「水は低きに流れる」を国が理解できないから大水害が起きた(鬼怒川大水害)

2022-02-09

●「ドベネックの桶」を引き合いに出した原告側の主張

原告側は、原告ら準備書面(8)p10〜12において、概要「河川の改修計画の策定(及びその実施)においては、様々な要素を考慮しなければならないことは当然であるが、堤防決壊の最大の要因は越水なので、現況堤防高を第一に考慮しなければならない。例えば、桶の側板の長さが違っていると、その側板の最も低い箇所の高さまでしか水をためることができない。したがって、その低い箇所からの水の流出を防ぐには、そこに使われている板をもっと長い板に取り替える必要がある。堤防整備も同じことであり、越水型決壊を防ぐには、連続する堤防の最も低い箇所のかさ上げをする必要がある」と主張しました。

側板の長さが違う桶が「ドベネックの桶」というわけです。

●「ドベネックの桶」とは何か

「ドベネックの桶」は、ドイツの化学者・ユーストゥス・フォン・リービッヒが提唱した「リービッヒの最小律」を分かりやすく説明するために用いたたとえのようです(Wikipediaリービッヒの最小律)。

「リービッヒの最小律」とは、「植物の生長速度や収量は、必要とされる栄養素のうち、与えられた量のもっとも少ないものにのみ影響されるとする説」(同)であり、現在では謬論とされているようです。

「ドベネックの桶」は、「たとえ一枚の板のみがどれだけ長くとも、一番短い部分から水は溢れ出し、結局水嵩は一番短い板の高さまでとなる。」ことを示すものとされています。(ドベネックが何者かは不明です。)

「リービッヒの最小律」は植物栄養学の一説ですから、専門知識がないと議論できませんが、「ドベネックの桶」は、一番短い板の部分から水が溢れ出すという、誰もが経験的に知っていることであり、水は自在に形を変えて、低い箇所を目掛けて流れていく、という単純な物理法則を示すだけです。物理学的な説明となると、無学な者にはできませんが。

●被告の反論

被告は、被告準備書面(9)p6において、次のように反論します。

なお、原告らは、いわゆる「ドベネックの桶」を例として、「堤防整備もこれと同じことである。」と主張する(原告ら準備書面(8)10ないし11ページ)。

しかしながら、勾配を有し、流下する河川の堤防整備と水を貯める水桶の補修とが、その在り方が同じでないことは自明である上、この水桶の例では、側板の高さだけを考慮すれば足りることが前提とされている(なお、この例でさえ、現実には側板の一部が腐食していたり、たがが緩んでいたりする可能性等の事情があれば、単に「高さの最も低い側板を所定の天端幅のものに取り替え」れば良いという前提は成立しない。)のに対し、前述したとおり、堤防整備における考慮事項が堤防の高さだけでないことからすると、上記例は例えとしても適切なものではなく、原告らの主張は理由がない。


●器に低い部分があれば危険なのは流水でも同じ

被告は、「勾配を有し、流下する河川の堤防整備と水を貯める水桶の補修とが、その在り方が同じでないことは自明」と主張します。

しかし、竹樋を使用した流しそうめんを想像すれば分かるように、竹樋の縁の一部に水面より低い、欠けた部分があれば、水はそこから溢れ出てしまいます。(欠けた部分がなくても、竹樋が下に折れ曲がっているだけで溢れるでしょう。)

たまり水でも流水でも、水は低い部分を越えて、ためることも流すこともできない、つまり、水は低きに流れる、という意味で「その在り方が同じ」であることは自明であり、「その在り方が同じでないことは自明」という主張こそ誤りです。

●被告はモデル自体に反論した

年端のいかない子どもでも理解でき、誰も反論できないと思われた「ドベネックの桶」を否定してきたことは、原告側も想定外だったでしょう。

被告は、「この水桶の例では、側板の高さだけを考慮すれば足りることが前提とされている(なお、この例でさえ、現実には側板の一部が腐食していたり、たがが緩んでいたりする可能性等の事情があれば、単に「高さの最も低い側板を所定の天端幅のものに取り替え」れば良いという前提は成立しない。)のに対し、前述したとおり、堤防整備における考慮事項が堤防の高さだけでない」と主張します。

しかし、原告側は、「ためる水の面の高さは最も低い側板の高さ以上にはならない」、つまり、水は低きに流れる、という単純なことを、「ドベネックの桶」というモデルを持ち出して説明しているだけです。

