破堤の本質は壊れた堤防を修繕しなかったことにある(鬼怒川大水害)

2022-04-10

●これまでの記述への反省

今回記事で言いたいことは、鬼怒川の堤防が壊れたこと及び国はその修繕をしなかったことです。

もちろん、その結果として、三坂町で堤防が決壊して大水害が起きたのです。

過去記事では、鬼怒川大水害は、堤防や堤防類地の低い箇所で氾濫が起きたので、低い箇所を放置したことが原因であり、被告がなぜ放置したのかと言えば、地形とその利用状況(氾濫した場合の被害の大きさ)を考慮しなかったからだと書いてきました。

しかし、問題の本質を表すには不十分な表現だったことを反省しています。

なぜなら、低い箇所は、最初から低かったのではなく、堤防沈下という変化があったのですが、上記の表現では、この変化を言い表せていないからです。

●1962年頃の下流部堤防はほぼ完成していた

これまで(前回記事でも)、利根川からの背水の影響があるとされている、利根川合流点より約17k(kは「km地点」の略)までの堤防の拡築を1965年から1995年までの30年間、「逃げ水」でもあるかのように言い続けるのはおかしいではないか、と言ってきたのですが、河川区域告示の添付図から堤防高と思われる数字を拾うと、1962年度頃の鬼怒川下流部の堤防は、下図のようになり、完成に近かったようにも見えるのです。

吹き出しは、2015年9月洪水による破堤と溢水の箇所です。

1962
		年度堤防高

氾濫すれば大水害となる左岸側の堤防を描いたのが下図です。

1962
		年度堤防高左岸

1962年頃の下流部左岸堤防高は、計画堤防高(HWL+1.2m)を超えているのはもちろん、1973年以降の計画堤防高(HWL+1.5m)を超えている箇所も少なくありません。

下流部左岸で気になる箇所を見ていきます。

L5.50k(無堤部で、地盤高15.28m)はHWLスレスレの低さです。ここは、台地を開削した大木開削部分であり、2019年水害で浸水被害のあった絹ふたば文化幼稚園の直上流の小絹排水機場のある地点です。

この地点の氾濫防止が不可能であると管理者が判断していたのなら、管理者はその旨を住民に説明し、市街化区域に指定しないよう(都市計画法施行令第8条第1項第2号ロ)、つまり、都市計画税を課さないよう、また、固定資産税の評価額を下げるよう、つくばみらい市に通知すべきだったと思います。(ところが、1990年度定期測量では、L5.50kの「現況堤防高」は16.740mとなり、計画堤防高16.470mを27cm上回ることになります。築堤した形跡はないので、測点を変えてたのだと思います。)

L7.00k(21.46m)は、飛び抜けて高いのですが、その理由は、ここも大木開削部分の無堤防箇所で、北相馬台地の上の地盤を測点としているためと思われます。距離標は、ファッション市場サンキ(茨城県つくばみらい市小絹1412)の裏手(北西側)にあります。

L12.50k(22.56m)が高いのは、小山戸町の河畔砂丘を測量しているからだと思います。

若宮戸地区のL25.50kの地盤高又は距離標高は22.4mで、計画高水位22.440mよりも4cm低い状態でした。

それでも、若宮戸地区で無堤防状態が続いたのは、河畔砂丘があるから大丈夫と管理者が考えたから、としか考えられません。

その後、いつからかは知りませんが、若宮戸地区の「堤防高」は、距離標地点での横断図の最高地点に変更されます。

ここで言いたいことは、1962年度頃の鬼怒川下流部の堤防は、高さの面では、問題のある箇所は、そう多くはなかったということです。

若宮戸地区は問題ですが、破堤区間にあるL21.00kの堤防高は、22.47mもあり、1973年度から適用された新規格の計画堤防高22.330mを14cm上回っていました。

【鬼怒川大水害の萌芽が見える】

結果論的ですが、上図からも、鬼怒川大水害の萌芽が見えます。

若宮戸地区の河川区域境界付近の地盤が低いのを、地盤の高い民有地の防災機能でカバーしようという魂胆が無責任であることは明白ですし、L20.00k〜21.00kの1kmの区間は、隣接する距離標よりも低く、他の箇所よりも大きく堤防沈下が起きるという現象は、1962年頃までに起きていたように思います。

