被告は大東判決を理解していない(鬼怒川大水害)

2022-04-18,2022-04-25修正

●大東判決は欠陥堤防の場合を想定していない

今回記事もマニアックで、野山宏調査官解説(原告ら準備書面(6)で詳しく引用。リンク先はcall4のサイト)の理論を前提としています。

今回の結論は、被告は、原告の瑕疵についての主張が「改修の遅れ」型だとし、その理由として、鬼怒川が「改修計画に基づき現に改修中の河川である」ことを挙げますが、理由になっていないということです。

前回記事に書いたとおり、野山解説によれば、原告の瑕疵の主張が、水害の原因は欠陥堤防だった(堤防設置当時に予定した安全性を備えていない)、という場合は大東判決の射程外、ということになると思います。

補足したいこともあるので再論します。

野山は、大東判決の瑕疵の判断基準の判示は、「河川管理の特殊性」、「大東判決要旨一」及び「大東判決要旨二」から成ると言います。

野山は、「大東判決要旨一」は、直接的には「改修の遅れ」という観点から河川管理の有無の判断基準を示したものではあろう」(「最高裁判所判例解説民事篇1996年度」p497)と言います。(「改修の遅れ」という観点からの瑕疵の主張とは、同p520の第三図から、段階的安全性・過渡的安全性を備えている場合、つまり、堤防のある区間では欠陥堤防でないことが前提です。)

したがって、「大東判決要旨一」は、原告の主張が、欠陥堤防が瑕疵だ、という主張の場合は、適用されないはずです。(ところが野山は、一方で、「大東判決要旨一」は「瑕疵主張の内容が「改修の遅れ」か「内在的瑕疵」かにかかわらず適用される」(同p496)、とか、内在的瑕疵の場合(欠陥堤防だ、という瑕疵の主張の場合)にも「「河川管理の特殊性」及び「大東判決要旨一」が適用され」(同p501)と言っており、矛盾しています。野山の解説を真面目に読んでいる裁判官や弁護士を悩ませているはずです。)

次に、「大東判決要旨二」については、野山は、「「大東判決要旨二」は、改修の遅れ(より高い段階の改修がされるべきであった)を指摘して瑕疵を主張する場合にのみ適用され」(同p498)と言っています。

したがって、「大東判決要旨二」が、原告の主張が、欠陥堤防が瑕疵だ、という主張の場合に適用されないことは明らかです。

最後に、「河川管理の特殊性」については、その内容を見ると、(1)河川は危険性を内包している、(2)治水事業には財政的・技術的・社会的制約がある、(3)臨機の危険回避の手段がない、(4)改修、整備の段階に対応する安全性で足りる、ということであり、欠陥堤防の場合には適用されないはずの「大東判決要旨一」(諸制約を考慮せよ、是認しうる安全性で足りる、と言っている)と内容的にほぼ重複するのであり、独立した基準として扱う必要があるとは考えられません。

以上の検討により、原告の主張が、欠陥堤防が瑕疵だ(一定の安全性が欠けていた)、という場合には、「大東判決要旨二」が適用されないのはもちろん、「河川管理の特殊性」及び「大東判決要旨一」も適用する必要性や実益がないので、大東判決そのものが適用されないと考えるべきです。

●原告らの主張が「改修の遅れ」を指摘するものだと被告は主張する

被告は、被告準備書面(9)p3で次のように主張します。

これまで繰り返し述べてきたとおり、鬼怒川は、本件氾濫当時、本件基本方針及び本件整備計画に基づいて改修が進められており、これらの改修計画に基づき現に改修中の河川であったことを踏まえると、本件氾濫当時における堤防整備状況の問題を指摘する原告らの主張についても、「改修の遅れ」を指摘するものにほかならない(被告準備書面(6)19ページ)。

つまり、被告は、原告らの主張が「改修の遅れ」を指摘するものだと主張するのですが、その理由は、鬼怒川が「改修計画に基づき現に改修中の河川であったこと」だというのです。

●被告は判断の順番を間違っている

しかし、被告は判断の順番を間違っています。

原告が、欠陥堤防が瑕疵だと主張する場合に大東判決の「河川管理の特殊性」及び「大東判決要旨一」を適用すべきだという矛盾を含んだ野山解説のp501〜502を整理すると下図のようになると思います。

