若宮戸河畔砂丘の変遷を確認してみた(鬼怒川大水害)

2019-12-10

茨城県常総市若宮戸地区の河畔砂丘がどのように変遷してきたかを主に空中写真で確認したいと思います。

後掲の青山論文やnaruralright.orgの若宮戸の河畔砂丘 12 河川区域外の砂丘掘削の3番煎じになりますが、ご容赦ください。

その前に、若宮戸地区で氾濫が起きれば、大水害が起きることがよく分かる地図がありますので、下に引用します。

2017年に公表された防災基礎講座:地域災害環境編という題名の資料で、国立研究開発法人 防災科学技術研究所 自然災害情報室 の水谷武司(客員研究員)が著者のようです。

溢水の時刻が「6:30」となっていることや「使用」を「仕様」とする誤りがありますが、建築物の集積状況と等高線を見れば、若宮戸地区で氾濫すれば石下地区や水海道地区まで水没する大水害が起きることがよく分かります。

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(1)江連用水組合村水縁図(1839年)

下図は、1839年に作成された江連用水組合村水縁図です。

「2015年鬼怒川水害における被災地初動応答の調査・分析」(坂本 貴啓、佐藤 裕和、白川 直樹)のp58に掲載されています。

測量に基づく地図ではないので、正確な情報は得られませんが、若宮戸地区の河畔砂丘には4条の畝があったこと、当時から松が生い茂っていたこと、左カーブの内側に位置していたことが描かれていると思います。

沿岸の太い黒線は堤防を表すのではないかと思います。そうだとすれば、若宮戸地区の河畔砂丘は、18世紀初頭から山付き堤だったと思われます。

そして、山付き堤は、大房地区や三坂地区にもあったことがうかがえます。

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若宮戸から話が逸れますが、1937年の河川区域図を見ると、三坂地区から若宮戸地区までの1839年の状況は、98年後の1937年まで続いていたように思います。(https://www.naturalright.org/kinugawa2015/若宮戸の河畔砂丘/若宮戸の河畔砂丘-14/には、1937年の茨城県告示の解説があります。)

(2)迅速測図

下図は、迅速測図です。

谷謙二研究室(埼玉大学教育学部)が提供する今昔マップからの引用です。

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若宮戸地区に関する測量に基づく最古の地図は、迅速測図だと思います。迅速測図とは、「明治時代初期から中期にかけて大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部によって作成された簡易地図」(ウィキペディア)です。基本的に2万分の1縮尺です。

新潟大学の災害・復興科学研究所のサイトには、若宮戸地区について次のように書かれています。

1−2 若宮戸地区の鬼怒川左岸部の地形変遷
若宮戸地区の鬼怒川左岸部には,明治時代の地形図(明治17年(1884年)2万分の1迅速図)によると南北方向(河川の流下方向)で約2km,最大幅約250〜300m,最大比高(低地部との標高の差)約8〜9mの河畔砂丘が分布していた.河畔砂丘は,河川に沿って季節風等により形成される地形で,基本的には洪水時の自然堤防の高まり(比高2〜3m程度)に風成の砂層が累積したものであり,河川に沿う形で帯状の高まりとなる特徴がある.若宮戸地区では,今回の洪水の流入部分と集落のすぐ西側に2列の帯状の高まりが分布していたものと推定できる.この河畔砂丘は,鬼怒川の洪水に対して十分な比高(高さ)と幅を有していたため,明治時代以降の鬼怒川の堤防整備の中でも,この区間では築堤を行わず自然地形を利用して洪水を防御していた.