つまり、「ドベネックの桶」は、モデル、理念型、典型例として使われていることは明らかであり、モデルなので、水漏れの様々な要因のうち、桶の側板の長さだけを問題にし、それ以外の要因を捨象したモデルであることは、イラストを見れば、常識的に誰でも了解できることです。

つまり、「ドベネックの桶」を持ち出して説明するということは、板の長さ以外に水が漏れる要因が存在しないと仮定することなので、側板が腐食していたら、とか、たがが緩んでいたら、というような仮定を考えなくてもいいのは当然です。

被告の主張は、「平均時速50kmで走る自動車が2時間走ったら、走行距離は100kmになる。正しいか」と出題されて、途中で事故を起こして自動車が大破するかもしれないので、100km走れるとは限らないから正しくない、と回答するような屁理屈です。

要するに、被告は、モデルを使った説明は成り立たないと主張しています。

●被告だってモデルを使っている

物事を単純化したモデルを使って説明することは普通に行われていることであり、河川関係では、氾濫シミュレーションでも使われています。

また、被告は、雨量から流量を計算する際にタンクモデルを使っています。ほとんどはコンサルタントへの委託でしょうが。例えば、降雨と洪水流量の関係という国土交通省のサイトを参照。

考えてみれば、「ドベネックの桶」は、一種のタンクモデルとも言えます。

なぜなら、「タンクとは貯留槽のことであり、タンクモデルは、河川の流出量の予測などに使われる雨量と水位、流出量の関係を表すモデルである。 もちろん、通常の液体の貯留槽の解析や液面制御系の解析などもタンクモデルで表現できる。」(pukiwikiタンクモデル)からです。

「ドベネックの桶」は、側板の長さが異なるので、厳密に言えば、「通常の液体の貯留槽」とは言い難い面がありますが。(タンクモデルについては深入りしません。1972 年に国立防災科学技術センターの菅原正巳により提案されたモデルだと言われています。興味のある方は、菅原の論文「タンク・モデル」参照。使い方によっては、市民をケムに巻くブラックボックスにもなります。菅原は、真面目な人のようで、流域平均降雨量とか流域平均蒸発量とかの実測値がない数字が大手を振って歩くことを警戒していました。)

被告は、基本高水流量を計算する際にタンクモデルを使っているのに、市民の側が「水は低きに流れる」、「水は低い部分から漏れ出る」という当然のことをタンクモデルを使って説明すると、板の長さだけを問題にすればいいという、原告側に都合のよい前提が成立しないから受け入れられないと主張するのですから、ご都合主義です。

●「堤防整備もこれと同じ」への反論は藁人形論法だ

原告側が「堤防整備もこれと同じことである。」と主張したことに対して、被告は「堤防整備における考慮事項が堤防の高さだけでない」と反論します。

しかし、原告側は、「堤防整備における考慮事項が堤防の高さだけ」であると主張していません。「河川の改修計画の策定(及びその実施)においては、様々な要素を考慮しなければならないことは当然である」(原告ら準備書面(8)p10〜12)と述べています。

堤防(堤防類地でも同じはず。)は、その最も低い箇所の高さまでしか洪水を流せない、と言っているだけです。

被告の反論は、原告側が言っていないことへの反論であり、詭弁(藁人形論法)です。

●被告が「ドベネックの桶」まで否定するのは異常だ

注目すべきは、被告が「ドベネックの桶」まで否定するという過剰反応をしていることです。異常です。錯乱しているとも思えます。

原告側は、二段階で主張しました。

つまり、第1段として、「ドベネックの桶」を持ち出し、最も低い板の高さ以上に水をためようとしても溢れてしまうと言い、第2段として「堤防整備もこれと同じことである。」と主張しました。

被告が第2段について、たまり水と流水とは違う、とか、堤防整備で考慮すべき事項は高さだけではない、とかのイチャモンを付けることは想定の範囲内でしたが、「ドベネックの桶」というモデル理論自体が成立しないとまで言ったことは想定外でした。

つまり、「(なお、この例でさえ、現実には側板の一部が腐食していたり、たがが緩んでいたりする可能性等の事情があれば、単に「高さの最も低い側板を所定の天端幅のものに取り替え」れば良いという前提は成立しない。)」という括弧書きの部分に注目すべきです。(したがって、原告側は、この括弧書きの部分、つまり、「ドベネックの桶」自体を否定していることに対してしっかり反論すべきだと思います。)

