専門家を育てることはいいことか(その2)

2008-07-18

●内心にとどまる良心では意味がない

ブログ"鹿沼市政ウオッチング"に奈佐原文楽ドイツ公演に拍手!が掲載され、後半で、このテーマでは最後のコメントをいただきました。それから大分時間が経ってしまいましたが、私からもコメントしたいと思います。私もこのテーマは、既に結論の出ている問題だと思いますので、最後にしたいと思います。

佐渡ケ島氏は、次のように書きます。

「鹿沼のダム」サイト管理人さんは、私の前記記事の内容を 「役人性善説に立ったもの」と批判され、 「職員が市民の利益を考えるという「担保」は何もありません。職員は市民が払った税金で食べているのだから、市民の利益のために働いて当然だと考えている市民もいるでしょうが、幻想にすぎません。 」と、述べられています。
さらに、 「職員は市長の命令に逆らえません。一見して明白に違法な命令でない限り、従う義務があります。市長が市民の利益にかなう行政を執行するなら、職員も市民の利益のために働いてくれるでしょう。しかし、阿部市政でのダム行政のように、市長が市民の利益に反する政策を遂行しようとするときには、職員はどっちを向くかと言えば、企画課や水資源対策室や水道部の職員はダム建設促進やダム水を前提として水道計画の執行を進めざるを得ませんし、ダムに関係のない職場の職員は、ダムが無駄だと気づいていても、沈黙を守ります。ダム反対の署名なんてしてくれません。ダムに反対の姿勢を見せれば、市長から憎まれて左遷されるのがオチです。 」 と、鹿沼市役所の内部事情について述べ、 職員も生活を抱え、収入や世間体を気にするのだから、上の命令に対しては、 たとえそれが間違ったものであっても従わざるを得ない、といいます。

私もサラリーマンですから、組織に身をおいて働いている以上、 上司の命令には従わなければならないことは、重々承知しています。 しかし、そんな中でも、少しでもよい仕事をしたい、社会のために役に立ちたい、 と考えるのが、「普通の」感覚ではないでしょうか?

「鹿沼のダム」管理人さんも、「水道職員のやる気をどうしてくれるのか」という記事で、 「職員には二種類あり、上から命令されれば何でも平気でやれる職員と、できれば雇い主である市民の役に立つ仕事をしたい、役に立たない仕事をさせられると良心が痛むという職員とに分けられると思います。多くは後者でしょう。市民の利益に反する仕事をさせられたら、やる気をなくします。 」 と、書かれたことがあります。 私も、この意見には全面的に賛成します。

こうして読むと、私が矛盾することを書いたように受け取る人もいると思います。しかし、「仕方がない」というキーワードを忘れていただきたくありません。「良心」は、「仕方がない」という言葉の前には無力です。「役に立たない仕事をさせられると良心が痛むという職員」が大多数であっても、彼ら及び彼女らは、立場上、「ダム反対の署名なんてしてくれません。」。出世に響くからです。

そもそも性善説をどの次元でとらえるかが問題です。「内心」の次元でとらえたら、ほとんどの公務員は良心を持っており、善人と言えるでしょう。(企業人だってほとんど善人でしょう。)多くの職員は良心に訴える映画を見て落涙することもあるでしょう。しかし、その良心を何かの形にするということは別次元のことです。良心を持っていても、それを口にすること、良心に従って行動することは、それぞれ次元が異なります。内心にとどまる良心を問題にしても意味がありません。

良心と正反対の「悪心」(あまり使わない言葉ですが)についてもそうです。例えば、だれかに殺意を抱くこと、殺意を口にすること、ナイフを買うこと、実際に殺すことは、それぞれ次元が違います。普通の宗教の世界では、殺意を抱くことは、それだけで罪でしょう。しかし、宗教の外の社会では、殺意自体をとがめることはできませんし、とがめるべきでもありません。大抵の国では、殺人の準備行為をした段階で殺人予備罪に問われるのだと思います。

宗教以外の世界では、良心も悪心も内心の段階で問題にしてはいけないのです。

多くの職員は良心を持ち合わせているでしょう。しかし、「仕方がない」という呪文を唱えたとたんに、その良心は消えてしまうのです。

当サイトのフロントページに掲げた 「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。」 (マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師) という言葉を想起していただきたいと思います。キング牧師も「内心にとどまる善意では意味がない」と言いたかったのだと私は解釈しています。宗教家は心の中を問題にしますが、宗教家の中には「実践」も問題にする人もいるということです。宗教が邪悪であった場合、危険なことではありますが。