迅速測図は、1880年に陸軍卿山縣有朋によって地図作成が命じられ、1886年に完成しました(ウィキペディア)が、新潟大学によれば、若宮戸地区については1884年に作成されたようです。

河畔砂丘の長さと幅については正しい記述だと思いますが、「最大比高(低地部との標高の差)約8〜9mの河畔砂丘が分布していた.」については疑問です。

三角点の標高がT .P .32.25mなので、周囲の平地の地盤が仮に20m程度あったとしても、最大比高は12m程度となり、「約8〜9m」よりもはるかに大きいからです。

迅速測図から何が分かるかというと、下図のとおり、4条の畝があること、現在の3本の常総市道に相当する道路は、1880年代に既に存在したことです。

4条の畝のうち、最も西側(川に近い側)の畝は小さく、治水上の意味は大きくなかったと思います。

河畔砂丘の畝の分析については、上記若宮戸の河畔砂丘 12 河川区域外の砂丘掘削に詳しいのでご参照ください。

市道路線図は、鬼怒川水害のサイトを参照。

興味深いのは、下流側溢水箇所の市道東0280号線の北側に縦長の長方形が描かれており、利用目的は不明ですが、下流側溢水箇所付近は古くから開発されていたということです。

なお、この時代には、河畔砂丘は全くの無堤地帯であり、河畔砂丘の上・下流端が堤防につながっています。

つまり、河畔砂丘は、「山付き堤」の「山」に当たります。

若宮戸地区の河畔砂丘は、巨大な砂の塊であり、水害とは最も縁遠い所であり、ここが水害の原因箇所となるとは、明治時代の人たちには想像できなかったと思います。

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(3)国土地理院の5万分の1地図(1928〜1945年)

下図は、国土地理院の5万分の1地図で、今昔マップからの切り出しです。

今昔マップによれば、5万分の1地図の測量時期については、「1928〜1945年」と幅がありますが、鎌庭捷水路の完成前なので、1935年より前ということになります。

1934年測量だとしても、迅速測図から半世紀以上経過していますが、三角点の標高は32.1mで、迅速測図の時よりわずか15cmしか低下していません。

下流側の堤防は、迅速測図同様、河畔砂丘の下流端(赤矢印の地点(左岸24.0k付近))でつながっています。

5万分の1地図は測量時期が新しいものの、2万分の1縮尺の迅速測図よりも精度に欠けますが、河畔砂丘の近くでは、左カーブの内側に砂が堆積している様子が描かれているので、1930年前後の時代にも「日光おろし」と呼ばれる北西季節風で飛ばされた砂が河畔砂丘を育てていた可能性はあると思います。

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(4)1947年10月26日撮影の写真

下の写真は、アメリカ軍が1947年10月26日に撮影した写真です。国土地理院のサイトからです。これが若宮戸地区を写す最古の空中写真と思われます。

(1)の迅速測図が1880年の状態だったとすると、それから67年後です。鎌庭捷水路の完成(1935年)の12年後です。

カスリーン台風の襲来が1947年9月8〜17日なので、その1か月以上あとです。2年後にはキティ台風に襲われることになります。

下の写真から何が分かるかというと、鎌庭捷水路により若宮戸地区の河畔砂丘付近の鬼怒川の流れは、左カーブの内側だったものが、右カーブの外側になり、河畔砂丘の北半分は、水衝部となったということです。

つまり、鎌庭捷水路により屈曲部の危険は除去されましたが、その直下流の若宮戸地区が安全な箇所から危険箇所に変わったと言えると思います。

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下の写真は、上の写真の高解像度表示です。所々伐採されていることが分かります。

私が描いた赤楕円が溢水箇所です。

特徴的なのは、左岸の護岸と河畔砂丘の西端を走る道(現在の市道東0272号線)との間に結構な幅(最大で60m程度か)の土地があって、畑として利用されていたように見えます。

この土地は、迅速測図に陸地として描かれていましたし、建設技術研究所の報告書によれば地番も振られていたことが分っているので、寄州ではないのですが、その後、多くが消失します。その状態は、2015年の鬼怒川大水害以降も続きます。この問題の検討は、末尾で行います。

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(5)1961年8月10日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

