豊岡町築堤工事は2011年度施工ではない(鬼怒川大水害)

2021-10-02

●原告ら準備書面の(8)と(9)が提出された

今回、長文なのでご注意ください。

鬼怒川大水害訴訟では、2018年8月7日の提訴から丸3年が過ぎた2021年8月18日、これまでの原告側の主張の集大成とも言うべき「原告ら準備書面(8)(上三坂について)」及び「原告ら準備書面(9)(若宮戸について)」が提出されました。

(8)では、「ドベネックの桶」のたとえを持ち出し、堤防は1箇所でも低い箇所があってはいけないと繰り返し強調しながら、(9)では、河畔砂丘は計画高水位以下の箇所があっても過渡的安全性を備えていたと言っており(p17、p18)、チグハグな印象を受けました。

また、いつの時代のことを言っているのかが明確に書かれておらず、時系列的に理解できないように書かれているのも特徴的だと思います。

原告ら準備書面(8)のうち、圏央道に関する反論はもっともだと思いましたが、豊水橋右岸に関する反論(p49〜)には事実誤認があり、読み手を混乱させると思います。

豊水橋(ほうすいきょう)右岸の豊岡町(とよおかまち。根拠は水海道市・石下町合併協議会)での浸水については、2年半前の被告準備書面(1)(2019年2月)p53で主張されていたのに、なぜ反論の時期が今なのかは分かりません。

●被告の間違いは水害の一因ではないのか

豊岡町の問題に限らず、そもそも原告側は、被告のウソや間違いをほとんど指摘しなかったし、ましてや咎めてこなかったと言えると思います。

原告ら準備書面(8)のp50に、「なお、乙76の写真は、左岸の水海道元町側を写しているものであって、右岸側を写したものではない。」とだけ書かれており、珍しく誤りを指摘しています。

ここで三つの問題があるように感じます。

一つは、被告の間違いを指摘する以上、原告側の間違い(例えば、2010年5月8日に豊岡町の被災住宅が存在したこと)も気にして訂正するのか、ということです。

二つは、被告の間違いは指摘するだけなのか、ということです。

三つは、被告の間違いを指摘する以上、被告のウソ(三坂町の破堤区間について2014年度に用地調査に入ったこと)は指摘するのか、更には咎めるのかということです。

いずれも、間違いやウソに気が付かなければどうにもなりませんが。

二つ目について敷衍すると、被告が豊水橋の右岸と左岸の写真を取り違えていることを指摘するだけで言葉が足りているのか、という疑問があるということです。

河川管理者が右岸と左岸を取り違えることなどあり得ないでしょう。河川官僚は、河川管理でメシを食っているのですから、原告側が間違うのとは、わけが違います。

被告が写真を取り違えたことの意味するところを書くべきではないでしょうか。

被告は、2007年度に豊岡町で築堤した理由について、「被災履歴も含めて総合的に勘案の上」(被告準備書面(6)p23)と、もっともらしいことを言いますが、被告は、間違った証拠を出してくるということは、右岸と左岸の区別もつかず、施工箇所がどこかも理解していないということですから、理由になっていないということです。

被告の無知やいい加減さが積み重なって水害発生に至っていると考えるべきです。

また、被告は、若宮戸の地形が河畔砂丘であることを2020年4月(被告準備書面(4)p13)まで知らなかったわけですが、河川管理者が治水地形分類図を見ないで治水事業を実施することが、許されるのでしょうか。被告は、若宮戸の地形の持つ意味を知らずに鬼怒川を管理してきたということです。

「測線」と「側線」の間違いも、何度も(被害報告書でも準備書面でも)間違っています。

間違うのは、河川管理者が測量を知らないということであり、管理者としての職責を果たしていないことの表れです。

河川定期縦横断面測量成果の堤防高のデータでも、明らかな誤りがあります(例えば、2001年度測量におけるL29.50k、2008年度測量におけるL22.75k、L30.75k)。報告書を受ける際に、完成検査をしていないとしか思えません。

上記のような無知や非常識の中で治水事業を進めることは、判例のいう「河川管理の一般水準」から逸脱するのであり、攻撃材料ではないでしょうか。

私は、感情的なこと(「間違えるとはけしからん」のような)を書くことを勧めているのではありません。

冷静に考えてみて、基本的な事項を間違えることは、河川管理者の無知や杜撰さの表れであり、これが水害の重要な一因になっている、と考えることができないのか、ということです。

裁判とは、裁判官を説得し、こちらが望む判決を書かせるゲームであるとすれば、裁判官に問題を適切に理解してもらうことが重要であり、相手がウソや誤りで裁判官を混乱させて、適切に理解することを阻害している場合は、放置すれば裁判官はこちらの主張を理解できないのですから、勝訴判決を書いてもらうことはできないので、放置できることではないと思います。八ッ場ダム訴訟では、弁護団は、被告が虚偽の証拠を提出したとして刑事告訴したことがありますから、ウソを放置しないという姿勢は必要だと思います。

被告の書面のミスを咎めても意味がないというのが原告側の方針だとすれば、今回、豊岡町の写真を取り違えたことを指摘した理由が分かりません。

●豊水橋右岸下流の状況の変遷を概観する

2002年洪水で被災した街区の状況の変遷を確認しておきます。

街区推移
街区推移

被災した街区は、1966年以降と建物の位置は違いますが、1883年測量の迅速測図にもあります。1883年は明治16年ですから、江戸時代から存在したと推測します。

建物は、2005年から2008年の間に撤去されました。

●右岸11k付近の築堤工事とは

豊水橋右岸付近の築堤工事の施工後の空中写真は下図のとおりです。(施工前の写真は、原告側がp50で2010年撮影の写真として掲載しています。実際は、2005年撮影です。)説明の入った写真をnaturalright.orgのサイトの「2 下流優先の実際=豊岡町」から引用させていただきます。画像取得日は2012年3月16日です。