大東判決流れ図

野山によれば、水害訴訟における瑕疵の判断基準を決めるために最初にやる判定は、河川か人工の排水管かの区別です。(普通は問題にならないでしょう。)

次にやるべき判定は、原告の瑕疵の主張が「改修の遅れ」を指摘するのか「内在的瑕疵」を指摘するのかの区別です。

この判定は、実質的に最初の判定です。判定の基準は、「当該改修段階で予定される安全性を備えて」いるか否かです。(ただし、「当該改修段階」の意味は明確ではありません。)

この判定で、「改修の遅れ」型だとされた場合に、次の段階として、「改修計画に基づき現に改修中の河川」かどうかという判定に進みます。

つまり、「大東判決要旨二」を適用して「改修計画に基づき現に改修中の河川」かどうかを判定するのは、原告の主張が「改修の遅れ」型か「内在的瑕疵」型かを判定した後なのです。

したがって、上記矛盾を含んだ野山解説を前提としても、原告の瑕疵主張の型を判定する前に、いきなり「改修計画に基づき現に改修中の河川」であるか否かというチェック項目を持ち出すのは、判定の順番を間違っています。

素直に見れば、被告は、野山宏の解説を自ら引用しておきながら(被告準備書面(2)p9)中身を理解していない、ということになると思います。

●「ご飯論法」を使った可能性がある(2022-04-25修正)

(書面の読み方が足りず、誤った深読みをしていましたので、以下の記述を撤回しますので、ご注意ください。

被告が「改修の遅れ」型の問題で、「踏まえると」と言ったのは、被告準備書面(6)p19及び同(9)p3においてですが、被告準備書面(6)p11では、「〜からすれば」と言い、被告準備書面(10)p28では、「〜から」と言い、因果関係を示す言葉を用いており、「改修計画により現に改修中」が「改修の遅れ」型の理由になると、被告は本気で考えているということです。

「改修の遅れ」型か「内在的瑕疵」型かを分ける基準が段階的安全性・過渡的安全性を有するか否かであることは、野山解説の第三図から明らかです。

被告は、「改修計画に基づき現に改修中」であれば「改修の遅れ」型になると言います。

そして、野山解説では、「改修の遅れ」型の場合は「改修計画に基づき現に改修中」であるか否かを判定することになります。

そして、被告によれば、「改修計画に基づき現に改修中」であれば「改修の遅れ」型と判定されます。

つまり、被告の論法に従うと判定作業が永遠に循環して、先に進めないのです。

特に、被告準備書面(6)p11は、若宮戸地区についての瑕疵の主張も「改修の遅れ」型だと言っているのですが、倒錯しています。

同地区には堤防がなく、「(2014年に)掘削される前の本件砂丘が、改修工事を行う必要がないものといえるほどの段階的安全性・過渡的安全性を既に有していたとは認められない。」(同p14)と自分で言っておきながら、原告側の主張を「当該改修段階の有すべき安全性」(野山宏の判例解説p495、段階的安全性・過渡的安全性のこと)を有していることを前提とする「改修の遅れ」型だと判定し、最も無防備な箇所について、計画の合理性という最も厳しい基準を適用して瑕疵の有無を判断すべきであると主張することは、矛盾しています。

被告は、「内在的瑕疵」型は「設置済みの施設がその予定する安全性を備えていない」(被告準備書面(6)p11)場合であり、河川管理施設のない若宮戸地区については「内在的瑕疵」を考える余地はないと言い、一理あるように見えますが、被告は1966年に堤防類地の資格がない地形を堤防類地として河川区域を指定したのであり、このことは、欠陥堤防を設置した場合と同視すべきです。

「内在的瑕疵」型は「設置済みの施設がその予定する安全性を備えていない」(被告準備書面(6)p11)場合であると言うのなら、上三坂地区での破堤は、まさに「内在的瑕疵」となるはずですが、被告は、破堤についても「改修の遅れ」型だと言う(被告準備書面(6)p19。理由は、「改修計画に基づき現に改修中」だから、です。「設置済みの施設がその予定する安全性を備えていない」かどうか、という判定基準は持ち出さないのはご都合主義です。)のは矛盾しています。