(4)の写真から14年経っています。

その間、1949年にキティ台風があり、十一面観音付近でも被害がありました(根拠は「石下町史」略年表)。カスリーン台風又はキティ台風の後で、堤防は、既存部分のかさ上げを伴いながら、24.00k付近から24.63k付近まで折れ曲がりながら市道東0280号線まで延伸されたと推測されます。

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下の写真は、上の写真の高解像度表示です。

撮影時期が8月なので、草木が繁茂し、開発状況が見づらいですが、後に鶏舎のできる辺りや事業者Bのソーラーパネルが設置される辺りは、大きな面積で伐採されていることが見て取れます。

上記のとおり、この1961年写真では、河畔砂丘と河岸との間の土地は、極めて狭くなっています。

(4)の1947年の写真には、河畔砂丘の北側の河岸近くにも寄州が見られましたが、1961年になると、寄州は対岸と南側沿岸の付近にしかありません。

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(6)1964年5月16日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

東京オリンピックの直前の状況です。

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下図は、上の写真の高解像度表示を拡大したものです。

群馬大学教育学部の青山雅史准教授は、「土地履歴からみた液状化被害・水害の発生要因と危険度評価の検証」で、次のように分析しています。

1964 年 5 月国土地理院撮影空中写真を判読すると,河畔砂丘の河道側(西側)の鬼怒川 左岸河床において,砂の採掘を示すものと思われる痕跡が読み取れる.現在から約 50 年前 (1965 年前後)までは鬼怒川河床において砂の採取がおこなわれていたといった聞き取り 調査結果も得られている.河畔砂丘については,1947 年段階から大きな地形変化は認めら れない.
聞き取り調査によると,1964 年東京オ リンピックの頃から 1970 年代中期まで河畔砂丘を削り,砂を採取していたとのことであり, 後述するように,この河畔砂丘において砂の採取のため河畔砂丘を削った旨を 1968 年に記 述した石碑が存在することなどから,砂の採取工事によってこの河畔砂丘の削剥が進行し たものと判断できる.

また、naturalright.orgの分析によると、3年前の1961年の写真と比べると、次の3点が違います。

1964年時点では、河畔砂丘自体への砂採取はほとんど行われていないようです。

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(7)1967年3月29日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

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下の写真は、上の写真の高解像度表示です。

市道東0272号線のうち河畔砂丘の中央部を横断する部分の北側で砂採取が広がっています。

河畔砂丘の南半分の河川敷での砂採取も進み、3年前の1964年と写真と比べると、寄州の面積は、3分の2くらいに縮小していると思います。

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(8)1968年8月22日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

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下の写真は、上の写真の高解像度表示です。

(7)の写真から1年4か月程度で河畔砂丘の北半分の東半分で、元々平坦だった所を除いて、全面的に砂採取が行われたと見るべきだと思います。

堤防が折れ曲がった部分の伐採面積が広がっているのも、(7)の写真とは違うところです。

河畔砂丘の下流側の河川敷では、相変わらず砂採取が行われていると思います。

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(9)1972年9月27日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

(8)の写真から4年後です。その間の砂採取は凄まじかったようで、河畔砂丘の南半分でも活発に行われたようです。

その結果、河畔砂丘は、モヒカン刈りのようにも見えますし、魚が三枚おろしにされて中骨だけが残っているようにも見えます。

上記青山論文によると、1972年当時の河畔砂丘の面積は19.2haであり、1947年当時の41.7haの46%と大幅に減少したといいます。

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下の写真は、上の写真の高解像度表示です。

迅速測図では4条確認された畝のうち、東から2番目と3番目の畝が残っているだけですが、その「中骨」の中にも伐採された箇所や鶏舎が建てられた箇所はくびれています。

また、残された畝には、慰霊塔の敷地など伐採された跡も見られますが、地盤の掘り下げをしたようには見えません。

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(10)1975年1月3日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

(9)の写真から2年以上経っています。

後にソーラーパネルを設置されることになる上流側溢水箇所には家具工場を建設中のようです。

上記青山論文では、1975年の空中写真について次のように分析されています。

この空中写真の判読から,河畔砂丘におけるかつての砂の採取地のほとんどは上述の工場や空き地などへと変化し,砂の採取がおこなわれている様子は読み取れ ない.したがって,この時期には河畔砂丘における砂の採取は終了していたと思われる.