●堤防沈下が起きた

しかし、鬼怒川下流部の堤防は、1960年代以降、激しい堤防沈下を経験することになります。

下図は、鬼怒川下流部左岸の堤防高の1962年度頃と1990年度のものです。

計画堤防高は、HWL+1.5mです。

1962-1990

1973年度から堤防の規格が大きくなったということもありますが、それにしても、計画堤防高を満たす箇所はほとんどなくなります。

左岸の9.50k、10.50k、13.00k及び20.00k〜21.00kが30年弱の期間で、かなり沈下し、危険水域に近づいていますが、逆に言えば、どこもかしこも、低い箇所だらけだったわけではなく、注意を要する箇所は限られていたのです。

●破堤区間付近の堤防高の経年変化を描いてみた

高さだけで見れば、1962年度頃にはほぼ完成しているかに見えた鬼怒川下流部の堤防が沈下していった様子を、破堤区間の周辺(L19.50k〜22.00k)についてですが、河川区告示添付図と定期縦横断測量成果で確認していきます。

下図は、左岸堤防高の推移です。

左岸堤防高推移

上図で何が分かるかというと、1962年頃には、破堤区間の周辺の堤防は、当時の計画堤防高(モスグリーンの一点鎖線。HWL+1.2m)をクリアしていただけでなく、1973年度以降の新規格の計画堤防高(青の破線。HWL+1.5m)をもクリアしていたのですが、L20.00k〜21.00kでは、1990年度以降、現況余裕高(現況堤防高がHWLを上回る部分)が計画堤防余裕高1.5mの半分以下にまで沈下していったことが分かります。

一見すると不可解な点があると思います。

L19.50kについては、中三坂の河畔砂丘がある場所です。無堤防区間のまま2004年度まで地盤沈下していったのですが、もともと高い地盤だったのに、なぜか2007年度に築堤工事がなされたので、2008年度には跳ね上がります。しかし、2008年度の堤防高が計画堤防高に満たないのは不可解です。

L21.25kで線が交差する理由は、1993年度までは、距離標の間隔が500mだったのが、1998年度からは、250m間隔に変更されたからです。

L22.00kについては、2008年度の堤防高が2004年度のそれより9.1cm大きくなります。理由は分かりません。(2008年度定期測量は、L22.75kの堤防高を21.330mとしており、これも整合性がなく、問題のある測量業務です。)

なお、上のグラフのデータは下表のとおりです。

左岸堤防高推移data
鬼怒川左岸21k付近堤防の経年変化

2015年9月洪水の痕跡水位はL21.00kで21.04mというのが公式見解とされていますが、根拠がないので除外すべきです。

L21.00kの堤防は決壊して存在しないのに、事後にどうやって判定したのかを関東地方整備局職員に聞くと、「前後の距離標(L20.75kとL21.25k)の痕跡水位の値を足して2で割った」というのですから、まともな根拠とは言えません。500mの区間を洪水の水位が直線を描くとは限りません。ただし、グラフでは「空白のセルを線でつなぐ」の機能を使ったので、結局は、L21.00kで21.04mにしたのと同じグラフになっています。

【足して2で割った痕跡水位は一般水準か】

2019年10月13日に千曲川で破堤したことは、千曲川の堤防決壊箇所に必然性はあったに書きました。

下表は、「2019年度 千曲川下流流量観測等業務報告書」(株式会社 AB.do)のうちの洪水痕跡高一覧表の一部です。

距離標の間隔は、なんと50mです。

千曲川左岸57.40k付近の約70mが破堤したようですが、復旧堤防の延長は、150mを超えたことが分かります。

下表では、左岸の堤防復旧区間(L57.30k〜57.45k)の4地点では、洪水痕跡高が空欄になっています。

これが普通であり、「河川の管理の一般水準」ではないでしょうか。

まともな根拠もないのに痕跡水位を報告書に書かせるのは不当です。(報告書は調査会社が書くものですが、発注者と協議の上で数字を決めるので、発注者が受け入れられる数字を書くしかなく、痕跡水位の調査報告書は、実質的に公文書であり、その内容は、国土交通省の公式見解です。その証拠(下記URL)に、2019年10月洪水については、報告書の中に「不採用」と書かれており、発注者の判断が示されています。)

そうかと思えば、2019年10月洪水について痕跡を示す十分な根拠はあるのに、上記のとおり、被告は、「不採用」として調査結果の抹殺を図るのですから、やることに一貫性がありません。詳しくは、naturalright.orgのサイトの2019年水害の隠蔽シリーズをお読みください。