だから、原告側は、上三坂の堤防は「設置済みの施設がその予定する安全性を備えていない」場合であり、「内在的瑕疵」だ、と言えばよさそうなものですが、否定します(被告準備書面(8)p13)。L21k付近の堤防沈下を放置したために、2011年度には計画高水位を下回った(甲32「鬼怒川堤防高縦断表」)のですが、原告側は、これを管理ミスとは考えないということです。考えているとしたら、「内在的瑕疵」型だと主張するはずです。

被告は、野山解説を理解した上で裁判所をだまそうとしたのではなく、理解していないということです。

準備書面はcall4のサイトに掲載されています。)

しかし、深読みをすると、被告は、意図的に理由にならない理由を言っているとも考えられます。

あわよくば裁判所をだまそうとしているとも考えられます。

すなわち、本当の判定基準である「当該改修段階で予定される安全性を備えて」いるか否か、という基準で判定すると、「内在的瑕疵」型という結論になってしまうので、「これらの改修計画に基づき現に改修中の河川であったことを踏まえると」という、受け取りようによっては根拠にも読めるが、根拠ではないようにも読める、曖昧な表現を用いた可能性があると思います。

原告側の主張が「改修の遅れ」型であることの理由を述べるなら、「これらの改修計画に基づき現に改修中の河川であったのであるから」という表現を使うはずです。

そもそも、「踏まえる」には、「判断のよりどころにする。根拠とする。」(デジタル大辞泉(小学館))という意味があるのですが、「あれこれ思案する。配慮する。」という意味もあり、こちらは論理的必然性とは別次元です。

被告は、言葉の多義性を利用した「ご飯論法」を使った可能性があります。

「根拠になっていないから間違いだ、だましだ」と批判されたら、「根拠を述べたわけではない。あれこれ思案し、配慮しただけだから間違いではない」と反論できる言い回しを選んだ可能性があります。

「〜のであるから」と言われたら、裁判所としては、「本当に根拠になっているのか」というチェックをする読み方をすると思いますが、「踏まえると」と言われたら、チェックをしないで聞き流す可能性もあると思います。

考えてみると、「踏まえる」は、厳密な理論的なチェックを受けないが、根拠を述べたかのような雰囲気は出せる、という便利な言葉だと思います。

つまりは、被告が理由にならない理由を述べたのは、理論的思考ができないからではなく、理由を述べたように見せかけるためだった可能性があります。

●勝敗は初期に決まる

ちなみに、瑕疵の主張が「改修の遅れ」型の場合、その定義からして、段階的安全性・過渡的安全性を備えていた場合なのですから、そして、大東判決は、水害訴訟では、過渡的安全性で足りると言っているのですから、基本的に原告敗訴を意味します。

野山が「「改修の遅れ」の観点から「大東判決要旨一」を適用して河川管理瑕疵の有無を判断するに当たっては、諸制約を伴う行政側にある程度裁量を認め、右諸制約を前提としてもとうてい是認できない著しい水準からの逸脱に限って、これを瑕疵と認めるべきものであろう。」(上記判例解説p496〜497)と言うまでもありません。

一定の安全性を備えているのに、さらなる安全性を求めることは、贅沢なのだから、滅多なことでは瑕疵の存在を認めないよ、というのが野山解説の趣旨だと思います。

「改修の遅れ」型の場合でも原告が勝てるとすれば、「その後(改修計画が定められた後)の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じ」(括弧書きは引用者)たにもかかわらず、「右部分につき改修がいまだ行われていない」場合ですが、この場合も、所詮、段階的安全性・過渡的安全性を備えていた場合ですから、当該安全性が備わっているにもかかわらず、どうしても改修、整備の段階を引き上げなければならない場合など滅多にあるとは思えず、そうだとすると、やはり、「改修の遅れ」型の場合には原告必敗となるはずです。

