沖大幹教授への質問(その2)

2014年7月15日

●将来の原子炉は安全か

日本ダム協会のダムインタビュー(33)の沖大幹先生に聞く「ダムは造りすぎではなく最低限の備えが出来た段階だ」について疑問があります。

沖教授は、核発電について次のように答えています。

沖: なるべく早く落ち着くことを期待しますが、首都圏で飲み水まで放射能汚染されたというのが現実になったことから、オピニオンリーダー的な人までが、どうも原発は危ないと思ってしまうのではないでしょうか。

専門の方に聞くと、事故を起こした原子炉は一番古い型なので、最近のもの、いわゆる3.5世代だと重力で冷却できるので電源喪失でも大丈夫だそうです。想定外の事態が起こったとしても、大事な部分には影響が及ばないように造るという、そういう設計思想、建て方が必要でしょう。

さらに、今までは絶対安全という建前で近くに人が住んでいるところにも開発してきました。しかしこれからは例えば30キロ圏内には関係者以外人が居ないような場所でないと造らないとか、そういう計画にすべきでしょう。

沖教授は、「専門の方に聞くと、事故を起こした原子炉は一番古い型なので、最近のもの、いわゆる3.5世代だと重力で冷却できるので電源喪失でも大丈夫だそうです。」と言われますが、1986年にチェルノブイリ事故が起きた時も、チェルノブイリ発電所の原子炉と日本の原発の原子炉では構造が違うので、チェルノブイリ事故のような大量の放射能を放出するような事故が日本で起きることは考えられないと専門家は言っていたようです(下記URL)。
http://homepage3.nifty.com/jmaffili/nuclear/faq.htm#3

沖教授が原発の専門家から聞かれた話は、新たな安全神話ではないでしょうか。「専門家がその時点の最新の科学的・客観的知見に基づいて中立的に正当な判断を下せるとも限らない。」(p225)と言いながら、なぜ原子力の専門家の言説を真に受けるのでしょうか。

3.5世代原子炉の深刻な事故を起こす確率は5千年に1度だそうです(下記サイトp34)。

http://www.cpdnp.jp/pdf/003-01-002-08.pdf

しかし、放射能汚染は、絶対に起きては困ると考えませんか。ゼロリスクを求めるなら最初から使うべきでないということになります。

それとも沖教授は、何年かに1度は、福島の事故で生じたような被害を国民は受け入れるべきだとお考えでしょうか。つまり、沖教授は、福島の事故は、「許される危険」と考えるのか、「許されざる危険」と考えるのかという問題です。

また、「重力で冷却できるので電源喪失でも大丈夫」という話も、実は怪しげなものではないでしょうか。

「重力で冷却」するといっても、原子炉の上に無限に水が存在するはずはありません。「重力で冷却」する装置とは、原子炉の上に設置した水タンクの中の水が異常時に自動的に重力で落ちる仕組みのようですが、原子炉の上にある水の量が72時間分の冷却水の量だとすれば、72時間以内に電力が供給されなければ、水が供給できず、冷却が不可能になります。

また、地震動で配管や弁が壊れ、原子炉が過熱しても自動的に冷却水が原子炉の上に落ちてこない事態も想定できると思います。

要するに、専門家の言う安全性は、事故後3日以内に電源は回復するという前提に立った上での安全性である可能性はないでしょうか。

「オピニオンリーダー的な人までが、どうも原発は危ないと思ってしまうのではないでしょうか。」とは、「原発は実は安全なのだ」という意味だと思います。その「安全」は、核の専門家の発言を真に受けることだとすれば、理屈になっていないと思います。

また、原発の是非は、事故の問題だけでなく、総合的に判断すべきだと思います。

事故が起きた場合の被害が甚大であることはもちろんのこと、仮に原発事故が起きないとしても、事故の賠償や廃炉の費用まで含めたら原発のコストは最も高いこと、ウラン採掘の問題、最終処分の問題(トイレなきマンションで生活を享受し、ごみ問題を後世に押し付ける無責任さ)、被曝労働者の問題等を総合的に考えれば、原発を再稼働させるべきではないということにならないでしょうか。

沖教授の「(原発は)これからは例えば30キロ圏内には関係者以外人が居ないような場所でないと造らないとか、そういう計画にすべきでしょう。」という発言は、「科学は中立」であり特定の施策を推奨すべきでないという主張と矛盾しないでしょうか。

