決壊地点の堤防の天端幅は約6mではなかった(鬼怒川大水害)

2019-08-17

●鬼怒川堤防調査委員会報告書は天端幅が約6mと記述

2015年9月10日に茨城県常総市三坂町地先で決壊した堤防について、「鬼怒川堤防調査委員会報告書」(2016年3月。以下「報告書」という。)p2−14には、次のように書かれています。

2.3.2 決壊した左岸 21.0k 付近の堤防の状況
(1) 左岸 21.0k 付近の決壊前の堤防状況
決壊前の左岸 21.0k 周辺の堤防は、昭和前期に築堤された記録がある。決壊前の堤防形状は堤防天端幅が約 6m、堤防高と堤内地盤高の比高差は約 2m 程度であった。また、決壊区間を含む約 500m の区間における堤防の高さは計画堤防高(施設計画上の堤防高さ)と比較しておしなべて低く、局所的に堤防が低い状況ではなかった。

つまり、21.0k付近の堤防の天端幅は約6mだったというのです。

なお、「21.0k付近」とは、「決壊区間を含む約 500m の区間」を指すのだと思います。

●報道によると決壊地点の堤防の天端幅は3〜4mだった

NHKのメディア研究部 福長秀彦は、「越水破堤のタイムラグと緊急時コミュニケーション~鬼怒川決壊後,緊急情報はどう変わるか~」(2017年)のp15で次のように書いています。

堤防が決壊したのは左 岸の三坂町上三坂である。決壊した区間の堤防は,高さが概ね4メートル,天端幅が3~4 メートルで高さ,幅とも基準値を満たしてい なかった。

2016年5月30日付け朝日新聞茨城版「鬼怒川の決壊箇所の堤防完成 常総市」には、次のように書かれています。

(再築後の)堤防は高さ5・4メートルと旧堤防より1・9メートル高い。3〜4メートルだった堤防最上部の幅も6メートルに広がった。

2015年9月11日付け日本経済新聞「決壊 まさか… 堤防増強計画の矢先 鬼怒川、49年にも」には、次のように書かれています。

常総市で約140メートルにわたって決壊した堤防は土を積み上げたもの。高さ3〜4メートル、幅は堤防の上部が約4メートル、下部が16〜20メートルだった。拡幅して高さ5〜6メートルにかさ上げする計画で、昨年度から用地買収を進めていた。

ちなみに、日経新聞は、決壊幅を約140mと書いていることが注目されます。当時、国土交通省は、そのように認識し、取材に答えていたということでしょう。

2015年9月25日付け読売新聞東京本社版の「茨城 首都近郊」記事「関東・東北豪雨 決壊堤防 厚み基準以下 鬼怒川 最上部、2メートル薄く」には、次のように書かれています。

河川管理施設等構造令では、計画高水流量が同5000立方メートル以上の場合、天端幅を6メートル以上とするよう定めている。決壊した堤防の天端幅は約4メートルで、約2メートル短かった。

以上のとおり、常総市三坂町の決壊箇所の堤防の天端幅は、「3〜4m」又は「約4m」と報道されてきました。

上記記事は、いずれも記者が国土交通省に取材した上で書かれたはずですが、決壊地点付近の堤防の天端幅を約6mと書いたものはありません。

報告書は、上記記事を全部否定するということです。

●2011年度測量結果で確認してみた

鬼怒川の2011年度測量結果(2015年関東・東北豪雨被害〜鬼怒川水害〜のサイトから)を見ると、確かに、左岸21.00kでは、現況天端幅が5.700mとなっています。

したがって、左岸21.00kの現況天端幅を、四捨五入して約6mと書くのは、あながち間違いとは言えません。

しかし、堤防天端幅を21.00kの両隣の距離標で見ると、20.75kでは3.100mで、21.25kでは3.000mですし、もっと広くその周辺の距離標で見ても、20.25kから22.00kまでの1.75kmの区間でも天端幅は3m台ですから、21.00kでの天端幅は、そこだけ特異に広かったと思います。

測量地点は250m間隔ですから、L21kを中心としたほぼ500mにわたり、堤防の天端幅は約6mあった、と鬼怒川堤防調査委員会は言いたいのでしょう。

しかし、政令が定める鬼怒川の堤防の天端幅は6m以上なのですから、L21kをピンポイントで見ても、安易に四捨五入して規格に適合していたかのように言うのは問題だと思います。ましてや、ほぼ500mにわたり6mの天端幅があったと誤読させるような書き方は論外です。

●報告書に掲載された写真で確認してみた

下図は、報告書p3−6からの切抜きです。

三坂町越流01

3と4の写真は、上流側からL21kの距離標を写していると思います。

4を見ると舗装部分の右側(河川側)に草の生えた土地が、舗装部分と同じくらいの幅であって、舗装部分の幅が約3mだとすると、草地部分を足して5.7mとなる、という話なら頷けます。

しかし、車のワイパーとボディーがあんな感じに写っていることから、舗装部分の幅では、普通車がすれ違えないので6mもないことが分かります。

次は、報告書のp3−8からの切抜き(写真10)です。これもL21kの距離標を写しています。距離標よりやや下流に立つ人が写っています。その人の身長が1.7m程度であると仮定して推測すると、堤防道路の幅が3〜4mであることが分かります。

三坂町越流02

●Yahoo!地図で確認してみた

次に示すYahoo!地図は、被災前の空中写真です。

三坂町被災前

赤丸が21kのおおよその位置です。

県道357号線は、下の写真(GoogleMapsのストリートビューから。2012年11月撮影ですが。)のとおりですから、その幅員はおそらく8m程度しかないと思います。