上記築堤工事は、2007年度重要水防箇所一覧表には「豊岡築堤工事」と記載されていますが、「豊岡町築堤工事」が正しのかもしれません。

naturalright.orgの記述などから、その工期は2006年10月31日〜2008年3月31日(1年5か月の複数年契約)であり、施工区間延長は右岸11kの直上流から豊水橋までの約110mです。

2008年3月までに家屋は移転しているということです。

施工後状況

●原告側は被災住宅は「堤外地」だと言っている

p49には、「堤防の役割を果たしている地形から堤外に突出して、住宅数軒が立地していた(2010年空中写真、H19事業再評価資料20頁下左写真)。」と書かれています。

「堤防の役割を果たしている地形」とはどこでしょうか。

堤防がない区間なのに、「堤外」と言いますが、どこを基準にして言っているのでしょうか。

堤外に突出して住宅「数軒」が立地していた土地は、堤外地なのでしょうか、それとも堤内地なのでしょうか。

原告側は、p50では、問題の街区は「堤外地」だと言っています。

なぜなら、「2002年の洪水で当該部分は冠水したが(H19事業再評価資料18頁)、堤内に洪水が流入することはなかった。」と言っているからです。

重要水防箇所を見ると、被告も同じ見解であることが分かります。

被告は、豊水橋下流の無堤防区間を、2004年度から2006年度までの重要水防箇所に指定しており、「重要なる理由」の欄に「堤外地に民家あり(豊水橋下流)」と書いているからです。

原告側も被告も、豊水橋下流で被災した街区について、「堤防の役割を果たしている地形」はどこか、河川区域はどこか、を明確に認識した上で「堤外地」と言っているのでしょうか。

●被告は異常な形状の河川区域を設定した

下図は、1966年利根川水系河川区域告示添付図です。

豊水橋右岸付近の河川区域を示しています。

描かれている豊水橋は2代目で、1965年に現在の豊水橋(上流に橋桁だけが描かれています。)に架け替えられます。

被告は異常な形状の河川区域を設定したことが分かります。

告示図
1966年利根川水系河川区域告示添付図(豊水橋右岸)

●問題の街区は「堤内地」ではないのか

被告が河川区域を上図のように指定したことの意味を検討します。

被告が1966年に堤防のない区間に河川法第6条第1項第3号の規定に基づいて上図のように河川区域を指定したということは、河川区域境界線の手前(低水路側)に堤防類地があると認めたということです。

図示すれば下図のとおりです。

告示図加筆

すなわち、2002年に被災することになる街区を取り囲むようにして堤防類地が存在したため、被告は、上図のような河川区域を指定したということです。

無堤防区間においても堤内地と堤外地があると述べることに実益があるとしても、堤防類地を基準にすべきです。

堤防又は堤防類地を基準として、その外側(低水路側)が堤外地であり、内側(居住地側)が堤内地と呼ぶべきです。

したがって、異常な形状の河川区域境界線に囲まれた街区は、堤防類地の内側(居住地側)にあるので、「堤内地」と呼ぶべきではないでしょうか。

したがって、原告側が2002年洪水で「堤内に洪水が流入することはなかった。」(p50)と言うことには無理があると思います。

被告の言う「堤外地に民家あり(豊水橋下流)」も誤りではないでしょうか。

つまり、原告側も被告も被災住宅のある街区は「堤外地」だという見解ですが、そうであるなら、内外の振り分けの基準となる堤防類地はどこにあるのかを説明すべきです。

堤防類地と河川区域は一体不可分だと思います。なぜなら、堤防類地の外縁(低水路側から見て)に河川区域が設定されるからです。

したがって、「堤内地」は、堤防類地の内側(居住地側から見て)であると同時に、河川区域の内側でもあることになると思います。

したがって、管理者が指定した堤防類地及びこれとセットになっている河川区域の位置とは別のどこかに、あるべき、理想の堤防類地やら河川区域やらの位置を、説明もしないで勝手に想定し、そこを基準に堤内地とか堤外地とか言っているのだとしたら、他人に理解できるはずがないと思います。

私の見解は誤りかもしれません。

原告側が、問題の街区が「堤外地」だと言うのであれば、堤防類地と河川区域がどこにあるのかを説明してほしかったと思います。

●10軒程度を「数軒」と表現することには無理がある

前掲の1966年の河川区域告示図によれば、高水敷にしか見えない場所に10棟の建物があり、うち8棟は河川区域外にありました。

2005年の空中写真を見ると、河川区域内の建物はなくなり、河川区域外に12棟の建物が見えます。

しかし、原告側は、「住宅数軒が立地していた」と書きます。

「数個」とは、デジタル大辞泉によれば、「2、3個か5、6個程度の個数。」です。

精選版 日本国語大辞典によれば、「三〜四個、五〜六個ぐらいの個数をばくぜんという語。」です。(以上Weblio辞書から)したがって、2002年に被災した家屋が12棟だったとすれば、「数軒」と表現することには相当無理があり、日本語の使い方として独特だと思います。