行動の次元でとらえるならば、職員性善説は成り立たないと思います。職員が出世欲、金銭欲、世間体などから無縁ではあり得ないのですから。企業のサラリーマンだって同じです。「社会のために役に立ちたい」という普通の感覚を持っていても、出世のためには、生活のためには、「仕方がない」と割り切れば、偽装表示でも有害物質の垂れ流しでも、平気でできてしまうのです。まれに「平気」でない人がいるから、職を賭しての内部告発があるわけですが。

ほかのページにも書いたと思いますが、鹿沼市職員の中には、市長の悪政に訴訟を起こす職員に対して、「市長の方針に反対なら、職員をやめてから反対運動をするのが筋だ」と言う人もいます。特に管理職に。これもほかのページに書きましたが、鹿沼市の職員組合のニュースには、「これからは市民の目線で考えることも必要」と書いてあり、これまで市民の視点で考えてこなかったことを認めています。このことは、多くの職員が「市民の視点」=「良心」を持っていないことを証明するものではないでしょうか。それとも、ニュースを執筆する組合幹部だけの問題でしょうか。

管理職も非管理職も、良心は持っているのでしょうが、「仕方がない」という言葉の前には、市民の視点や「社会のために役に立ちたい」という気持ちは消えてしまうのです。

戦争を遂行するほどの力を持つ「仕方がない」という呪文の重みを知るべきだと思います。

私が知っている鹿沼市職員の口癖は、「世の中ってそういうものだから」です。「仕方がない」の別バージョンと言えましょう。彼の名誉のために書きますが、彼にも彼なりの良心や正義感があると思います。しかし、「仕方がない」とか「世の中ってそういうものだから」という呪文を唱えたとたんに、良心を麻痺させて、理不尽なことができてしまうのです。

出世のためには「仕方がない」と妥協するか、「そういう市長を選んだのは、市民の責任だ」という「選挙のときだけ民主主義」を持ち出して、自分の行為を合理化してしまうのです。

●職員が良心を発揮するにはインセンティブが必要

続いて佐渡ケ島氏は、次のように書きます。

だとすれば、こういう「市民の役に立つ仕事をしたい」職員が、そういう仕事ができるような仕組みを、 どうすれば作れるのか?ということについて考えることが、何より重要であって、 「スキルアップは必要ない」と、職員の資質向上を頭から否定することではない、と思います。

ちなみに、私は公務員が担保もなく「よいことをするはず」と、思うほどお人よしではありませんが、 「できれば雇い主である市民の役に立つ仕事をしたい、役に立たない仕事をさせられると良心が痛むという職員」についても、何人も知っています。 彼らが気持よく仕事ができる職場を作ってあげたたい、 市民の声を真摯に受け止め、市民のための行政を第一に考えるような市役所になってほしい、 どうすればそれができるのか?ということを考えてきました。 それは、このブログを立ち上げた理由のひとつでもあります。 そのことを「性善説」として切り捨ててしまうのであれば、 もはや公務員に対しては、「何も期待できない」ということになってしまいます。

「私は公務員が担保もなく「よいことをするはず」と、思うほどお人よしではありません」

でしょう。職員が公共の利益のために仕事をするには、インセンティブが必要です。職員が市民の利益のために無駄な事業をやめるための努力をすれば、出世できる、給料があがるという仕組みがあるなら、放っておいても職員は市民の利益のために能力を発揮するでしょう。しかし、現実にはそういう仕組みは、少なくともこれまではありませんでした。むしろ、市民の利益に反する仕事をてきぱきと進めることができる職員が出世するという現実がありました。

●人事権は市民にではなく市長にある

職員の人事権は、市民にではなく市長にあります。だから、職員は、市民のためでなく、市長のために働くことになります。職員の本当の雇い主は市民なのであり、市長は市民の付託を受けて任命権を行使しているだけなのですが、そのことを理解している職員は多くありません。そうした職員に対して出世欲を持つなを言うことはできませんから、職員が市長の持つ人事権を意識して働くことを責めることはできないと思います。市の全職員に対して、「市長のためではなく、市民のために働け、そのためには世捨て人になれ」とはだれも言えないでしょう。市民は職員が世捨て人になることを期待できない以上、そして、職員は名誉を求め生涯賃金を最大化しようとする存在である以上、職員に期待することに意味があるのでしょうか。