また、30キロ圏内という数字の意味が分かりません。福島市や栃木県那須塩原市は、福島第1原子力発電所からそれぞれ60km、100km以上離れているのに、高濃度で汚染された(武蔵野市や葛飾区や江戸川区のように都内にもホットスポットがある)のですから、30kmに意味があるとは思えません。

大飯原発に関する福井地裁判決では、250km圏内の住民に原告適格を認めていることからも分かるように、30kmという数字は危険と安全の境目としての意味を持たないと思います。

●ダムで水害を減らせるか

沖教授は、次のように言います。

ところが、東海豪雨があり、2006年には新潟・福島豪雨や台風23号災害があり、200人くらい亡くなっているのです。だから水害で人が亡くなるのは少ないともいえない。ダムは造りすぎではなく最低限の備えが出来た段階と思っていいのかも知れない。今はそういう気がします。

沖教授は、「ダムは造りすぎではない」と言われますが、ということは、今後ダムを造ってもおかしくないと言っているわけで、科学者は政策提言をすべきでないという沖教授の持論に反するのではないでしょうか。

ダムで命を救えるという前提ですが、前提が成り立たないのではないでしょうか。

Wikipediaによると、2006年7月豪雨における死者・行方不明者は、次のとおりです。

消防庁のまとめによると、豪雨による死者は26人、行方不明者は1人となった。

19日
福井県福井市でがけ崩れが発生、男女2人死亡
岡山県新見市で土砂崩れ、女性1人死亡
長野県岡谷市で土石流が発生、男女8名死亡
長野県辰野町で土砂くずれで女性2人死亡
長野県上田市で女性1名川に転落、行方不明
京都府京丹後市で地すべり、男女2人死亡
島根県出雲市で避難途中に男女2人死亡、女性1人行方不明
島根県美郷町で土砂崩れ、女性1人死亡

20日
岐阜県飛騨市で男性が誤って用水路に転落、死亡

22日
長野県辰野町で土砂災害復興作業中、心不全のため50代男性死亡
鹿児島県大口市で道路に氾濫した濁流に飲み込まれ、女性1人死亡
鹿児島県さつま町で川内川に男性が転落、死亡
鹿児島県薩摩川内市で土砂崩れ、男性1人死亡
鹿児島県菱刈町で土砂崩れ、女性1人死亡
鹿児島県菱刈町で運転中に土石流に巻き込まれ男性1人死亡

上記死亡事故の中で、ダムで救えた命はいくつあったでしょうか。

2004年の新潟県の刈谷田川と五十嵐川の水害では、1/100の洪水に備えてダムが完成していたにもかかわらず、1/300の豪雨に見舞われ、堤防が決壊し、12人の死者が出て、1万棟を超える浸水被害があったといいます。

沖教授は、土石流、内水氾濫、超過洪水にダムは対応できないこと、水害対策はダムだけではないことをご存知のはずなのに、水害による死者は少ないとも言えない、だから「ダムは造りすぎではなく最低限の備えが出来た段階と思っていいのかも知れない。」と今後もダムを造ることを否定しない理由は何でしょうか。

「水害は終わっていない、だから今後もダムは必要だ」という主張は短絡的ではないでしょうか。

今後人口が減少し、不動産に余裕ができるのですから、水害を減らすためにダムを建設する予算があるなら、浸水地帯の住民の移転費用に使うのではダメでしょうか。

●ダム不要論の根拠は「ここ数年洪水がないから」ではない

沖教授は、次のように言います。

(ダムを)もっと造る必要があるかどうか、というようなところで言うと、それは安全率をどれくらいまでみんなが求めるかという話になってくると思います。今のままで良いじゃないというが、今のままというのは、たまたまこの50年困らなかったということなのか。それとも、毎年こういうリスクがあるけれども担保しましょうということなのか。普通は、経験に照らして今までいらなかったけれども、いざとなったら、かなり深刻な事態になるというのをみんなが実感し、納得したうえで、お金がないから、ここ数年洪水がないからいらないという、そういうコンセンサスがあってのことでなければいけないと、そう思います。

ここでもダムが水害対策として有効だという前提で話されていると思いますが、沖教授は、ダムが本当に有効か、あるいは費用対効果の計算方法が合理的かを検討されたことがあるのでしょうか。