まさか、事態を矮小化するために「数軒」を使ったわけではないと思います。

準備書面は、裁判所に正確に理解されるように、言葉を一言一句吟味する必要性があるのではないでしょうか。

●画像取得日が間違っている

原告ら準備書面(8)のp49には、「2010年空中写真」と書かれています。

そして、p50の写真(下図)には、「鬼怒川豊水橋付近 2010.5.8」と書かれています。

街区写真

しかし、上の写真の右岸側(画面左半分)の画像取得日は2010年ではなく、2005年です。左岸側(右半分)が2010年です。

下図は、私が撮ったグーグルアースプロのスクリーンショットで、切り取った範囲以外はp50の写真と同じです。

カーソルを鬼怒川の右岸に置いたので、下部に表示される画像取得日が2005年2月6日になっていますが、スライダの表示は、2010年5月のままです。(これは、2021年8月までの話で、9月以降は、画像取得日が表示されなくなりました。また、道路の上に線が描かれ見づらくなりました。)

街区写真

上の写真を注意して見れば、左右で水の色や建物の影の落ち方が違うことが分かりますし、何よりも、豊水橋も水海道床止(位置は11.03 k)も位置ずれを起こしていることが分かります。

河川敷も左岸側は緑ですが、右岸側は枯れ草で、撮影した季節が違います。

p49以下では、2002年に浸水被害があった豊岡町地内の住宅の場所を議論しているのですから、「鬼怒川豊水橋付近 2010.5.8」は「鬼怒川豊水橋右岸付近 2005年2月6日撮影」とでもすべきだったと思います。

●被災住宅は盛り土の上に建っていた可能性がある

最近の平面図と地上写真も確認しておきます。

豊水橋下流の被災した住宅は、盛り土の上に建っていた可能性があります。

下図は、2017年2月に国土建設コンサルタント株式会社が測量した豊水橋右岸下流付近の平面図(右が上流)です。

2008年3月に完成した堤防を昇降する階段のある道路が被災した街区の中央の道路(2代目までの豊水橋の法線)で、その両脇に家が建っていたということです。

平面図

下図は、2015年9月撮影のグーグルアースのストリートビューです。地盤の高さは、住民が移転した2007年とそう変わらないと思います。移転後に河道断面積を減らしてまで盛り土をする理由はないと思うからです。

低水路側から被災した街区(西方)を写しています。背景には、新造堤防と豊水橋右岸のたもと付近のガソリンスタンドの店舗(廃業している)と屋根の位置が下流の家屋よりやけに低いアパートが2棟写っています。

高水敷を下流に向かう道路が下り坂になっていることから盛り土されていることが分かります。平面図からは、比高約2mです。

自然の地形だった可能性もありますが、naturalright.orgのサイトの2 下流優先の実際=豊岡町でアナグリフを見ると、どうしても盛り土に見えてしまいます。

盛り土だとすると、土はどこから調達したのでしょうか。

建てる家を砂上の楼閣にしたくはないので、砂を盛ることはしないと思います。

西側の段丘(アパートのニューエミネンス辺り)を削った可能性はないでしょうか。(江戸時代の話をしています。)

ストリート

被災した街区が盛り土の上にあったとすると、中小の洪水では浸水しないので、住民はさほど危険とは思わなかった可能性もあると思います。(ただし、1938年、1949年の出水で浸水していると思います。)

そうだとすると、国から移転を勧められても、補償金も十分ではなかったでしょうし、応じる気持ちになれなかったと思います。2002年に浸水を経験して、いよいよここには住めないと考えた可能性もあると思います。

税金の使い方の話なので公共の問題なのですが、個人の家庭の事情を深く穿鑿するわけにもいかず、悩ましいところです。

なお、被災した街区は、「地先」と呼ばれるような河川敷内の無番地地帯ではありませんでした。買収されるまでは私有地であり、地番が付されていました。

Googleマップでは、今でも2007年以前の地図が使われていて、10棟の建物が描かれており、ルート検索機能を使って建物をクリックすると、常総市豊岡町丁乙の1400番代の地番が表示されます。

ちなみに、被災した家屋群が盛り土の上に建っていたとすると、移転した後は、そこでの洪水の疎通能力を高めるために、盛り土を除去するのが筋だったと思いますが、やっていないと思います。

そうだとすれば、その理由は、下流への負荷の増加を恐れたというよりも、豊水橋の橋脚への影響を恐れたことかもしれません。被告は、2010年以後に右岸11k付近で河道掘削やら砂採取やらをやっていますから。被告の河川行政に理論が見えません。

●被災住宅は2007年10月までに撤去された

前記のとおり、2002年7月洪水による被災住宅(おそらく10戸)は、2005年11月にはありましたが、2008年10月にはなくなっており、撤去時期はその間ということになります。

下図のとおり、2007年10月までに被災家屋が撤去されたという証拠写真があります。原告側がp50で「H19事業再評価資料20頁下右写真」と書いています(写真は引用していません。)。

また、用地買収が2005年度と2006年度に行われて証拠(乙72の3)もあります。

したがって、「2007年10月までに被災家屋が撤去された」こと以上に詳しいことは不明です。

原告側が、被災家屋が2007年10月までに撤去された証拠があると言いながら、2010年撮影の空中写真に写っていると主張することは矛盾です。

歳評価資料写真10

●築堤工事の完成は2007年度(2008年3月)だった

「2011年度に築堤工事完成した 」 も誤りです。

「工事が完成した」とせず、助詞を省略するのも文学的表現であり、誤りとは言えないでしょうが、書面としては独特です。

被告の書面等でも、右岸11k付近の工事が2007年度に完成したと書かれています。

乙72の3(下図)では、右岸11k付近は「19」(2007年度)に整備が完了したことを示しています。(2005〜2006年に用地買収をした。)

整備状況11

●豊岡町築堤工事が2011年までに整備したとの記述もある

一方、被告準備書面(5)のp15では、「続いて、被告は、平成23年までに」、「右岸11〜11.25km」の整備を完了させたと述べています(ただし、実際の施工区間は250mではなく、約110mです。被告は、距離標で(つまり最小単位を250mとして)説明しているので、110mが250mになってしまいます。)。