「ドベネックの桶」を否定することは、「水は低きに流れる」という物理法則を否定することであり、河川管理者の対応として、普通は考えられないことです。

被告がなぜ単純な原理を示すモデルの成立を否定してまで過剰反応するのかと言えば、被告が「水は低きに流れる」、「水は低い箇所から漏れ出る」という単純な物理法則を軽視してきたという現実を認めたくない、あるいは裁判所に気づかれたくない、という発想からだと思います。

「ドベネックの桶」を使った攻撃は、被告の痛いところを突いているのだと思います。(土のうについてですが、naturalright.orgは、2015年10月30日という早い時期に「ドベネックの桶」を使って説明しています。自然堤防とは何か 若宮戸ソーラーパネル事件 3参照)

「洪水は、堤防や堤防類地の低い部分から溢れ出る」という基本の「キ」を河川管理者が理解してこなかったから鬼怒川大水害は起きたことが明確に浮かび上がるような議論は最初から潰しておきたいというのが、被告が「ドベネックの桶」自体を否定することのねらいだと思います。

したがって、原告側は、被告が「ドベネックの桶」自体を否定することの意味を解き明かすような反論をすべきだと思います。そうでなければ、せっかく「ドベネックの桶」を持ち出した意味がないと思います。

●「ドベネックの桶」と堤防整備の在り方を結びつけることに無理はないのか

原告側が「ドベネックの桶」で攻めるのは意味のあることだと思いますが、調査官解説第三図と同じ原理を説いている、とする原告側の攻め方が適切なのかは疑問があります。

原告側は、原告ら準備書面(8)のp10〜11において、次のように書きます。

これに対して、高さの最も低い側板を所定の天端高のものに取り替えると、次に低いものの高さまで水が入れられるようになる。
これを繰り返して、水を入れられる高さを段階的に高くしていき、全ての側板が所定の天端高になると、天端満杯まで水を入れることができるのである。
この考え方を絵にしたのが「ドベネックの桶」であり、図にしたのが調査官解説第三図であり、両者は、表現形式は異なるが、同じ原理を表している。

つまり、「ドベネックの桶」は堤防整備の過程と同じだと言います。

しかし、このたとえの作者のドベネックの念頭に桶の製造工程があったとは思えません。

「ドベネックの桶」のたとえは、単に、桶がためられる水量は、一番短い板の長さを越えない、と言っているだけだと思います。

原告側は、「高さの最も低い側板を所定の天端高のものに取り替えると」と言いますが、最初から所定の高さの側板を使えばいいと思います。なぜ最初に短い板を使い、その後長い板と取り替えるのか、理由が分かりません。

桶の作り方をネットで調べた限りでは、最初から長い板を使っており、最初は短い側板を使い、長い側板に取り替えながら作るという方法は、見つかりませんでした。

世界のどこかには、そういう桶の作り方もあるのかもしれませが、例外的だとすれば、堤防整備の過程と同様である、と一般化するのは難しいと思います。

「ドベネックの桶」の図と、堤防整備の過程を示す調査官解説第三図が「同じ原理を表している」という主張に対して、裁判所がなるほどね、と受け取るかは疑問です。

●1箇所の弱点があれば堤防は無意味になることを訴訟当事者は理解していない

公益財団法人 河川財団 研究フェロー戸谷(とや)英雄は、「河川施設管理の現状と課題堤防を中心として」という論文において、次のように書きます。

・氾濫原を同じくする連続堤防は、一点の弱点(蟻の一穴)から破堤すると、連続堤防全体の機能を失うことになる。
・長大堤防の強度(安全性)は、マス構造の平均ではなく、ミクロな弱点が決める。

戸谷の言っていることは、「ドベネックの桶」と大差なく、「水は低きに流れる」という単純な物理法則でしかないと思います。

水害被害を最小化するために河川管理者がやるべきことは、氾濫すれば被害が大きい区間で、かつ、堤防又は堤防類地で極めて脆弱な区間(具体的には、堤防高で言えば、現況余裕高が計画余裕高の5分の1以下の区間が考えられます。)を緊急に整備していくことであり、漫然と下流から整備していくことでないことは普通に考えたら分かることです。