全水害の中で土石流や内水氾濫による被害の占める割合を沖教授はご存知でしょうか。

「たまたまこの50年困らなかったということなのか。」、「普通は、経験に照らして今までいらなかったけれども、いざとなったら、かなり深刻な事態になる」と言われるのは、「相手を脅して自分の思うようにしむけるのは強盗と同じ。危機を煽るのは良くない。」(「水危機 ほんとうの話」p13)に該当しないでしょうか。

沖教授は、これまで無事であっても、今後どのような恐ろしい水害に襲われるか分からないと言いたいのだと思いますが、洪水を想定して水害対策を講じるなら、未曾有の洪水ではなく、既往最大洪水を対象に計画するのが常道ではないでしょうか。

「普通は、経験に照らして今まで(ダムは)いらなかったけれども、いざとなったら、かなり深刻な事態になる」という発言は脅しのように聞こえますが、2013年9月25日付け朝日新聞「(インタビュー)豪雨の時代に 東京大学生産技術研究所教授・沖大幹さん」では、「今世紀末を想定した推計によると、1年間に降る雨の総量はほぼ変わらないか、やや増える程度です」という発言と矛盾するようにも見え、理解に苦しみます。「短時間の激しい雨が増えているのは確か」だとしても、「1日単位の豪雨が増えているかどうかははっきりしていません。」というのであれば、地球温暖化による水害対策のためにダムを増設しなければならないということにはならないはずです。結局は、「短時間の豪雨の増加で水害リスクは高まっています。」と話しておられますが、続いて語られたことは、「最近では、1時間に100ミリを超える雨が珍しくありません。降る範囲は狭くても、降った場所ではどうしてもあふれざるをえない」という話です。内水氾濫の話ですから、ダムとは関係がありません。

沖教授は、ダムが必要である理由を、水害が発生し続けているということ以外に語っていないように思います。

ダムを議論する以上、日本で最大のダム問題である八ツ場ダムを意識せざるを得ず、このインタビューも八ツ場ダムが念頭にありますが、ダム訴訟の原告らは、「ここ数年洪水がないから(ダムは)いらない」なんて言っていません。

利根川では、ここ60年間以上、1万m3/秒(八斗島地点)を超える洪水はなく、利根川・江戸川本流での破堤もないことを沖教授はご存知でしょうか。

それにもかかわらず、国は、ダムがない場合に2万2000万m3/秒も流れると主張していることを沖教授はご存知でしょうか。

基本高水2万2000万m3/秒は1/200確率なのだから60年間の実績値と比較しても意味が薄いとしても、カスリーン台風時の実績流量(推定値)約1万5000m3/秒(国の公式見解でも1万7000m3/秒)との差は国土交通省でも日本学術会議でも説明がつかず、過大であることは明らかではないでしょうか。

沖教授は、ダム事業を中止するには(流域住民と事業者との?)コンセンサスが必要というお考えのようですが、建設する場合にもコンセンサスが必要とお考えでしょうか。

なお、国土交通省も多くの都道府県も住民のコンセンサスなど不要と考えていることを沖教授はご存知でしょうか。

例えば、国土審議会の分科会では、国民は傍聴が許されるだけで、意見を述べる機会も保証されていないし、パブリックコメントも実施されないまま国の基本方針が粛々と決められていくことをご存知でしょうか。

利根川水系河川整備基本計画についてはパブリックコメントが実施されましたが、多くの国民が八ツ場ダムに反対意見を提出しても国土交通省は、行政手続法第42条の考慮義務を果たさず、提出意見を無視していることを沖教授はご存知でしょうか。

●「必要最小限」という文字は辞書にないのか

沖教授は、次のようにいいます。

沖: その主張(今の私たちの周りの自然を守れという主張)は、今は環境が良いから、これ以上変えるなというのに等しいですね。100年前、500年前は森林だったのに、それを切り開いて今の我々は暮しています。でも今が良い、だから変えるのはいけないというのが大半の環境保護派の言い分のように思えます。変わっていくのも自然なのです。ダムに関わる自然保護の問題も、そういう矛盾を抱えていることを知って欲しい。ダム反対を言う人は、山の自然をダムでちょっと壊すと反対。自分たちが少しでも平らな土地を使うようになったから、洪水が来そうな場所でも住んでしまったから、よけいに治水としては難しくなったのですが、それでもダムならなんでも反対。都会に住んで電気を、水を使いながら、ダムだけは反対という人たちがいるのも現実なのです。でも、感情の問題は理屈じゃありませんからね。