被告が「2011年までに」整備したと主張したことが、原告側が「2011年度に」と書いた原因かもしれませんが、「2011年度までに」と「2011年度に」の意味を同じと考えることには相当の無理があります。

ちなみに、原告側は、三坂町の破堤区間に係る用地取得の完了時期についても、実際は2009年に完了しているのに、「2011年度までに」(p26、p29)と連呼します。

「〜までに」と「〜に」を区別しないのは、原告側の何らかの作戦なのかもしれませんが、独特の考え方だと思います。

●築堤を優先すべきでない理由に疑問がある

p50では、「鬼怒川の水位が上昇すれば、浸水することが分かっていて立地しているのであり、2002年の洪水で当該部分は冠水したが(H19事業再評価資料18頁)、堤内に洪水が流入することはなかった。」と言います。

つまりは、浸水の原因を被害者の意思に帰していると思います。

「浸水することが分かっていて」と言っている以上、自己責任の問題だと言っていることに必然的になります。

そうであれば、浸水しても国に賠償責任はないはずであり、税金を使って問題を解決すべきではないことになるはずです。

しかし、原告側は、「優先的に築堤する条件のない箇所である。」とも言っていて、築堤する必要性はあるが、優先順位は低い、と言っています。管理者が何もする必要がなかったとは言っていません。

築堤する必要性があるのかないのかが明確に読み取れず、論旨が一貫しないと思います。

右岸11k付近の築堤に緊急性はなかったことは理解できますが、その理由の一つが「鬼怒川の水位が上昇すれば、浸水することが分かっていて立地しているのであり、2002年の洪水で当該部分は冠水したが、堤内に洪水が流入することはなかった。」ことであると言われると、違うと思います。

豊岡町では、本来は河川区域境界線を引けない場所に引いてしまったという違法を引きずっていたのであり、この違法を是正する責任が管理者にはあったと思います。

この辺りが問題の核心だと思いますが、話を進める前に予備知識を共有すべきだと思います。

●そもそも豊水橋とは

豊岡町築堤工事は、後で書きますが、豊水橋の由来と関係があります。

つくば新聞というサイトによると、豊水橋は、鬼怒川に架かる国道354号の橋で、左岸側が常総市水海道元町、右岸側が常総市豊岡町乙です。名前は豊岡村と水海道町の頭文字をとったとされます。

現在の豊水橋は3代目であり、初代は1890年4月に開通したようです。

2代目は、1926年7月に完成したといいます。

3代目は1960年に完成し、場所は上流側(橋の中心で測って約35m北)に移ります。

ちなみに、国土交通省は、被告準備書面(1)p53で、豊水橋左岸付近を水海道本町と誤記しています。

その元凶とは言いませんが、水文水質データベースには、水質・底質の観測所である豊水橋観測所の所在地が「茨城県常総市水海道本町」となっています。

観測所の位置が間違っていても誰も気づかない、あるいは気にしない組織であることに問題があると思います。

誤りに気づいている職員もいると思いますが、どうでもいいことのために仕事を増やしたくないと考える職員が大多数なら、いつまでたっても直りません。

被告が破堤箇所を新石下と発表し混乱を招いた例を挙げるまでもなく、たかが町名の誤りに目くじらを立てるな、という考えは誤りでしょう。

●豊水橋付近は結城台地が浸食されてできた地形だった

豊水橋付近の地形を治水地形分類図(更新版)で確認しておきます。

更新版は2007年から公表されたのですが、鬼怒川下流部を見る限り、右岸11k付近の被災家屋が表示されているので、背景地図は2005年以前のものです。

黒の実線は完成堤防を表します。被災家屋が黒の実線で囲まれているのはひどい誤りです。

被災家屋が完成堤防で囲まれていれば、2002年洪水で被災しなかったはずだからです。

ちなみに、両岸の段丘は、元々はつながっていたが、鬼怒川の流水によって開析されたと言われています。

治水地形分類図12

●そもそも右岸では大水害は起きない

そもそも常総市より下流の鬼怒川右岸では大水害は起きません。治水地形分類図を見れば分かることです。

左岸の堤防整備が不十分な状態であれば、右岸の堤防整備を後回しにすべきです。

なお、三坂町より下流しか描かれていませんが、分かりやすい台地の分布図があるので引用します。斎藤英二ほかによる「茨城県南西部における最近の測地学的変動について」です。

台地分布図13

結城台地と筑波―稲敷台地に挟まれる鬼怒川―小貝川低地で水害を起こさないことが鬼怒川・小貝川の管理の要諦であることが分かります。

猿島台地と結城台地に挟まれる飯沼川低地は広大な氾濫平野ですが、ほとんどが農地であり、人家は、自然堤防の上に立地しているので、浸水したとしても、大水害にはならないはずです。

被告が2013年に公表したといわれている氾濫シミュレーションには、下図のとおり、右岸10.75kで氾濫して飯沼川低地の浸水を想定するものがありますが、最大浸水面積は、相当広いとはいえ、2015年鬼怒川大水害の時とは比ぶべくもありません。

氾濫発生情報図14

●11kの堤防横断図を見ても大水害の起きる場所ではない

下図は、堤防横断図と呼ばれる図面で、作成年は不明ですが、少なくとも、2011年度定期縦横断測量に使われたと思われます。

出典は、「平成27年関東・東北豪雨災害 〜鬼怒川水害〜」のサイトです。

鬼怒川の堤防の天端計測点、敷幅計測点及び堤高計測点を示します。

右岸11.00kは、段丘が削られて掘り込み河道になっており、氾濫が起きないことが分かります。

2011年度の堤防高は、19.250mです。計画高水位18.760mを49cm上回っていますが、計画堤防高は満たしていません。

堤防横断図15

●1883年から建物があった

上記のとおり、2002年洪水による被災建物があった付近には、1883年から建物がありました。

下図は迅速測図のうち、豊水橋付近です。出典は、農研機構の歴史的農業環境閲覧システムです。

農研機構が現在の状況を加筆しており、鬼怒川を横断する赤い線は、国道354号の位置を示すようです。(ちなみに、1700年に開削された新八間堀川の合流地点は、現在より下流にあったようです。)