逆に、原告の主張が「内在的瑕疵」型の場合には、原告必勝となるはずです。

洪水の規模がとてつもなく大きくて、不可抗力が成り立てば勝てませんが、水位が計画高水位以下とかわずかに超える程度で不可抗力を認めることが妥当とは思えません。

裁判所が「内在的瑕疵」型だと判定したら、河川に段階的安全性・過渡的安全性が欠如していたという心証を抱いたことになるはずです。

そうであれば、原告側は、何を証明する必要があるのでしょうか。

より高い段階の整備をすべきだと言っていないのですから、制約論は関係ないはずです。

「出来上がった防災施設自体の瑕疵を原因とする破堤型水害の場合、既に治水事業が終了しているので、基本的に道路事故における場合と同様の法理が妥当するものと考えられる。」(大浜啓吉「行政裁判法 行政法講義2」、2011年。p479)のであり、予見可能性と結果回避可能性の有無を確認すれば十分だと思います。

そうだとすると、大東判決によって瑕疵を判断する場合、原告の瑕疵の主張を分類する初期の段階で勝敗が決まることになります。

それは当然です。初期の分類の基準が「段階的安全性・過渡的安全性を備えていたか」という、そのものずばりの基準(瑕疵があるか)なのですから。

その意味で、大東判決の示す判断枠組みは、異例だと思います。

それはともかく、欠陥堤防の場合は大東判決の射程外なので、原告側は、2011年度に計画高水位より低かった破堤区間の堤防は欠陥堤防であったのであり、加えて、被告が自ら行ったL21k付近の高水敷での砂採取によりパイピング破壊の危険性を自ら増大させたことによる欠陥堤防でもあり、大東判決は適用されない、と主張することも可能だったと思います。

しかし、原告側は、L21k付近の堤防は「脆弱な天端構造であったのである」と言うだけで、「欠陥堤防であった」とまでは言わないのです。

●志登茂川事件の上告理由書の流れ図がおかしい

ちなみに、下図は、志登茂川水害訴訟最高裁判決(1993年3月26日)を解説した判例タイムズNo.828(1994年1月1日)のp173からの引用で、原告側による上告理由書からですが、問題があります。

赤文字は、私が加筆しました。

下図の問題とは、下図が野山のいう「改修の遅れ」型と判定された後の流れ図になっていることです。

欠陥堤防の場合は射程外という流れがありません。

志登茂川上告理由流れ図

2011年度に書かれた飯野光則ら「流域治水における河川管理者の責任範囲に関する一考察」という論文の末尾に水害訴訟の先後関係がうまく整理されています。

志登茂川水害訴訟の上告理由書は、平作川水害訴訟最高裁判決(1996年7月12日)についての野山宏の判例解説を読むことができない時代に書かれたので、上図のような流れ図になったのかもしれませんが、野山は、「判例解説民事篇昭和59年度[2]44頁(加藤和夫)によれば、大東判決は、直接的には更に上位の段階への改修の要否について判断したものであり、河道の整備、堤防その他の河川施設の築造等の改善措置を講ずる義務があったかどうかが問題となる場合に妥当するが、築造された堤防等の河川施設がその設計の予定する安全性を欠くかどうか(内在的な欠陥があるかどうか)が問題となるケースについてはそのまま妥当しない、とされている。」(「最高裁判所判例解説民事篇1996年度」p516)と書いています。

したがって、志登茂川事件の弁護団は大東判決についての加藤の解説を読めたはずであり、大東判決の判決書だけでなく、解説まで読んでいれば、もっときめの細かい(内在的欠陥のある場合まで視野に入れた)流れ図が描けたと思います。

なお、野山は加藤の解説を正直に紹介しており、「改修の遅れ」と「内在的瑕疵」との二分論は野山が命名したものでしょうが、大東判決がすべての水害訴訟に妥当するものではないという発想自体は、昔からあったことが分かります。

前回記事に書いたとおり、九州大学の近藤昭三も欠陥堤防の場合には大東判決は適用されないと言っていた(近年では大浜啓吉も)のですから、判例を研究する者にとっては、このことは、常識的な留意事項だったのかもしれません。

大東判決を正しく理解しない訴訟当事者と裁判所が大東判決をひとり歩きさせ、モンスターに仕立て上げた可能性はないでしょうか。

私が加えた赤文字についてですが、瑕疵の有無の判断と言えば、営造物の物理的な状況(安全性の有無)を審査するのが普通なのに、計画という観念の審査で瑕疵を判断することがいかに異常かが分かるというものです。