「氾濫原を同じくする連続堤防は、一点の弱点(蟻の一穴)から破堤すると、連続堤防全体の機能を失うことになる。」という条理が堤防類地にも当てはまるはずです。

原告側も、河畔砂丘の地盤高が概ね計画高水位を上回っていれば安全性は確保されているかのごとく言っているのですから、被告同様、この条理を理解していないと思います。

原告側が「ドベネックの桶」を何度も強調していることとチグハグだと思います。

●戸谷の言葉を別の言葉で表現した人たちがいた

戸谷の言葉を別の言葉で表現した人たちがいたことを紹介します。

全地連「技術フォーラム2011」京都 河川堤防のモニタリングについて(その1)という論文で群馬大学大学院 松本健作らは次のように書いています。

河川堤防はその連続性が保証されて,始めて全体として機能する構造物であり仮に1区間でも弱点箇所があると,そこから出水時に破堤に至り,堤内地の広範囲に激甚な被災が及ぶこととなる.

戸谷と同じことを言っていると思います。

この条理が堤防類地に当てはまることは明らかだと思います。

松本らは明記していませんが、ここで言う「河川堤防」とは「氾濫原を同じくする連続堤防」であることを前提としています。

氾濫原が異なれば、堤防が連続していても、1箇所で破堤しても、「堤内地の広範囲に激甚な被災が及ぶこと」はないはずです。

●被告から戸谷理論への反論

ちなみに、「長大堤防の強度(安全性)は、マス構造の平均ではなく、ミクロな弱点が決める。」という戸谷理論に対しては、被告は、「ミクロな弱点の発見は困難であり現実的に不可能を強いるものである」と反論していることになると思います。

なぜなら、被告準備書面(1)p45〜46に、次のように書かれているからです。

そのため、水害を完全に防止するような対応を行うことは技術的に困難を極める。
(略)
この点、鬼怒川では、250m間隔で距離標を設置し、平成27年9月の近年では平成16、20、23、27年度と定期縦横断測量を行い、また、航空写真による河道状況の把握等を実施しているところであるが(乙第52号証)、長大な河川のどこで氾濫が発生するかあらかじめ詳細に把握することは技術的に困難である。このため、上記に加え、日々の河川巡視などを通じ、現状を把握できるよう努めているのであるが、計画高水位を超過したり、過去最高水位を記録するような洪水に対して、現況の管理レベルでの氾濫回避は、極めて困難であった。
鬼怒川を含む河川の改修には、以上のような技術的制約が内在する。

被告はここでも藁人形論法を用います。

「水害を完全に防止するような対応を行うことは技術的に困難を極める。」と言いますが、人間が自然の力に勝てないことは当然であり、水害を完全に防止することなど所詮不可能です。

原告らも、「水害を完全に防止するような対応を行うこと」を被告に求めていたのではなく、防止できる水害を防止すべきだった、と主張しているにすぎません。

被告は、「水害を完全に防止するような対応を行うこと」という誰も唱えておらず、かつ、誰が考えてもおかしな主張をでっち上げて、鬼怒川大水害は防止できた水害なのか、という本質的な問題から議論を逸らそうとしているのです。

それはともかく、被告は、「鬼怒川では、3〜4年おきに250m間隔で定期縦横断測量を実施し、航空写真も撮影し、河川巡視も実施することによって現状把握に努めてきたのであり、それでもなお「ミクロな弱点」が発見できなかったとしても、その理由は、鬼怒川は長大な河川なので、当該発見は技術的に困難であったからだ」という反論をしていることになります。

つまり、技術的制約があるから「ミクロな弱点」の発見を管理者に要求することは、不可能を強いることになる、という反論です。

しかし、明確な時期は不明ですが、遅くとも2000年以降は、簡易で安価な測量技術が発達したはずです。そのことは、被告がよく知っているはずです。

測量地点の間隔を250mよりも短くしたら、時間も経費も莫大になるから無理だ、という話は、昔の話であり、現在では通用しません。

G P S測量なら5分で結果が出るし、鉛直方向の誤差も2cm程度なので、短期間で安価に堤防高を40mや50mの間隔で測量することが可能です。

実際、2005年度の中三坂測量及び築堤設計業務では、築堤設計の前提の作業として、L18.50k〜L21.25kの区間で40m間隔と約20m間隔で測量しており、これはG P S測量を使ったと思われます。

また、2011年度には、定期測量と同時期に鬼怒川全川にわたって距離標の間の堤防高を数十メートル間隔で細かく測量しています。

航空写真についても、昔は多額の経費がかかり、高い高度から1回撮影するのがやっとで、それゆえ精度が悪かったのかもしれませんが、ドローンが飛ばせるようになってからは、低い高度からじっくり何度も撮影できるので、現状把握の精度は上がったはずです。