日本ダム協会へのリップサービスなのかもしれませんが、環境問題を理解している人の発言とも思えません。

名前は忘れましたが、筑波大学の教授が「ダムを建設して自然が破壊されたと言う人がいるが、50年も経てば、ダムのある風景が自然になる。」と言いました。

自然破壊は人間の性。以前の風景を懐かしがるのはナンセンス、というわけです。

「変わっていくのも自然なのです。」という沖教授のお話の趣旨も同じだと思います。

自然に対してどのような改変を加えても時間が経てばそれが自然になると考えるとしたら、環境保全などやる必要がなくならないでしょうか。

確かに、人が生きるためには環境破壊は避けられません。しかし、次世代に環境という富を引き継ぐには、環境破壊を最小限に抑えようと考えるのが多くの人の心情ではないでしょうか。

人々が幸せに暮らすために是非とも必要とは言えないような環境破壊を今やめるのか、これからも続けるのかには大きな違いがあると思います。

沖教授は、これまでやってきた環境破壊を今止めても意味がないでしょ、と言いたいのかもしれませんが、意味はあると思います。

沖教授の辞書には「必要最小限」の文字はないのでしょうか。

今、1都5県の住民が幸せに暮らしていくために八ツ場ダム建設は必要最小限の環境破壊なのかを吟味する必要があると思います。

ところが、沖教授は、人が生きるには環境破壊は避けられない、だからダム建設を受け入れるべきだ、といういわば「毒食らわば皿まで」論とも言うべき短絡的な論法(自衛隊を憲法解釈で容認するなら集団的自衛権も容認すべきだ、という論法と似ています。)でダムを擁護しており、環境破壊は必要最小限であるべきだという思想は感じられません。

沖教授は、「環境破壊は必要最小限であるべきだ」という考え方についてどのように思われますか。

沖教授は、八ツ場ダム訴訟の判決を読まれたでしょうか。(判決は以下のサイトに掲載)
http://www.yamba.jpn.org

どの判決も八ツ場ダムが本当に必要なのかの吟味を避けていることを沖教授はご存知でしょうか。

水需要が増えると予測しても合理的でないとはいえない、とか、日本学術会議が基本高水を検証したのだから、看過し得ない瑕疵が明白に存在するとは言えない、など、およそ理由にならない理由を並べて住民側敗訴としていることを沖教授はご存知でしょうか。

沖教授は、大半の環境保護派は、今以上に環境を破壊することは許されないという意見であると思い込んでおられる節がありますが、少なくとも水源連の会員や八ツ場ダム訴訟の原告の多くは、人が幸せに暮らすためにどうしても必要不可欠であることが説明されれば、今以上の環境破壊を受け入れる立場だと思います。

行政がその必要性についてまともな説明をしないから、ダム反対派は、すべてのダムに反対するような形になってしまうのです。

沖教授は、地球温暖化を人為的にどうにかする必要があるという立場に立たれる以上、「環境は将来の世代からの借り物」とか「これ以上環境を破壊したくない」という感覚は必要ではないでしょうか。

沖教授は、「今は環境が良いから、これ以上変えるな」とか「今が良い、だから変えるのはいけない」という主張は間違っており、「変わっていくのも自然なのです。」と考えるのが正しいと主張されていると思います。

しかし、「変わっていくのも自然なのです。」と考えるのであれば、地球温暖化を抑制する必要もないことになりませんか。

沖教授はIPCCの立場を支持されているのではないでしょうか。というより、総括執筆責任者です。

そして、IPCCは、地球温暖化を防止するために温室効果ガスの排出量を削減しなければならないと主張していると思います。その主張は、「今は環境が良いから、これ以上変えるな」とか「今が良い、だから変えるのはいけない」という主張と極めて似ているのではないでしょうか。「今が良い状態だ」とは言っていないでしょうが、「これ以上地球温暖化を進行させてはいけない」というのがIPCCの主張ではないでしょうか。

沖教授の地球温暖化問題に対する態度とダム問題に対する態度には矛盾があるように感じます。

(文責:事務局)
文中意見にわたる部分は、著者の個人的な意見であり、当協議会の意見ではありません。
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