●志登茂川事件は問題のある流れ図で裁判所を誤導したか

志登茂川水害は、1974年7月に志登茂川が氾濫した事案であり、堤防はあったようですが、最初から溢れることを想定した、いわゆる越流堤だったと思われます。

被災当時は、流域は農用地が多かったため、総合的治水とか流域治水と呼ばれる、いわゆる「溢れさせる治水」をある程度実践していたようです。

この水害の特徴は、被告三重県自らが危険を作出したことにあり、原告側は、上告理由で、大東判決の射程外だと主張していました。

訴訟は、1審は原告勝訴で、控訴審で逆転します。

最高裁判決を紹介する判例タイムズNo.828を読むと、上告理由は説得力があります。

確かに、控訴審以降、あそこまで裁判所から意地悪をされると、原告側は、何を言っても勝てないのだとは思いますが、原告側は、大東判決による瑕疵判断の手順を上図のように示し、志登茂川(三重県津市)では、改修計画は定められていなかったし、「現に改修中の河川ではない」から、「大東判決要旨二」を適用すべきでない(計画の合理性で判断すべきでない)と主張したのですが、最高裁は、改修計画があったかについて触れることなく、用地の買収交渉が行われていたので、現に改修中の河川であると判断して、原審が計画の合理性で判断したことは正当であるとし、原告側が負けるのですが、原告側は、自分の描いた流れ図によって判断の手順を誤導した可能性はないでしょうか。

上記流れ図は、全ての水害訴訟に大東判決が適用されるように読めます。

上記流れ図を見せられると、弁護団が「本件は大東判決の射程外だ」といくら主張しても、仮に裁判官に悪意がないとしても、その主張を採用するという方向で考えないのではないかと思います。

もちろん、裁判規範(事件を裁くためのルール)については、弁論主義の対象外であり、つまり、ルールは裁判所が探すものであり、当事者の主張に左右されるのはおかしいのですが、実際は、当事者が規範についてもうまく説明しないと、間違ったルールで裁かれしまうことはあるのだと思います。

●結論ありきの判決だった

原告側は、被告県自らが危険を招いたことを最大の争点としていました。

低い堤防から越流しただけなら大した被害にならなかったのですが、被告三重県(知事が国の機関として二級河川を管理し、県は費用負担者の立場。二級河川の管理者が国だったと判例タイムズの解説に書いてあるのですが、当時の制度が私には理解できません。)が、氾濫流の流路を塞ぐという、流域治水にとってマイナスの仕事をしており、被告が自ら水害を招いた側面があるようです。

1審判決によれば、三重県が1954年頃に県道津・関線を敷設し、その分身である三重県開発公社が1962年頃に一身田市街地北東部と志登茂川との間の水田地帯に県営一身田団地を造成すると、これによりそれまで溢水流が流下していた箇所を塞いでしまったために旧市街地が浸水するようになったようです。

県道も住宅団地も河川管理施設ではありませんが、被告が設置した営造物によって、被害が激化した場合は、欠陥堤防を設置した場合と同視すべきであり、大東判決の射程外と考えるべきです。

●被告とは誰か

また、ここには、これまでに問題提起してきた、「被告とは誰か」という問題(同一法人格内の縦割りの問題)に似た問題も含まれています。

三重県が県営住宅団地を造成したことの責任を原告らが追及したことに対して、原審(名古屋高裁)は、「人身田団地を開設したのは、控訴人三重県が県議会の議決を経て設立した財団法人三重県開発公社(後に組織変更して三重県土地開発公社)であるのに対し、志登茂川の管理は、河川法10条によって国の機関としての三重県知事の行うもので、本来主体が異なるものであるから同被控訴人らのこの点の主張は採用することができない。」(判例タイムズNo.828p142)と判断しました。

要するに、原告らは主体を混同しているから、三重県が住宅団地を造成した話を持ち出すのは筋違いだ、というわけですが、主体を混同しているのは、原審でしょう。

この訴訟は、河川管理者(知事)を被告とした訴訟ではありません。被告は三重県です。

なるほど、県と公社の法人格は別であり、開発公社が県営住宅団地を造成した場所は河川区域の外であり、河川管理者が規制できる場所ではありませんでした。

だからといって、開発公社の宅地造成が被告県の賠償責任と結びつかないと割り切ることは強引であり間違っていると思います。

なぜなら、開発公社は、県と一体であり、県の手足であり、出資者も県であり、県からの指示で造成したはずだからです。

国家賠償責任を検討する上で、開発公社の行為は、被告県自らの行為と評価するのが筋でしょう。少なくとも共同不法行為となる可能性はあるので、原審が「原告らは開発公社を訴えていないではないか」とイチャモンをつけることもなく、県と開発公社の関係を吟味することもなく、「主体が異なる」の一言で原告側をバッサリ切り捨てたのは粗雑に判断したというよりも、両者の関係を切断しておかないと、被告が自ら危険を招いたという主張を否定する理由がなくなることを危惧したからだと思います。