三坂町県道357

堤防の舗装部分と県道357号線の幅員を比べると、堤防の舗装部分は、県道の全体の幅員の半分程度なので、報道されているように、約4mというところでしょう。どんなに大きめに見ても約4.5mでしょう。

●地図から何が分かるか

下図は、報告書のp2−14からの引用です。決壊前の平面図です。

p2−14で、なぜかこの図だけ出典も測量時期も明記されていないのですが、2011年度の状況を表すと考えるしかないでしょう。

決壊箇所平面図

この地図でまず気になるのは、L21k付近から上流にかけて堤防天端のアスファルト舗装された通路部分が非常に狭いということです。下流部分と比べると、1.5倍くらいの差があるようにも見えます。

もう一つ気になるのは、L21k付近の川表側に小段が設けられていることです。

ちょうど小段が設けられた部分がそっくり決壊幅に含まれているのは、どういう因縁でしょうか。ただし、決壊幅の上流端から50mくらいは基部まで決壊していませんが。

では小段はなぜ設けるのでしょうか。

河川管理施設等構造令第23条には次のように書かれています。

(小段)
第23条 堤防の安定を図るため必要がある場合においては、その中腹に小段を設けるものとする。
2 堤防の小段の幅は、3メートル以上とするものとする。

「「河川工学」(山本三郎)に、「小段は欧米の河川では比較的見られないが、我が国では、堤防の直高が大きいときに、一般に施工されている。これは明治末期新淀川の開削工事において残土が多く、余剰土砂処分を兼ねて裏小段に捨土したのが起源であって、成績良好であったので、築堤の強度を保つ上に不可欠とされた」と記述されていることが、我が国の小段の歴史を物語っている。」((財)北海道河川防災研究センター「河川堤防の漏水対策技術」2004年p9)という情報もあります。

「我国の堤防では表小段は堤防の高さ6m以上の場合には天端から3~5m毎に、裏小段は堤高4m以上の場合、天端から2~3mごとに小段を設けることとしている。」(高橋裕「河川工学」)という情報も紹介されています(前掲書p13)。

また、次のような情報もあります。

従来、堤防には多くの場合小段が設けられてきた。しかし、小段は雨水の堤体への浸透をむしろ助長する場合もあり、浸透面から見ると緩やかな勾配(緩勾配)の一枚のりとしたほうが有利である。 また、除草等の維持管理面や堤防のり面の利用面からも緩やかな勾配ののり面が望まれる場合が多い。 このため、小段の設置が特に必要とされる場合を除いては、原則として、堤防は可能な限り緩やかな勾配の一枚のりとするものとする(長野県のサイト「第3章 河道ならびに河川構造物計画」p8−3−23)

というわけで、小段が堤防を強化したかどうかは微妙です。

なぜ小段を設けたかという話に戻すと、L21k付近にはY.P.18mの等高線が迫っていることから、川表では切り立った堤防となったことや地下水位が下がり堤防が脆弱化したので、堤高が6mはないが、堤防の厚みを持たせて強度を増そうとして天端幅を広くしながら川表に土砂を盛ったのではないでしょうか。その際、作業がしやすいように小段を設けたと推測します。

L21k付近の堤防を「厚盛り」(私の造語)にした時期が知りたいところですが、国土交通省に記録はあっても「ない」と言われたらそれまでです。

国土交通省は、「決壊前の左岸 21.0k 周辺の堤防は、昭和前期に築堤された記録がある。」(p2−14)という情報しか出しませんが、「厚盛り」の時期が1970年代だとすれば、記録がある可能性もあると思います。

そんなわけで、仮説でしかありませんが、鬼怒川の河川管理者がL21k付近の河川敷での砂の採取を認めてしまったために、堤防が弱くなり、天端幅倍付の盛り土で補強してみたが、小段が舗装していなかったとすると、弱点になった可能性もあり、何よりもL21k付近の堤防が上流よりも下流よりも低かったことが致命的であり、約100分間にわたる越流に耐えられなかったということだと思います。

●報告書に「河川管理施設等構造令」の文字なし

鬼怒川堤防調査委員会が決壊地点付近の堤防の天端幅を約6mと書くことは、ピンポイントで見れば誤りではないとしても、「左岸 21.0k 付近」を「決壊区間を含む約 500m の区間」と定義するかのような書き方をしているのですから、誤解を招くと思います。

報告書に掲載された写真を見る限り、天端幅約6mの区間は連続していないのですから、河川管理施設等構造令の規格を満たすかのように、つまり堤防の天端幅には問題がなかったかのように書くのは問題であり、L21k付近の堤防が脆弱だったことを率直に書くべきだったと思います。

そもそもL21kの天端幅は5.7mだった(2011年度測量結果)のであり、河川管理施設等構造令第21条に定める6m以上(計画高水流量が5000〜1万m3/秒の場合)には0.3m足りないのですから、規格の寸法に足らないことをきちんと書かずに、四捨五入するのは問題点の隠蔽でしょう。

そもそも報告書に「河川管理施設等構造令」の文字はなく、鬼怒川堤防調査委員会は、決壊した堤防がこの政令が定める規格にどの程度適合していたかを確認するという発想を持っていなかったということです。

何のための堤防調査委員会なのでしょうか。河川管理者がお手盛りでやる調査ですから、こんなものかもしれませんが、経費(税金)がもったいないです。噂ですが、多摩川水害のときは、国が行った調査で国の責任を認めるような書き方をしたようで、それが原因で国側敗訴となったようで、それ以来、責任論に結び付くような調査はしないことになったようです。

(文責:事務局)
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