迅速測図16

迅速測図は、ウィキペディアによると、1880年に陸軍卿山縣有朋によって作成が命じられ、1886年に完成しました。

国土地理院のサイトの地図の諸元情報からは、常総市周辺は1883年(水海道)から1884年(三坂町、若宮戸)にかけて測量されたと考えてよいと思います。

そうだとすると、初代豊水橋が架けられた1890年の7年前には、既に豊水橋右岸となる位置に道路が存在し、9戸の家が両脇に建っていた(2000年代とは場所が異なるが)ことになります。もっとも、人家ではなく、倉庫だった可能性もあります。上記のとおり、江戸時代から建物があったと見るべきです。

人家だった場合、先祖代々連綿と住み継がれている可能性もあります。

●船着場だった?

ではなぜ鬼怒川の右岸11.1k付近の高水敷に建物が19世紀からあったのでしょうか。

これも想像ですが、船着場(水海道駅の河岸)だったと考えるのが穏当ではないでしょうか。

迅速測図では、右岸の高水敷を横切る道路は、低水護岸(人工物かは不明)までしっかり伸びています。

他方、右カーブの流路の内側(右岸側)に形成された寄州は中央付近で使い古しのブラジャーのような形に不自然にくびれており、人為的に砂を除去した可能性があると思います。

下図のとおり、左岸側では、水海道元町と水海道本町でも道路が低水路まで伸びている箇所があるので、それらが河岸だったと想像します。(元町には舟のマークがあります。)

そうだとすると、豊水橋は、渡し場を結ぶ橋だったことになります。

交通の要衝で両岸とも洪積台地だったので、橋をかけるには絶好の場所だったと思います。

堤防横断図17

豊岡町の被災箇所が河岸だとすると、「河岸の立地形態と空間構成に関する研究」(清水健弘ら)によると船着場の立地位置は河岸型で、河岸の町の形態は垂直列状型に該当すると思います。(元町の船着場の立地位置は湾入型か。)

なお、水海道地区は、江戸時代は水海道村でしたが、迅速測図に「水海道駅」と書かれているのは、1871年からそう呼ばれていたからであり、1889年からは「水海道町」になりました(水海道市史)。

ちなみに、水海道市史などによると、鬼怒川の河岸(かし)は、大木、板戸井、大山、鹿小路(かなこうじ)、新宿、細代(ほそしろ)、水海道、中妻、三坂、蔵持、新石下、本石下、皆葉、宗道などにあったようです。

水海道河岸は、台河岸(水海道元町)と船戸(舟戸)河岸あるいは舟渡河岸の2箇所があったようです(松丸明弘「利根川支流域の水運―鬼怒川水運と水海道河岸(上)―」p23)が、後者の場所は分かりませんでした。

迅速測図を見ると、そのほとんどに小さな舟の形が描かれています。

例えば、下図(今昔マップから)のとおり、4.75kのやや下流には、「鹿小路渡」と書かれていて、舟の形の記号もあり、渡し舟があった場所だと分かります。迅速測図のきめ細かさには恐れ入ります。

かなこうじわたし18

●ほとんどの建物が河川区域外だった

豊水橋右岸付近の河川区域境界線は、前掲の1966年利根川水系河川区域告示添付図のとおり、異常な形状をしていました。

告示図19(4)
1966年利根川水系河川区域告示添付図

上図がいつの状況を示すかというと、1965年に完成する3代目豊水橋の橋脚が描かれていることや三坂町の堤防高のデータの推移を勘案すると、1962年度頃(1963年測量か?)の状況を示すと思います。

●1966年の指定の前の河川区域等の状況

下図は、「鬼怒川河川区域並びに河川付属物認定図」の一部です。

1937年11月8日に茨城県知事が旧河川法第2条の規定に基づいて行った河川区域及び河川付属物の認定の告示の添付図です。

認定の縦断的範囲は、26kより下流です。

豊水橋付近の状況は、下図のとおりです。豊水橋は、2代目のコンクリート橋で、完成から11年後の姿が描かれていることになります。

下図が1966年指定告示の前の鬼怒川の河川区域等の状況だったと思います。

告示文で河川区域については、「左右両岸ニ建設セル準拠点杭支距法ニヨリ測定セル青色線内の区域(添付図参照)」とされていますが、茨城県のサイトには白黒コピーの図面しか載っていないのですから、青色線がどこか分かりません。

しかし、斜線の部分を見ると、ほぼ低水路(ほぼ同じ太さですから雑ですが)が河川区域に認定されたと思います。

堤防は河川付属物として別に認定することになります。

したがって、堤防と低水路の間、すなわち高水敷は、どちらでもありませんから、私的所有権の対象でした。

旧河川法第3条は、「河川並びにその敷地若しくは流水は、私権の目的となることを得ず。」と規定し、厳しく私権を制限したように見えますが、高水敷を河川区域に認定しないという抜け穴があり、現在よりも土地所有権が強く保護されていたのではないか、と今のところ見ています。