●「右の見地からみて」は無視された

「改修の遅れ」型の場合に「大東判決要旨二」が適用され、その場合でも「大東判決要旨一」が適用されることは、「大東判決要旨二」の文言に「右の見地からみて」があることから明らかであり、野山宏も「改修の遅れ」型には、「河川管理の特殊性」と「大東判決要旨一」が適用されることを明記しています。

そして、「大東判決要旨一」には、「是認しうる安全性」を備えているかで瑕疵の有無を判断しろと書かれています。

したがって、仮に「改修の遅れ」型であると判定されたために、「大東判決要旨二」が適用される場合にも、裁判所は、被災当時の河川が「是認しうる安全性」を備えていたかを検討する必要があります。

ところが志登茂川事件の最高裁判決を読む限り、原告を逆転敗訴させた控訴審でその検討がなされた形跡はないので、「右の見地からみて」は無視されたことになります。

大東判決を守らない裁判がまかり通っています。

●原告側は三坂町に完成堤防を求めていたわけではなかった

最後に、瑕疵の判断基準についての原告側の主張がどのようなものであったかをおさらいしておきます。

訴状の段階では、原告側の主張は、欠陥堤防を修繕すべきだった、というものであり、決して完成堤防を設置すべきであったというものではありませんでした。

訴状p34には、次のように書かれています。

そして,上三坂地区については,毎年の堤防沈下に備えて定期的にその補強工事をするとして,これも,前記の左岸破堤大洪水の被害額に比すれば,僅かな金額であることも明らかである。(略)最低限度、前期のごとき対応策を採るべき義務があったことは明白である。

つまり、補強工事をしておくべきだった、と言っているのですから、「完成堤防を築造すべきだった」とか「整備の段階を上げるべきだった」とか言っているわけではなかったのです。

つまり、内在的瑕疵の主張だったことは明らかです。

しかし、いつの間にか、原告ら準備書面からこの記述は消えてしまい、原告側の考えは、堤防整備とは完成堤防を整備することである、という考えに変わったように思われます。

原告ら準備書面(8)p4では、「上三坂地区の堤防整備を他の箇所の堤防整備よりも後回しにした改修計画は格別不合理であり、河川管理の瑕疵である」と言い、整備の順番が格別に不合理であることが瑕疵であると言います。

そのことが、裁判所から「改修の遅れ」型だと誤解される要因になる可能性はないでしょうか。

野山によれば、原告の主張が「改修の遅れ」型か「内在的瑕疵」型かを振り分ける基準は、改修された当時に予定していた安全性(段階的安全性・過渡的安全性)が被災当時に備わっていたか、という物理的な状況であり、原告が「どうすべきであった」と主張したか、という主観の問題ではありません。

したがって、欠陥堤防だったから完成堤防を築造すべきだった、と主張したら「改修の遅れ」型になってしまう、というものではないはずです。

とはいえ、「完成堤防を築造すべきだった」という主張は、整備の段階を上げるべきだった、という主張であるとの誤解を招く表現であることは否めません。

したがって、原告側は、「上三坂地区の堤防は欠陥堤防だったから修繕(原状回復)すべきだった」と最後まで言い続けた方が、「整備の段階を上げるべきだった」という主張(「改修の遅れ」型)には絶対に聞こえないので、その方が得だったと思います。

●原告側の主張は「内在的瑕疵」型ではなく新類型である

原告側の主張は明確ではないのですが、「内在的瑕疵」型ではなく、「内在的瑕疵」型に類似する型であると主張していると思われます。

「改修の遅れ」型でないことを原告側は明言しています(原告ら準備書面(8)p32)。

そして、同p13には、次のように書かれています。

「内在的瑕疵」の主張は、[野山解説の第三図の]同直線より下の2の部分についてもので、すでに改修が実施されたが(この点で、上記の改修計画及びその実施が工事の時期・順序において不合理である主張と異なる)、当該改修段階で有すべき安全性を備えていないという主張である。