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(11)1980年10月2日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

上流側では、鶏舎は3棟に増え、その北側の家具工場は完成したようです。

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(11)1984年11月22日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

1980年撮影の写真と大きな違いはないと思います。

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(13)1990年10月1日の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

1984年の写真と大きな違いはありませんが、家具工場の東側に住宅団地ができたことが違います。

また、中央部には、1989年に建立した鬼怒砂丘慰霊塔が見えます。(小さな慰霊塔は昔からあり、1966年の河川区域指定告示の添付図に記載されています。)

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(14)2005年2月6日撮影の写真

下の写真は、グーグルアースからです。

引用していませんが、1994年撮影の国土地理院写真には見られた家具工場は撤去されています。

下記サイトによれば2005年5月に完成する橋長508mの鬼怒川水管橋が建設中です。

http://tonegawanohashi.web.fc2.com/22kinugawa/kinugawasuikankyou2/kinugawasuikankyou2-1.htm

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(15)2008年9月9日撮影の写真

下の写真は、国土地理院のサイトからです。

2005年撮影のグーグルアース写真と大きく変わるところは見当たりません。

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(16)2010年11月30日撮影の写真

下の写真は、グーグルアースからです。

2008年撮影の写真と大きく変わらないと思います。

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(17)2012年3月16日撮影の写真

下の写真は、グーグルアースからです。

目立った変化はないようですが、2005年2月撮影の写真と比べると、緑が薄い感じがします。松が枯れているのかもしれません。

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(18)2013年6月4日撮影の写真

下の写真は、グーグルアースからです。

特に変化は見られません。

ソーラーパネルが設置される前年の状況です。

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(19)2014年3月22日撮影の写真

下の写真は、グーグルアースからです。

事業者Aのソーラーパネルが設置され、操業直前の状態です。

事業者Bが河畔砂丘の削平を始めた様子も写っています。

撮影日の10日前の3月12日には、地元住民が「通称十一面山でソーラーパネルの基礎工事で掘削している。この行為は堤防を切っていることと同じ。国土交通省で止めるよう動いて欲しい。」との要望を下館河川事務所鎌庭出張所に訴えています(『平成27年9月関東・東北豪雨』に係る 洪水被害及び復旧状況等について国土交通省 関東地方整備局(2017年4月1日)p20)ので、3月12日が事業者Bの造成工事着手日だと思います。

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(20)2015年2月2日撮影の写真

下の写真は、グーグルアースからです。

事業者Bのソーラーパネルも設置されています。

被災する7か月前です。

土地所有者が地元の人間だったら、水害を招くほどの、自傷行為に等しい地盤の掘り下げはしなかったと思いますが、所有者が他の自治体の企業なので、遠慮容赦のない地形改変ができたのだと思います。

この問題は、法人や外資が参入してきた場合の怖さを教えていると思います。

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(21)2015年9月11日撮影の写真

下の写真は、グーグルアースからです。

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●ここまでのまとめ

下図は、左が迅速測図、右が2015年10月9日撮影のグーグルアースからです。


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冒頭にも書いたとおり、1884年に作成されたとされる迅速測図でも、左岸堤防は、河畔砂丘のある区間においては存在しないのであり、河畔砂丘は、「山付き堤」の「山」として機能してきました。

迅速測図とあまり変わらない状況は、1961年までは確認できますが、高度経済成長期(1954年12月から1973年11月までの約19年間)の半ば頃の1964年頃から砂採取等により河畔砂丘の平地化が進み、その8年後の1972年には、大きく見て3条あった畝の中央部の畝しか残らず、幅の広かった部分でも、約5分の1の約50mになっていました。鶏舎の東側では10m程度しかなかったと思います。下流側溢水箇所にあった地盤の高まりの幅は、もっと狭かったと思います。