豊水橋は、両岸とも段丘であったため、長い間、両岸とも堤防不要区間とされていたと思います。

1966年の告示図(上図)の前の河川区域等の認定の告示図が下図のとおりだとすれば、被告は、国会議員ヒアリングにおいて、「1966年の河川区域の指定は、知事が認定した河川区域を踏襲したものだ」と答えましたが、ウソだったことになります。

豊水橋右岸の堤防のない区間には、そもそも河川区域境界線が引かれていなかったのですから。

河川区域告示20

●豊水橋右岸下流で築堤していなかったとしたら2015年にどの程度被災したのか

豊岡町の被災住宅は2002年洪水でどの程度浸水したのか及び2007年度に築堤していなかったとしたら2015年にどの程度被災したのか並びに段丘上のアパートがどの程度浸水したのかを見ておきます。

判断材料となるデータです。

R11.00kの地盤高(2001年度定期測量)  19.380m
R11.00kの地盤高(2011年度定期測量)  19.250m
被災家屋跡地の地盤高(鬼怒川管理基平面図。2009年頃)  15.3m
R11.10k付近の段丘上のアパートの敷地の標高(鬼怒川管理基平面図。2009年頃)  17.1m
2008年3月に築造された堤防の高さ(2019年10月現在)  19.160m以上(naturalright.orgのサイトの2 下流優先の実際=豊岡町参照)
2002年洪水の痕跡水位(R11.00k)  15.72m
2015年洪水の痕跡水位(R11.00k)  17.68m

【2002年洪水による浸水深】

2002年洪水では、浸水のあった10軒(敷地は傾斜していた)は、平均して40cm程度(15.72m―15.3m)の浸水があったと思います。段丘の上のアパートはかろうじて無事でした。

【2015年洪水による浸水深】

堤防がなかった場合、2015年洪水では、17.68m―15.3m=2.38m程度の浸水深だったと思われますが、地盤沈下を考慮すれば、2.48m程度だったとも推測できます。

段丘上のアパートも17.68m―17.1m=0.58m程度の浸水深だったと思われますが、地盤沈下を考慮すれば、0.68m程度だったとも推測できます。実際は、高さ19.160m以上の堤防があったので浸水を免れました。

●堤防の効果は小さかった

もし築堤されていなかったら、アパートのさらに奥(西)まで浸水したでしょう。

しかし、上記サイトによれば、堤防がなかったとしても、2015年洪水で浸水が想定される範囲は、段丘上ではせいぜい10軒であり、浸水面積は0.6ヘクタールにすぎないといいます。0.6haは0.006km2ですから、鬼怒川大水害の浸水面積40km2の0.015%です。

言い換えれば、豊岡町築堤工事によって守られた土地の面積は、鬼怒川大水害の浸水面積の6666分の1でしかありません。

豊岡町築堤工事は、多額の費用がかかる工事ではなかった(おおよそ7600万円の工費)とはいえ、緊急性がないのですから、築堤工事は若宮戸と三坂町の後にやるべきでした。

「小の虫を殺して大の虫を助ける」という話ですから、築堤の時期が遅れれば豊岡町の住民は怒るかもしれませんが、費用対効果を考慮するとか、工事の順序を決めるということは、どこかの築堤の時期が遅れるということだと思います。(私は、豊岡町で浸水しても仕方ないと言っているのではありません。被告は、1965年の利根川水系工事実施基本計画において、鬼怒川の整備は、17kより下流は利根川の背水の影響を受けるので(早期に)整備するつもりだ、と書いているのですから、遅くとも、35年後の2000年には、17kより下流の整備は完了させるべきだったし、三坂町も若宮戸も同様に2000年までに整備できたはずだ、という立場です。ただし、原告側は、被告の2000年までの整備については不問に付しています。)

下流から整備すれば氾濫する機会を減らせるので、どこからも文句は出ないだろうという感覚で進めるのは、責任ある河川行政ではないと思います。

工事の緊急性を考慮せず、漫然と概ね下流部から整備を実施し、結局は、未整備の上流で氾濫して、整備の済んだはずの下流部まで水浸しにしたのが鬼怒川大水害だと言えると思います。

下流部の堤防整備に投じた予算は無駄だったわけです。

それでも被告は、下流原則を適用したのだから、常総市東部地域のほぼ全部が浸水しても責任はないと主張しているわけです。

それでも原告側は、被告が鬼怒川で下流原則を適用したことは一般論として異論はないとします(p34)。

私は、下流原則を適用してはいけない区間に漫然と下流原則を適用したことが鬼怒川大水害の原因だと考えます。(もう一つの大きな原因は、ダム依存ですが、原告側は触れません。)

原告側は、原告ら準備書面(5)p25〜28において、「お盆状の後背湿地」(なぜ丁寧の接頭語が必要なのか分かりませんが)を7回も連発して、鬼怒川下流部左岸流域の自然的・社会的条件がいかに特殊であるかを強調しておきながら、「下流から整備した。文句あるか。」と言われて、「一般論としてはもっともでござる。」と言うことは矛盾していると思います。

鬼怒川の26kより下流は、下流原則という一般原則が通用しない区間であることを主張すべきであり、そのために「お盆状の後背湿地」を連発したはずです。最高裁は、下流原則が絶対的に優先する、とは言っていないにもかかわらず、被告は、上流部の改修が緊急を要する場合であっても、下流原則が適用されると言っており(被告準備書面(1)p45脚注)、大東判決と異なる見解を示しています。

原告側は、大東判決に従うという立場だったと思います。そうであれば、被告のいう下流原則と闘う必要性があるのではないでしょうか。

●結局、水海道元町は整備されなかった

被告準備書面(1)p53では、若宮戸を整備しない理由として、2002年洪水により豊岡町で浸水被害があったこと及び水海道元町が危険だったことを挙げていましたが、豊岡町の対岸の水海道元町の危険な無堤防区間は放置され、2015年洪水では観水公園で20cm程度の溢水があったようです。やや下流でも水防活動がなければ大規模に氾濫する状況でした。(根拠は、 naturalright.orgのサイトの2 下流優先の実際=豊岡町

