移転者の心情でダムを建設されてはたまらない

2009-09-22

●民主党公約の波紋報道

2005-09-16下野は、「民主公約で広がる波紋/どうなる南摩ダム」の見出しで南摩ダムの問題を大きく取り上げています。

「南摩ダムの水没予定地から数年前に移転した70代男性は、「われわれは故郷を捨てたくて捨てたわけではない。下流域の水需要に応えるために重い決断をしたのだから、ぜひとも早くダムを完成させてほしい」と語ったそうです。

●移転者全員がそう考えているわけではない

「ぜひとも早くダムを完成させてほしい」は、移転者全員の心情ではありません。

私たちが会った水没地区住民は、「南摩ダムに水がたまってもたまらなくても、オレたちにはそんなことはどうだっていいんだ。オレたちの生活再建が大事だ」と言っていました。ダムを建設してほしいとは言っていませんでした。

また、心ある移転者ならば、南摩ダムが治水上、利水上役に立たないことが分かっているのに、自分の移転が無駄ではなかったと思いたいという気持ちを満足させるために自然を破壊し、巨額の税金や水道料金を使わせることに躊躇を覚えるのではないでしょうか。

移転者を含め、鹿沼市の大多数の市民は、南摩ダムを建設してほしいなどとは思っていないと思います。住民投票をやったら、賛成派はごく少数だと思います。その少数のために自然を破壊し、税金を使い、その分福祉や教育の費用を減らすのが民主主義でしょうか。少数意見も尊重されるべきですが、別の形で保護されるべきです。

さらに、上南摩地区内での移転者にとって、南摩ダムは枕元の水がめですから、地震でダム堤体が決壊することを考えたら、建設しないでほしいと考えている人も相当いると思います。移転が役に立っていると思いたいという心情よりも命の方が大切です。

●八ツ場ダムとは違う

八ツ場ダムの場合、地元の人は、ダム事業と補償は不可分ととらえられているようであり、つまり、ダムを中止したら補償もなくなると考えられているようなのですが、それならばダムを造れという意見が多くても当たり前ですが、南摩ダムの場合、移転補償のほかに940万円をもらっているのですから、その上、ダムを造れと言うのは国民にとってあんまりではないでしょうか。

●下流域に新規水需要はない

上記男性は、下流域に南摩ダムを必要とするほどの水需要があるという前提で語っていますが、そのような前提が成り立たないことは、以前から分かっていました。1997年に思川開発事業を考える流域の会が発足したときから、私たちは下流の水需要には疑問があると主張してきました。

思川開発事業の促進を目的として県南市町が結成した団体である水資源開発促進協議会の会長市だった栃木市の人口は、既に1987年の86,807人をピークに減少していたことが象徴的です。2009-08-01現在の栃木市の人口は81,055人です。当然、1日最大給水量もピーク時より3,000m3/日以上減少しています。

明らかに新規水源が必要でない栃木市が南摩ダム促進の旗頭であったことが、思川開発事業が虚構であったことを象徴しています。

南摩ダムの水没予定地の住民は、下流の水需要をどうやって判断したのでしょうか。水資源開発公団(当時)の職員の言うことを真に受けたのでしょうか。今、新聞記事は見つかりませんが、彼らは、90年代に実際に県南地域の自治体に視察に行って(だれが費用を負担したのか知りませんが)、「下流域で水が不足していることを確認した」と言ったはずです。

そうだとすれば、水没予定地住民が公団の職員や下流の自治体の職員にだまされたということになります。だまされた方も悪いとは言いませんが、南摩ダムが利水、治水に役に立つのかという問題について、水没予定地住民が私たちの主張を受け入れなかったことは確かです。

下流が水余りなのですから、「下流域の水需要に応えるために重い決断をしたのだから、ぜひとも早くダムを完成させてほしい」という要望には、合理的根拠がありません。前提となる事実が存在しない要望に基づいてダムを建設されては、納税者はたまりません。

●慰謝料の請求が筋

公団や下流自治体にだまされて悔しいでしょうが、だまされたことによる損害は、だました者に対して責任を追求するのが筋です。首長や職員は職務上だましたので、結局、国家賠償法により国や自治体が責任を負うことになります。だまされたことへの償いは、金銭ですべきで、ダムを建設することであってはならないと思います。

移転世帯は、移転補償のほかに一律940万円のつかみガネをもらっている( 水源地域対策基金事業助成金=協力感謝金とは〜嶋津暉之さんに聞く〜 参照)のですから、既に慰謝料を受け取っていると見ることもできるのかもしれません。

●「苦渋の決断」は移転者だけのものではない

記事の男性は、「下流域の水需要に応えるために重い決断をしたのだから」と言います。いわゆる「苦渋の決断」というものです。

確かに、移転対象者がダム賛成に回るのに苦渋の決断があったのかもしれませんが、ダムに反対する者もそれなりに「苦渋の決断」の上で反対しています。

確かに、移転対象者の中には生活基盤を奪われ、移転を迫られるというひどい目に遭わされてきたのですが、そういう人たちの「苦渋の決断」だけを絶対的に尊重することが公平とは思えません。