空中写真では、河畔砂丘の高さの変遷は分かりませんが、一様に高かったわけではないことを併せ考えると、1972年時点で堤防と同等の機能を期待することは困難だったと思います。

鬼怒川大水害は、河畔砂丘の堤防機能の脆弱化が進んだこと及び河川管理者がこのことに無頓着であったことにより発生したと見るべきです。

河川区域外の平地化は河川区域の拡張指定により阻止すべきでしたが、特に河川区域内の平地化は、河川管理者の許可によりなされてきたのですから、その責任は一層重いと言うべきです。

要するに河川管理者は、若宮戸地区の河畔砂丘を「山付き堤」の「山」として利用する以上、これを買収して管理・保全すべきだったし、買収しないのであれば、築堤を急ぐべきであったし、少なくとも河川区域に指定して保全すべきでした。

以上三つの方策のいずれをも講ずることなく、河川を危険な状態に置いたことに瑕疵があると思います。

●「ヒラメの縁側」が消えた

下の写真は、1947年と1961年の写真の比較です。

(4)で書いたように、1947年撮影の写真には、青矢印で示すように、河畔砂丘の北半部の西側(河川側)には、市道東0272号線のうち河畔砂丘の西端に沿って走る部分と護岸の間に「ヒラメの縁側」のような、棚状の土地(広い所で幅60m程度か)が張り付いていました。護岸が施工されていたと思いますし、時々洪水が乗る肥沃な土地であり、おそらく桑畑などに利用されていたと思います。

なお、「ヒラメの縁側」は、1966年の新河川法による河川区域指定告示までは河川区域外であり、制限を受けない所有権が保障されていました。(1966年までの河川区域については、1937年11月8日の茨城県告示を参照)

ところが、その14年後の1961年には、その「ヒラメの縁側」の大半(雑に計測して約1.3ha)が消失しています。

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その「ヒラメの縁側」はどんな土地だったかというと、迅速測図には陸地として描かれていたし、地番が振られていたことは、株式会社建設技術研究所の報告書「2014年度三坂地先外築堤護岸設計業務」の図4.3や1966年12月の河川区域指定告示の添付図(下図は鶏舎付近。点線は公図の区画を示すと思われます。出典は若宮戸の河畔砂丘 13 河川区域内の砂丘掘削)からもうかがえます。



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建設技術研究所の報告書の「図4.3公図(河川区域重ね合わせ)」を見ると、河畔砂丘の北半部の沿岸では、市道東0272号線の西側の地番の振られた土地の区域の中に護岸が侵入しています。9筆の土地の一部が「河川の流水が継続して存する土地」(河川法第6条第1項第1号)になってしまったのです。右岸に変化はないので、要するに、川幅が広がったのです。

●「ヒラメの縁側」はなぜ消えたのか

「ヒラメの縁側」が消えた理由として、河川管理者が除去したという可能性もあるでしょうが、(4)で示した1947年の写真(下に再掲)から分かるように、鎌庭捷水路によって、その直下流が左カーブから右カーブに変わったので、カーブの外側にある「ヒラメの縁側」に水流が当たって削られたと見るのが素直な解釈だと思います。

ちなみに、河畔砂丘の対岸に寄州が形成されているのも、鎌庭捷水路完成以前にはなかった現象だと思います。

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●河畔砂丘は死守すべきだった

要するに、若宮戸地区の河畔砂丘は、鎌庭捷水路により14年間で50mも土地が削られるほど激しく流水がぶつかる水衝部となり、水位が上がりやすくなったのですから、溢水して氾濫する危険性が極めて増大したということです。したがって、河畔砂丘は死守すべき場所だったのです。

それにもかかわらず、鬼怒川の河川管理者は、河畔砂丘の衰退に無頓着で、河川区域内での砂採取を許可し、河川区域外での砂採取は拱手傍観していたために2015年水害が発生したと考えられます。

(文責:事務局)
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