被告は、「下流の要整備区間の負荷を極力大きくしないことを含め」(被告準備書面(1)p53)と言いながら、2006〜2007年度に豊岡町築堤工事(右岸11k付近)を実施した後には、2002年洪水で若宮戸よりも危険な状況だったはずの水海道元町を整備しないまま、中妻、大輪、羽生、花島など上流の整備を進め、「下流の要整備区間の負荷を極力大きくしない」という方針に反する整備をしたのですから、ご都合主義であり、矛盾しています。被告の言う下流原則は破綻しています。

●下流原則は守られていない

2015年の鬼怒川大水害の後、鬼怒川下流部の堤防整備は一気に進んだはずでした。

しかし、4年後の2019年10月に大きな出水があり、最下流部のつくばみらい市の絹ふたば幼稚園で床上浸水の被害がありました。その付近は築堤工事中だったようです。

堤防整備が下流原則に従っていれば、遅くとも2017年には、最下流部での築堤は完成していたはずです。

被告は、下流原則に従って整備してきたと言いながら、下流から整備していないのです。

豊岡町築堤工事も下流原則に従うなら、最下流部の工事よりも後に施工すべきことになるはずです。

予想される被告からの反論は、豊岡町は2002年に浸水被害があった場所なので緊急性があった、というものです。

しかし、上記のとおり、被告は、上流で緊急性のある改修工事を行う場合であっても、「下流の安全性を確保する工事を行う必要があり」と言っていますから、緊急性があったから上流を先に施工しました、という言い訳はできないはずです。 ●豊岡町築堤の要望書が出ていた

鬼怒川下流部の整備等の要望書については、2001年度以降しか記録がないのですが、豊岡町(豊水橋右岸の下流)の築堤については、下図のとおり、鬼怒川下流改修維持期成同盟会から、浸水被害のあった年の翌年の2003年度から2007年度まで要望書が提出されていました。

ただし、その優先順位は高くはなく、高くても5番目でした。優先順位が低かった理由は、2002年水害の防止のために必要なものは、築堤ではなく、移転補償だったことや費用対効果が小さいことを常総市や消防団が知っていたからだと想像します。

それでも5年間要望が出され続け、ほぼ3位以内と順位が高かった若宮戸地区が放置されたのとは対照的に、2007年度には整備が完了したのは、河川敷に人家があるように見えるという異様な光景があり、実際に被害が出たことで被告は要望を聞き入れたと思います。

なお、2009年度から2011年度までについても、豊岡地区での築堤要望が出ていて紛らわしいのですが、右岸9.5k付近での築堤を要望するもので、議論の対象である豊水橋右岸下流の区間とは関係ありません。

要望書21

鬼怒川での河川整備の要望書の作成過程は分かりませんが、おそらくは、自治体が住民の意向を汲み取って国に要望するのだと思います。

「要望書」の法的効果は文字通り「要望」という事実行為にすぎず、何の法的担保措置も伴わないから、法律上は何の意味もないのであり、無視すべきだ、と考える人もいるかもしれませんが、河川法は、1997年からは、建前としては、河川整備計画策定の際に、「関係住民の意見を反映させるために必要な措置を講」ずることを義務付けている(第16条の2第4項)のですから、少なくとも、管理者が河川整備計画がない間は、「公聴会の開催等」に代わる民意を反映させる手段として、要望書は最大限尊重されるべきであり、確かに、要望実現のための担保はありませんが、管理者が民意を無視して河川行政を執行しても何らの制裁を受けることはないと解することが、河川法の解釈として妥当なのかは疑問です。

●重要水防箇所に議論する価値あり

整備等の要望書と呼応するように、2004年度から2006年度までの重要水防箇所にも右岸11k付近の豊岡町が指定されるようになります。

場所は、右岸11.05k〜11.20kの150mの区間です。

「堤防高」(無堤防区間なので堤防類地の地盤高のこと)の不足の度合いがAランクとされていました。

「重要なる理由」の欄には、「堤外地に民家あり(豊水橋下流)」と書かれています。

上記のとおり、当該区間を「堤外地」と呼ぶことは誤りだと思います。

堤防類地の地盤高がA(大きく不足する)ということは、その堤防類地は段丘の部分にあるのではなく、当該区間の東側(低水路側)にあることを前提としています。

堤防類地が段丘にあるなら(どこを指すのか不明ですが)、高さ不足がAになるはずがありません。

したがって、当該区間は、堤防類地及びこれと一体不可分な河川区域の内側(居住地から見て)にあるので、「堤内地」となるはずです。

「想定される水防工法」が「積土のう」とされていますが、出水してからあの街区の周囲に小型土のうを積んでもどうなるものでもありません。

実際に浸水被害があった場所なのでリストアップしないわけにはいかなかったのだと思います。

原告側は、重要水防箇所を争点としませんが、重要水防箇所が改修工事に反映された一例になると思うので、重要水防箇所は訴訟で議論する価値はあると思います。

●無理矢理堤内地取り込み型の河川区域の指定は他にもあった

豊岡町の違法な河川区域の指定を「無理矢理堤内地取り込み型」と呼びたいと思います。

この型の指定は、下図のとおり、下妻市中居指(しもつましなかいざし)と下妻市前河原(まえがわら)の無堤防区間にも見られます。(中居指にも国土地理院土地条件図初期整備版によると河畔砂丘があり、上流で段丘とつながっていて山付堤として利用されています。)