河川巡視や堤防点検は昔からやってきたのでしょうが、L21k付近の堤防天端が水たまりができるほど不陸になっていても報告書に記載されない(seesaa.netoの開示文書)のですから、巡視や点検は役に立っていません。

巡視や点検を真面目にやらなかったのに、巡視や点検をやったが弱点が見つからなかったのだから不可抗力だ、という理屈は通りません。

堤防類地に計画高水位以下の異常に低い箇所等の問題箇所があっても報告する必要がないことになっていたとすれば、管理の落ち度でしょう。

堤防における「ミクロな弱点」の発見は、21世紀以降は、かなり容易にできたはずです。ただし、2000年までは「ミクロな弱点」の発見が不可能又は著しく困難だったという意味ではありません。重要水防箇所を見ると、消防団の意見も入るせいか、「ミクロな弱点」を指摘しています。

技術的制約があるから弱点の発見が困難だったという被告の主張は、技術の発達を無視した時代錯誤の言い訳であるのみならず、実際に、おおよそ20mとか40m間隔の測量がなされており「ミクロな弱点」を浮かび上がらせているのですから、破綻しているのです。

●もう一つのチグハグ

話を戸谷英雄の説に戻します。

上記のとおり、戸谷は、次のように言います。

・氾濫原を同じくする連続堤防は、一点の弱点(蟻の一穴)から破堤すると、連続堤防全体の機能を失うことになる。
・長大堤防の強度(安全性)は、マス構造の平均ではなく、ミクロな弱点が決める。

原告側は、同じ認識を持っていると思われます。

分からないのは、ここから先です。

「氾濫原を同じくする連続堤防は、一点の弱点(蟻の一穴)から破堤すると、連続堤防全体の機能を失」い、甚大な被害が発生するのであれば、堤防の1箇所でも決壊の危険性があれば、緊急に改修すべきと考えるのが普通だと思います。

悠長に下流原則を適用している場合ではないと思いますが、原告側は、たとえ連続堤防が「氾濫原を同じくする」場合であっても、下流原則を適用することに異論はないと言います(原告ら準備書面(8)p 34 )。堤防についての安全性の評価に問題があったので優先順位を間違えただけだと言います。

原告側には緊急に築堤する義務があったという発想はありません。

そもそも原告側は、「緊急性」という言葉を滅多に使いません。

大東判決を引用する場合には使っていますが、氾濫した箇所について改修する緊急性があったとは、一つの例外(原告ら準備書面(8)p21)を除いて、言いません。1箇所だけ「緊急性」を使った理由は不明ですが、言葉を厳密に使い分けていないから混用しただけで、改修の順番の問題は全て「優先」の問題だと考えていると見てよいと思います。独特の考え方だと思います。

●1票の格差訴訟の判決は普通の発想だ

2022年2月1日付けのN H Kの電子ニュース去年10月の衆院選は「違憲状態」1票の格差めぐる判決 高松高裁には、「一連の裁判で初めての判決が1日、高松高等裁判所で言い渡され、神山※リュウ一裁判長は「選挙区の格差が2倍を超えると国会の裁量権を考慮しても違憲の疑いがあり、投票価値の重要性に照らして見過ごすことはできない」などと述べ、「違憲状態」だと指摘しました。」と書かれています。

つまり、その是非はともかく、高松高等裁判所は、1票の格差を1.3とするか1.8とするかは、国会の裁量に委ねるべきであるが、2倍を超える場合には、裁量に委ねていられない、すなわち、格差を是正する義務が国会にはある、という考え方を示しており、裁量と作為義務の関係について普通の発想を示していると思います。

同様に、鬼怒川の堤防整備についても、堤防高が計画高水位+75cm(計画堤防余裕高の半分)を超える場合には、それ以上にするかは管理者の裁量の問題と考えてもよいが、それより低い場合には、裁量権が収縮して、いわば黄色信号が灯り、堤防高が計画高水位+30cm(計画堤防余裕高の5分の1)より低い場合には赤信号が灯っており、裁量の余地なく築堤する義務がある(計画高水位以下なら待ったなし)と考えるべきであるという発想は普通だと思います。

緊急性と裁量は相性が悪いと考えるのが普通だと思います。

(文責:事務局)
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