千曲川痕跡水位

●右岸の堤防沈下は軽微だ

下図は、鬼怒川下流部の右岸堤防高の推移です。

鬼怒川・小貝川低地の中央部分は東西の台地から最も離れるので、堆積した地層が厚く、地盤沈下量が大きいことが想像されますが、それを実証した研究があります(ただし、原因は説明していません。)。

斎藤英二ら「茨城県南西部における最近の測地学的変動について」(1988年)です。

つまり、鬼怒川の右岸は左岸よりも堤防沈下量が小さいのです。

右岸堤防高推移

上図から分かることは、右岸での堤防沈下量は小さく、沈下量の大きいR20.50k及びR22.00kでも計画堤防余裕高の半分程度はあり、HWL近くまで沈下した左岸とは全く様相が違います。

右岸も計画堤防高を割り込んでいることは事実ですが、左岸と比べたら随分ましです。

なお、R21.00kでおかしな動きをしています。1993年度で急に跳ね上がります。

R21.00kは、篠山水門から50mほど下流の地点で、張り出した結城台地と接しています。ピンポイントの掘り込み河道という感じです。

seesaa.netのサイトで被告が作成したと思われる堤防関係データを見ると、R21.00kには、現況堤防高、現況天端幅及び現況堤防敷高が記入されておらず、2011年度まで無堤防箇所として扱われていたことが分かります。(河川区域告示添付図(naturalright.orgのreference5に掲載されています。)からも無堤防であることが読み取れます。)

距離標地点が無堤防の場合、測点を変えてしまうのが被告のやり方だと考えるしかなさそうです。

ともあれ、右岸での堤防沈下は軽微だったということです。

●L21.00kの堤防高は偽装だ

前掲の左岸堤防の沈下の状況のうち、L21.00kについては、額面どおり受け取ることはできません。

左岸21kの堤防の盛り土は1964年度からあった(鬼怒川大水害)に書いたとおり、L21.00kの堤防高は、連続性のない盛り土の頂上部分で測定されたもので、偽装されたものです。盛り土の頂上で堤防高を測定するなら、堤防のかさ上げ工事が不要になったり、工事の時期を遅らせたりすることができることになり、許されないはずです。

そこで、L21.00kの堤防高のデータを盛り土がないものとしたデータ(管理道路面)で左岸堤防高を補正すると、下図のグラフになります。

左岸堤防高推移補正

補正したデータは、下表の赤文字の部分です。

左岸堤防高推移補正data
鬼怒川左岸21k付近堤防の経年変化(補正後)

上図からは、L20.00k〜21.00kの区間では堤防沈下が激しく起きており、特にL21.00kでは、1990年度から、既に現況余裕高が0.75m(計画堤防余裕高の半分)以下になっており、危機的な状況にありました。(75cmの余裕があれば「危機的」というほどのものでもないと考える人がいるかもしれませんが、堤防高がHWLスレスレになってからかさ上げ築堤をしようと思っても、急には完成できず、いつ来るか分からない大洪水に間に合わないおそれがあります。堤防高の危険性の評価については、1986年度から1994年度までに適用された重要水防箇所の評定基準(案)(入り口は、開示文書 鬼怒川関連)が参考になる(被告の発想なので、裁判所は、原告側の独自の見解と片付けるわけにはいかないはずです。)のですが、ここでは深入りしません。)

三坂町での破堤氾濫問題の本質は、L20.00k〜21.00kの堤防高が1962年頃から半世紀以上にわたり激しく沈下しているのに、規格を満たした整備をしなかったことが一つの本質だと思います。(もう一つの本質は、2013〜2014年に被告がL21.00k付近の高水敷等で大量の土砂の採取を行い、パイピングが起きる下地をつくったこと(管理者自らが危険を招いたこと)ですが、ここでは触れません。)

被告は何もしなかったわけではありません。

2005年度には共和技術にL18.50k〜21.25kの築堤設計を委託し、2009年までに用地取得を完了させました(乙72の3)。

それでも被告は、被災までに工事を発注しませんでした。

その理由は何か。

被告は、鬼怒川の改修工事は、「下流原則に従いながらも(略)整備が急がれる箇所又は区間から順次これを進めていく必要があった」(被告準備書面(5)p10)と主張している(この主張自体が被告準備書面(1)p45脚注で説く絶対的下流原則と矛盾しており、支離滅裂です。)のですから、下流原則に従った、という言い訳は通用しません。