繰り返しになりますが、市長が市民のための行政を執行するなら、職員の出世欲や名誉欲は問題になりません。問題は市長が悪政を敷いたときです。「ダム」の視点から鹿沼市政を顧みるとき、市内のダム計画策定以降、歴代鹿沼市長でダム計画に反対した市長はおらず、歴代市長が市民のための行政を執行してきたとは言えません。市民は職員に対して、「市長の方ではなく、市民の方を向いて仕事をしろ」と言ってもむなしいのではないでしょうか。

●すべてが悪政ではあり得ない

誤解のないように書きますが、阿部市政がすべて悪政であったわけではないように、職員(少なくとも組合幹部)に市民の視点が欠けているとしても、特に出世した職員が常に悪いことばかりしていると言うつもりはありません。

住民票の管理や印鑑証明の発行なんて、だれが市長をやっても悪政にしようがありませんし、だれが職員であっても市民の利益に反するようなことはできない性質の仕事です。住民票発行の速度の差やミス発生の確率の差は出るでしょうが。「住基ネットにつなぐことが市民の利益になるか」という問題はありますが、住民票の管理そのものはだれが見ても必要な仕事であり、やったからと言って市民が喜んでくれるわけでもありませんし、市民に害をもたらす仕事でもありません。

消費生活相談なんかは、性質上市民に喜ばれる仕事です。現状は相談員は非常勤職員ですが、出世欲の強い常勤職員が相談を受けたとしても、消費者の利益に反するようなことはしないでしょう。

水道事業は、本来は市民に喜ばれる仕事のはずですが、水源にダム水を使うことによって、自然破壊、借金増加、水道料金値上げ、安全性低下という害悪を市民にもたらします。

水資源機構からの収入金で職員給与を賄っている水資源対策室が一部の市民にしか喜ばれない仕事であることは言うまでもありません。

問題は、市民の利益を害する仕事をさせられたときに、職員はどうすべきかということです。「世の中ってそういうものだから」と割り切るのか、良心に従って何らかの行動を起こすのかということです。出世欲や名誉欲と市民の利益とどちらを優先させるのかということです。

問題はもう一つあって、鹿沼市内にダムが建設されようとしているときに、幸いにも水資源対策室や水道部に配属されなかった職員が「自分は悪事に手を染めていない」と、傍観者を決め込むことができるのか、できないのかという問題です。「不作為は市民への裏切りにはならない」として、安全な道を歩むのか、危険を犯してまで「ダメなものはダメ」と言うのかという問題です。

●良心を消さない方法が一つだけある

世捨て人になりたくない普通の職員が市長の悪政への抵抗勢力になる方法が一つだけあります。一人一人の職員が「ダムに反対の姿勢を見せれば、市長から憎まれて左遷されるのがオチです。 」から、組合が団結の力によって職員の良心を代弁することです。組合員が良心の痛みを感じるような仕事させるな、という要求を掲げて闘争すればいいと思います。これも再三書いたことですが、香川県職労のようにダム反対を掲げればいいと思います。

しかし、鹿沼市の組合はそれはやりません。ダムの仕事が無駄だと言ったら、ダム促進の仕事をやっている組合員が職を失う可能性があるというのが理由です。全国の職員組合が無駄な仕事をやめろと言ったことはほとんどありません。 例外的に「国民体育大会なんてやめちまえ」と言ったことはありましたが。

夕張市の職員も職を失いたくないために無駄な仕事をやめろと言えず、無駄な仕事をやり続け、その結果勤務先が財政破たんし、結局、多くの職員が職を失ったのではないでしょうか。財政が破たんするまで無駄をやめられないのが、公務員の性なのでしょうか。

●教員採用汚職は閉鎖性が要因

人事異動の在り方を考えている時期に大分県の教員採用汚職事件が発覚しました。教育のプロたちの閉鎖性が大きな原因となっているという識者の指摘は否定できないと思います。

(文責:事務局)
フロントページへ>その他の話題へ>このページのTopへ