期間があるとされています。 また、嶋津暉之さんが、国土交通省から開示された流量データや流量年表の流量データを基に、1984 年以降についてシミュレーション(建設省の計算と異なり、最低貯水量 はぜロとする)を行ったところ、1984 〜 88 年の 5 年間と 93 〜 98 年の 6 年間は、毎年連続して貯水量がゼロとなる期間が生じます。このほかにも、90 年、99 年、2001 年にも貯水量がゼロ又はゼロに近づく期間があり、1984 〜2002 年の 19 年間のうち 14 年は貯水が底をつく事態が生ずることが判明しました。

南摩ダムを建設したとしても、鹿沼市内で何年に1度森林火災が起きるか分かりませんし、その時に南摩ダムに水がたまっているとは限りません。

鰕原議員は、そんなギャンブルのように不確実な防火対策のために1907億円を使って南摩ダムを造れと言うのでしょうか。危機管理対策がギャンブルであってはいけないはずですし、費用対効果を無視してもいけないはずです。

とにかく、多くの市民は、東大芦川ダムは中止となり、終わった話と思っているでしょうが、鰕原議員があのような質問をするということは、その背後には復活を目論む勢力が存在するということであり、恐ろしいことに、東大芦川ダムは終わった話ではないということです。

●政策があるのか、理念に反しないのか

鰕原議員のホームページの「えびはら一男の抱負」のページを見ると、同じ文章が2度ずつ繰り返してありますし、「「議会基本条例」の制定」という項目とその説明が合致しておらず、かなりいい加減なつくりになっていることから、議員をやっていて何がやりたいのかが見えません。

それどころか、「美しい自然を愛し」「人と自然が調和した」「美しい自然と共生する”まち”」「鹿沼市の有する豊かな自然は、市民生活に潤いと活力をもたらすのみならず、都市市民にもやすらぎを与える貴重な資源となっています。この美しい自然を、将来にわたり保全・活用し、都市と自然が共生するバランスのとれた美しいまちとして、さらに魅力を高めていく必要があります。」と書かれています。

鰕原議員が環境保護派の政治家だとは知りませんでした。

環境や自然を重要視しているように見えるこのような理念から、なぜダム事業促進という政策が出てくるのか理解できません。

(文責:事務局)
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