どちらも、1966年に河川区域を指定しようとしたら、既に河川にかなり接近して家が建っていたので堤内地にしたということでしょう。

下妻市22

2015年洪水では、前河原(左岸32.8k付近)でも溢水がありました。

下妻市には関城台地が北から張り出しており、段丘の上は安全なはずだと思っていましたが、小荒井衛「鬼怒川水害の現地調査報告」によると、低地では3.4m、段丘の上でも約70cmの浸水があり、相当な被害が出たようです。

2011年度測量のL32.75kの堤防高(地盤高)を見てさえも27.010mであり、これが本当なら、計画高水位27.145mを13.5cm下回っており、緊急な整備が必要でした。(加えて同地点での痕跡水位(27.71m)が計画高水位を56.5cmも上回ったことも災いしたようです。)

被告の無堤防区間への対応ぶりが問われるべきだと思います。

●問題の本質は河川区域の違法な指定にある

豊岡町築堤問題の本質は、1966年の河川区域の指定の仕方にあると思います。

本来なら、結城台地のうち計画堤防高よりも高い部分を堤防類地として河川区域を指定し、河川区域内にある家屋は、管理上支障があるとして、どけてもらうのが筋だったと思いますが、それをやると人権問題になり住民との間で軋轢が生じるので、問題を先送りした、というところだと思います。

高い地盤の土地を河川区域にした場合、住民に立ち退きを求めなければ、居住目的の占用許可を事後承諾的に出すことになりますが、そういう異例な前例もつくりたくなかったので、10軒のうち、後に早期に撤去された2軒を除く8軒を河川区域外とし、そこに管理権は及ばないから、所有者は、危険を承知で勝手に住んでいるだけだ、ということにしたのだと思います。(筋論から外れ、堤防類地と言えない場所を堤防類地とし、河川区域境界線を設定し、問題を先送りするという手法は、若宮戸の河畔砂丘における河川区域の線引きの問題と通底するものがあります。)

しかし、計画高水位(11.00kでY.P.17.260m)よりも2m近く低い、実質的に高水敷の部分を堤防類地であるとみなして、河川法第6条第1項第3号の規定に基づき河川区域を指定したことは、河川法の趣旨に反すると言うべきです。

●被告は大東水害訴訟の被告と同様の対処をすべきだった

では、被告は、問題の街区にどう対処すべきだったのでしょうか。

河川区域の指定は、河川法第6条第1項第3号の規定を根拠になされるので、1966年に段丘の高い部分を堤防類地として河川区域を指定し、河川区域内(堤外地)に存在する10軒の建物は、管理上支障があるとして撤去を求めるのが筋だったと思います。

被告は、大東判決を金科玉条としており、豊岡町の街区の問題は、大東水害事件と似ている面があるので、被告は、当該事件の国の対応を真似るのが筋だったと思います。

大東水害事件では、戦後間もない頃、野崎駅前(大阪府大東市)の谷田川の水面上を全面占用するような家屋が建てられました。

大東水害訴訟の差し戻し後控訴審で国は、「これらの家屋は、住居としてのみならず店舗として生活の本拠となっていた事情に鑑みるとき、安易に行政代執行のごとき強行(ママ)手段はとりえないのであるから、(谷田川の一級河川)指定後、改修着手の目途が立つまで、取り敢えず占用許可を与え、後日必要な時期に立退等を求めることとしたのは、むしろ実態に即した妥当な措置である。」(判例時報1229号p54)と述べました。

新河川法の施行時(1965年)には、既に河川の上や中に家が建っていたという点で鬼怒川の豊岡町の家屋の事例と共通します。

違うのは、谷田川上の家屋は、不法占有として建てられたのに対して、鬼怒川の事例では、家屋は民有地の上に適法に建てられ、不法占有ではなかったということです。

また、鬼怒川の豊岡町の事例では、行政代執行の要件を満たさないと考えられることも相違点です。

大東水害事件で国は、不法占有に対してさえ占用許可を与えたのですから、鬼怒川でも堤防類地の実体を有する段丘に河川区域を指定し、その結果として河川区域に取り込まれる家屋について「改修着手の目途が立つまで、取り敢えず占用許可を与え、後日必要な時期に立退等を求める」のが筋だったと思います。

ところが実際には、問題の街区を仮想の堤防類地の外側(堤内地)としたために、河川区域外だから管理者が手出しできないという認識が生まれ、問題解決の動機は薄れていったと思います。

●違法状態の解消に必要なのは移転だった

右岸11k付近での違法状態の解消のために必要なことは、住居移転だったと思います。

問題の街区を取り囲むように築堤することは不可能です。

移転してもらって、河川区域を引き直すしかありません。

移転交渉は容易には進まないとは思いますが、問題の街区について早急に必要なことは移転であり、築堤ではなかったということを原告側ははっきり述べた方がよかったと思います。

●築堤は必要だったが左岸にはもっと緊急性のある区間があった

その上で、築堤が必要だったのか、という問題があると思います。

無堤防区間で堤防類地を決定するには、自然の地形が堤防の役割を果たすということですから、当該地形の地盤高が計画堤防高よりも高いことは必要だと思います。

豊水橋右岸の段丘の上には、1966年当時から計画堤防高(11.00kで18.760m)以下の部分にも家があったと思うので、築堤は必要だったと思います。

しかし、R11.00k付近の背後地は段丘であり、溢水しても大規模な水害にはならないのですから、左岸で緊急性のある区間を早期に整備すべきだったと思います。

そして、それらの整備は、2000年までに完了できたはずだ、というのが私の立場ですが、原告側が批判しているのは、2002年頃以降の被告の行動です(根拠:原告ら準備書面(5)p28)。

(文責:事務局)
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