「改修の時期・順序が正しくないため改修されていない(改修計画及びその実施が工事の時期・順序において不合理である)」の瑕疵の主張も、同直線より下の2の部分についてのもので、当該改修段階で有すべき安全性を有すべきであるのにそれが欠如しているという主張である。

原告側が言おうとしていることは、次の三つです。

  1. 「内在的瑕疵」の主張と改修計画及びその実施が工事の時期・順序において不合理であるとの主張とは異なる。
  2. 「内在的瑕疵」の場合とは改修が実施されている場合であるが、「改修計画及びその実施が工事の時期・順序において不合理である」との瑕疵の主張の場合とは改修が実施されていない場合である。
  3. 「内在的瑕疵」の主張は「当該改修段階で有すべき安全性を備えていない」という主張であるが、「改修計画及びその実施が工事の時期・順序において不合理である」との瑕疵の主張は「当該改修段階で有すべき安全性を有すべきであるのにそれが欠如している」という主張である。


【説明不足なので理解が困難だ】

結論から言って、野山は瑕疵の主張を「改修の遅れ」型と「内在的瑕疵」型の二つに分類できるとしているのに対して、原告側は、鬼怒川の破堤問題は、野山の二分法の分類には当てはまらないから、第3の類型を創設する必要があると言いたいのだと思いますが、詳しい説明がないので他人には伝わらないと思います。

【「備えていない」と「欠如している」は同じはずだ】

言い回しを見ても、「当該改修段階で有すべき安全性を備えていない」(内在的瑕疵の場合)と「当該改修段階で有すべき安全性を有すべきであるのにそれが欠如している」(第3類型の場合)は、一体どこが違うのか分かりません。

「安全性を備えていない」という表現も「安全性を有すべきであるのに備えていない」という意味のはずです。

つまり、「安全性を有すべき」ことは、原告側の全ての主張の大前提のはずです。

そうであれば、原告側は、「有すべきであるのに備えていない」と「有すべきであるのにそれが欠如している」とでは意味が違うと言っていることになります。

つまりは、有すべき安全性を「備えていない」と「欠如している」が違うと言っていることになりますが、理解できる人はおそらくいないと思います。

原告側は、第3類型は、「当該改修段階で有すべき安全性を有すべきであるのにそれが欠如している」という主張だと言いますが、この主張は、欠陥堤防を設置した場合など、「内在的瑕疵」の主張の説明そのものであり、両者を区別することは不可能だと思います。

●「当該改修段階」とはどの段階か

上記のとおり、原告側は、破堤区間について、「当該改修段階で有すべき安全性を有すべきであるのにそれが欠如している」と主張します。(「当該改修段階で有すべき安全性が欠如している」と同じ意味なのに、なぜ字数を増やして言わなければならないのか不明です。)

破堤区間にも「当該改修段階」が存在する、と言っています。

内在的瑕疵に類似する第3類型の瑕疵では、安全性の欠如が瑕疵なので、「当該改修段階で有すべき安全性」は、どのような安全性かを原告側が証明する必要があると思います。(しかし、証明している部分は見当たりません。)

では、「当該改修段階で有すべき安全性」の「当該改修段階」とは、具体的にどの段階を指すのでしょうか。

野山も使っている「当該」の意味がよく分からないので、その問題はさておくと、「改修段階で」となるので、「改修が実施された段階」と解釈するしかないと思います。

では、具体的に、上三坂地区の堤防で「改修が実施された」時期とはいつでしょうか。

下図は、鬼怒川堤防調査委員会報告書のp2−16からです。

三坂町上三坂地区の破堤区間には、迅速測図(水海道地区では1883年に作製されたはず)の時代から堤防が描かれています。(ただし、迅速測図では、その直上流の大房(だいぼう)村には、松の生えた小高い地形があったためか、無堤防区間でした。)