ダムに反対したために1,000万円以上の損失を被る人だっています。現地の室瀬地区でダムに反対する人たちもいます。それらの人たちだってそれなりの犠牲を払っているわけですが、その心情は尊重されなくてよいのでしょうか。

ダム建設を望む水没地区住民は、少なくとも移転するまでは1日たりともダムのことが頭から離れたことがなかったでしょうが、反対派だって、運動期間は12年くらいですから、移転対象者と比べたらダムに関わった時間は短いし、移転もしないのですから、その意味では安全地帯にいるのかもしれませんが、この問題に取り組んでいる以上、1日たりともダムのことが頭から離れないという点では同じです。「1円の得にもならないのに、物好きで自分からダム問題に頭を突っ込んだのだから自業自得だ」と批判されるかもしれません。そう言われれば確かにそうなのですが、そういう物好きも社会を良くするためには必要ではないでしょうか。

9月13日放映のTBSテレビ「噂の東京マガジン」では、「事業はほぼ完成しているし、八ツ場ダムを建設してあげないと地元の人たちがかわいそう」みたいな論調で報道していました。キャスターの森本毅郎氏がお休みだったことと関係あるのかないのか知りませんが、税金の無駄遣いを追及する、いつもの「噂の東京マガジン」らしくありませんでした。

●間違った戦争、間違った公共事業は存在しないのか

ひどい目に遭った人がかわいそうだから事業を継続した方がいいという考え方がまかり通るなら、行政が建設予定地の住民を翻弄してひどい目に遭わせれば、そのかわいそうな立場の住民を救うためにダムを建設すべきだということになり、結局、どんな無駄なダムでも建設できることになってしまいます。

先の大戦についても、あの戦争が無駄だった、無謀だったという否定的評価を下すことは、戦死者の死が犬死にだったということになり、かわいそうだから、あの戦争は正しかったという議論を見聞することがあります。「戦争が間違っていると言ったら英霊に失礼だ」という論法です。そんな論法が正しいとしたら、どんな戦争でも、一人でも戦死者が出れば、その戦争は正しかったことになり、世の中にやるべきでなかった戦争は存在しないということになります。誠に危険な論法です。

先の大戦で私の叔父は2人も戦士していますが、叔父たちの死が無駄だったとは思いたくないからあの戦争が正しかったとは思いません。当時戦争をやらない選択肢だってあったはずで、それなのに戦争に突き進んだ者の責任を問いたいという気持ちになるのが当然ではないでしょうか。

無謀な戦争で国民を犬死にさせた責任や無謀なダム計画で住民を翻弄した責任を問うのが筋です。そうした作業を怠れば、悲惨な戦争や無駄な公共事業が繰り返されることになります。

●鹿沼市長発言に救われた

下野の記事によれば、佐藤信鹿沼市長は、「大型公共事業は常に有効かどうかを見直すべき」と言ったそうです。全く正論で、大型でなくても、公共事業は常に有効かどうかを見直すべきだと思います。事業がある程度進んでいるから完成させてしまおうという考え方には与しないという鹿沼市長の発言に救われる思いがします。

また、鹿沼市長は、「建設地としては軽々に事業が必要とか必要でないとは言えない。」とも言います。なぜなら、「下流域の水需要をどう判断するかが重要」だからだそうです。

下流域の水需要を判断する前に、鹿沼市自身の参画水量を見直してほしいと思います。そして上南摩地区の生態系がどうなってしまうのかも重要な判断要素であるべきです。

「治水と利水を目的とする思川開発は、1964年の構想表面化から既に45年が経過」しているというのに、「下流域の水需要」がどうなっているのか未だにはっきりしていないというのはどういうことなのでしょうか。こうしたいい加減な状況もまた、この事業が虚構に基づいていることの証左であり、この事業を中止するための十分な根拠だと思います。

2009-09-19下野によると、佐藤市長の「利水ユーザーである下流域の自治体の意向をしっかり確認した上で判断してほしい」という発言が紹介されています。

「自治体の意向」って何でしょうか。知事や市長や町長の意見でしょうか。議会の意見でしょうか。ダムが欲しいという住民が何人いるのでしょうか。

政治家に判断を仰ぐと、よほどしっかりした政治家でないと、都知事のように「いつ干ばつが襲うか分からない」というような漠然とした理由で、自治体の意向はダム推進ということになってしまいます。政治家は科学的な判断をしないのですから、何回意向を確認してもまともな答えは返ってこないでしょう。

非科学的な首長の判断を許さないという住民が多ければ、まともな結論になるはずです。住民運動の果たす役割が重要だと思います。何よりも非科学的な判断をする首長を住民が選挙で落とせればいいのですが、そうなるには住民が科学的な思考力を養うための不断の勉強が必要ですので大変です。

(文責:事務局)
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