なぜ殺人はいけないのか

2007-1-10

●藤原正彦氏の見解

子どもたちは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発するそうです。この問いに対して、藤原正彦氏は著書「国家の品格」(新潮新書)で「人を殺していけないのは「駄目だから駄目」ということに尽きます。「以上、終わり」です。論理ではありません」と書いているそうです(2006-7-8読売新聞の橋本五郎編集委員の「なぜ殺人はいけないか」と題した論説から)。

●橋本五郎氏の見解

これに対して橋本五郎氏は、上記論説において、「私ならこう答える。人を殺してはいけないのは、自分の意思に反して、自分の命を奪われることは許されないからだ。自分の運命を他人に支配されるのは生きている証しにならないからだ、と。」と書いています。

●「殺す」の定義は何か

人を殺してはいけないのは、「自分の意思に反して、自分の命を奪われることは許されないからだ。」という理由は、理由になっているでしょうか。

そもそも「殺す」とは、「人や動物の命を奪う。」ことです(大辞林 第二版 (三省堂))。そして、「奪う」とは、第一義的には「他人の所有するものを無理に取り上げて自分のものにする。」ことであり、「命を奪う」場合には取り上げた命を「自分のものにする」ことは不可能ですから、「ある行為によって相手がそれを持っていない状態にする。」ことです。つまり、「殺す」には、もともと「無理に取り上げる」、つまり「取られる側の意思に反して」という意味が含まれています。

したがって、橋本氏の言う「自分の意思に反して、自分の命を奪われる」とは、「殺す(される)」という定義そのものを分解して説明しただけですから、橋本氏の説明は、「人を殺してはいけないのは、人を殺すことが許されないからだ。」と言い換えることができます。これは、トートロジー(特に繰り返したからといって何の意味も明瞭さも付け加えないような同じ言葉の繰り返し。同語反復(大辞林))であり、藤原氏の言う「駄目だから駄目」と全く同じことではないでしょうか。

また、「自分」と「他人」は違うのですから、「自分の意思に反して、自分の命を奪われることは許されない」と考えると同時に、「他人の意思に反して、当該他人の命を奪うことは許される」と考える人に対しては、「自分の意思に反して、自分の命を奪われることは許されない」という理由は、殺人を抑止する論理になり得ていません。

●価値観の正しさは証明できない

橋本氏は、殺人が許されない理由として、「自分の運命を他人に支配されるのは生きている証しにならない」ことも挙げています。橋本氏は、ある価値観の正しさを説明するために、別の価値観を持ち出しただけですが、いずれの価値観にも賛同しない人(他人の運命を支配することに生きている証しを求める人など)にとっては、何ら説得力を持たないでしょう。

「殺すなかれ」は、価値観の問題ですから、「殺してもいい」という価値観を持つ人に対して「殺すなかれ」が正しいと説得することはできません。そもそも価値観に「正しい」も「正しくない」もありません。敢えて言えば、多数人が支持する価値観を「正しい」と呼ぶ場合があるにすぎないと思います。

結局、橋本氏は、人を殺してはいけない理由を論理的に説明していないと思います。結論を別の言葉で言い換えただけです。それならば、「駄目だから駄目」(理由なんてない)という藤原氏の答えの方が誠実で分かりやすいと思います。

橋本氏が、価値観の正しさを論理で証明することができると考えているとしたら間違いだと思います。

●大江健三郎氏は質問者を切り捨てた(この項目以下は07-09-24追加)

ノーベル賞作家の大江健三郎氏は、表題の質問について「私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良しあしとか、頭の鋭さとかは無関係に、子供は幼いなりに固有の誇りを持っているから。(以下略)」(朝日新聞1997-11-30)と書いたそうです(吉岡友治著「だまされない議論力」(講談社現代新書))。

吉岡氏は、「大江の文章は答えるどころか、問いを発した人間を「まともでない」と決めつける。人間に対して「想像力」を持てと主張する人間が、反対意見を持つ人間の内面に想像力を働かせず、切り捨てるわけだ。」と批判します。(質問者が大江氏と反対の意見を持っているわけではないと私は思いますが。)

●吉岡氏の回答が理解できない

では、大江氏を批判する吉岡氏は、標題の問いにどのように回答するのでしょうか。前掲書のp187~193に書かれているようなのですが、難しくて理解できません。

「他人の「痛み」を知る」などと書かれていることから想像すると、平易に表現すれば、「他人の「痛み」を知れば、他人を殺していいことにはならないはずだ」とか「自分が殺されるのが嫌なら、他人も殺されるのが嫌なのだから、他人が嫌がることはすべきでない」という程度のことなのかなと思います。

しかし、他人の痛みなど知りたくもない、自分は殺されたくないが他人は殺したい、という人が殺人を犯すのでしょうから、そういう人にとって、上記の回答は意味を持ちません。「そういう人」とは、いわゆる殺人鬼だけではありません。

今、アメリカ軍や自衛隊がアフガニスタンに対してやっていることは、空爆による無差別殺人です。自衛隊は給油活動をしていますから、共犯です。正確な数字は出ていませんが、アフガニスタンへの空爆による民間人の犠牲者は、1万人近くになると思います。この殺人を日本政府は、国際貢献と称して支持しています。多くの日本国民も自衛隊の給油活動を継続すべきだと考えています。多くの日本人が「自分は殺されたくないが、他人は殺されてもいい」と考えているわけです。吉岡氏の回答が説得力を持つなら、自・公政府は自衛隊を海外派兵していなかったはずです。

多くの政治家や国民は、「アフガニスタンで空爆される民間人の身にもなってください」と説得されても、「アメリカに逆らったら何をされるか分からない」とか「だってドイツやフランスも参加してるもん」などの理由を並べて、聞く耳を持たないでしょう。

吉岡氏は、標題の設問に対して「駄目だから駄目」以外の説得力のある回答があると考えていることは確かでしょう。しかし、簡単に説得に応じる人を想定して議論しても意味が薄いでしょう。現実に多数の殺人が起きているのですから。

●憲法の視点が欠けている

吉岡氏は、「「他者」(他我)が構成概念であるという前提に立って、殺人の問題を考察した議論を私は見たことがない」(前掲書p193)と嘆きますが、憲法の視点から議論されないことの方がはるかに問題だと思います。

他人からどんなに説得されようと「人を殺していい」と考える人はいます。(しかも権力の中枢に)しかし、「人を殺していい」と考えることは、思想の自由であり、日本国憲法が保障しています。頭の中でそう考えること自体は、どうしようもないことです。実行に移したら処罰する。それだけの話です。

「人を殺していい」と考えないように説得することに意味がないとは言いませんが、どうしても説得に応じない人がたくさんいることも事実であり、そういう人には「ダメなものはダメ」と言うしかないと思います。

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