報告書三坂
		変遷

そして、同p2−14には「決壊前の左岸 21.0k 周辺の堤防は、昭和前期に築堤された記録がある。」との記述があります。

明治時代から(おそらくは江戸期から)堤防があったのに、「昭和前期に築堤された」と書く意味が分かりません。それまであった堤防は人工物ではなかったと被告は(正確には「鬼怒川堤防調査委員会は」ですが、同委員会は被告の傀儡と見るべきです。)考えているのでしょうか。

被告の認識はともかく、原告側の言う「当該改修段階」とは、「昭和前期」の「築堤」の段階を指している可能性はあります。

「昭和前期」の意味が明らかではありませんが、昭和期は長いので大きなスパンを指すと思われ、1926〜1955年とでも解釈しておきましょうか。

それにしても、報告書で「築堤された記録がある。」(鬼怒川堤防調査委員会報告書p2−14)とまで言うのであれば、被告はその記録を見て築堤の時期は分かっているにもかかわらず、「昭和前期」とぼかすのは、報告書で築堤時期と堤防諸元を明らかにしてしまうと、裁判になった場合に不利という深慮遠謀があった可能性はあると思います。

そうだとすると、原告側は、破堤区間の築堤時期と堤防諸元について求釈明申立て又は情報公開請求をする必要があったと思います。

それはともかく、1926〜1955年に築造された堤防の諸元が不明だとすると、当該堤防により予定した安全性の程度(「当該改修段階で有すべき安全性」ということになるはず。)も不明ということになると思います。

したがって、破堤区間について、「当該改修段階で有すべき安全性」がどのような安全性かを説明できない以上、「当該改修段階で有すべき安全性を有すべきであるのにそれが欠如している」という主張も成り立たないことになると思います。

●「改修されていない」という認識が理解が困難な理由だ

破堤区間の瑕疵についての原告側の主張が理解できない根源的な理由は、「改修の時期・順序が正しくないため改修されていない(改修計画及びその実施が工事の時期・順序において不合理である)」と主張することにあると思います。

つまり、破堤区間では、「改修されていない」と原告側は言います。

しかし、上記のとおり、破堤区間の堤防は、おそらくは江戸期から存在したはずであり、2015年まで改修されていないとは思われません。

上記のとおり、「昭和前期に築堤された」のですから、そのことをもって改修されたと見るべきだと思います。

また、原告側は、破堤区間について「当該改修段階で有すべき安全性を有すべきであるのにそれが欠如している」と主張します。

「当該改修段階で」と言っているので、改修されていることを前提としているはずです。

したがって、「改修されていない」という主張は矛盾します。

ある箇所で「改修されていない」のであれば、「当該改修段階」は存在しないはずです。

●「当該改修段階で有すべき安全性」の手がかりはある

被告が「昭和前期」の築堤の詳細を、どうしても明らかにしない場合には、「当該改修段階で有すべき安全性」を証明できないのか、というと、手がかりはあると思います。

下図は、1966年の河川区域告示添付図のL21kの部分です。右が北です。

この図面は、naturalright.orgのサイトのreference5(鬼怒川に関する基本情報)に利根川水系 河川区域告示平面図(S41鬼怒川-茨城県区間)として公開されています。

根拠は省略しますが、堤防高と思われる数値は、1962年度(1963年か)に測量されたものと私は推測しています。

河川区域告示図

L21.00kの堤防には22.47mの表記があります。正確には「22,47」ですが、当時は、フランス式の表記が使われたようです。

この数字は、堤防のある区間なので、現況堤防高を示すとしか考えられません。

計画高水位20.830mよりも1.64mも高かったのです。

2011年度の堤防高21.040mよりも1.43mも高かったということです。

現在の計画堤防高22.330mよりも14cm高かったのです。

確かに、堤防高の数値だけでは、河道断面積が分からないので、流下能力を加味した安全性をどの程度備えていたのかは分かりませんが、少なくとも、L21.00k付近の堤防は、高さ的には安全が確保されている状況でした。(破堤の本質は壊れた堤防を修繕しなかったことにある(鬼怒川大水害)の3と4の図を参照)それでも原告側は、L21.00k付近の堤防は「改修されていない」と言うのでしょうか。

いずれにせよ、上図から、「当該改修段階で有すべき安全性」をある程度定量的に言うことが可能ではないでしょうか。

(文責:事務局)
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