つまり、「上三坂地区より下流において流下能力の不足する区間があること」(被告準備書面(5)p22)は、理由になりません。

想定される理由は、「上下流のバランスなどを総合的に勘案して」(同)なので、原告側は、上下流バランスの定義を明らかにし、バランスをとったとは、どのような要素をどう配慮したのかを明らかにし、これを打ち崩さないと勝てないと思います。(ちなみに、被告には裁量権があるので、「上下流のバランスなどを総合的に勘案して」の中身を具体的に説明する義務はないという意見があるかもしれませんが、水害訴訟で、管理者がバランスをとったとさえ言えば、被告が常に勝てることになり、水害訴訟を起こす意味がなくなります。)

ここで言いたいことは、L20.00k〜21.00k付近の堤防が、およそ半世紀の間に壊れた(機能を失った)ということです。

被告の管理ミスにより、機能を回復させなかったということです。

被告は、壊れた堤防の修繕義務を怠ったということです。

したがって、原告側の主張は、堤防の修繕をすべきだったのに、しなかったから、河川が危険な状態だったということです。

堤防が設置された当時に予定された安全性を備えていないという観点からの瑕疵の主張であり、内在的瑕疵の主張です。

より高い段階の改修がされるべきであったという観点からの瑕疵の主張(改修の遅れ型)ではありません。

そうであれば、野山宏の判例解説によれば、瑕疵の有無の判断基準は、「是認しうる安全性」を有していたか(大東判決要旨一)のはずです。(後記のとおり、内在的瑕疵の場合は、大東判決の射程外と解すべきです。)

なお、原告側は、下流原則について一般論としては「異論はない」と主張し、瑕疵判断の基準については、大東判決要旨二(計画の合理性)を変形した、堤防整備の時期・順序の合理性であるとしています(原告ら準備書面(8)p48)。

原告側が判例と異なることを言わざるを得なくなったということは、原告側の、今の判例で十分勝てるから判例変更を迫る必要はないという方針は破綻しています。

●左岸21.00kはどのように壊れたのか

L21.00kの「堤防高」の経年変化を示します。

下図は、堤防天端にある盛り土の頂上を堤防高とした場合の変遷です。

1965年度から1966年度への1年間で21cmも沈下してしまい、当時の計画堤防高を下回ったので、1967年度又は1968年度に盛り土の積み増しをしたと思います。

L21k堤防高推移10

下図は、盛り土を無視した場合の堤防高で見た変遷です。

盛り土を無視する、の意味が分からない場合は、左岸21kの堤防の盛り土は1964年度からあった(鬼怒川大水害)に掲げた横断図をご参照ください。

1962年頃のL21.00kの横断図は、把握していません。

盛り土がないとすると、1964年度から計画堤防高を下回っており、1983年度には、20.95mですから、HWL+12cmにまで沈下しました。

この時点でL21.00k付近の堤防は完全に壊れたのであり、「是認しうる安全性」を備えていませんでした。

被告は、遅くとも、1980年代には、低い箇所のかさ上げ改修に取り組むべきだったと思います。

L21k堤防高推移補正11

●堤防高を盛り土で偽装していた

上の2枚のグラフを重ね合わせたのが下図です。

2本の線の間が盛り土で偽装していた高さということになります。

L21k堤防高推移盛り土なしと比較12

●裏法肩を堤防高とした場合と比較してみた

被告は、盛り土の頂上の川表側の高さを堤防高としています。(盛り土は、天端の川表側にあり、盛り土の頂上は平らなので、盛り土の頂上を測定することは、堤防の表法肩を測定する正式な測定方法にも見えます。原告側も堤防高の測定方法が違法だと指摘したことはありません。)

では、仮に堤防天端の裏法肩を堤防高とした場合の推移と比較してみると、下図のとおりとなります。

左が盛り土の頂上を堤防高とした推移で、右が裏法肩の高さの推移です。

堤防の高さが表側と裏側でこれほど違う堤防の存在を許容してしまったら、まともな管理はできないと思います。

L21k堤防高推移裏法肩と比較13

●L21.00kの壊れ方を断面図で確認する

下図は、L21.00kの断面図で、1964年度測量のものと2011年度測量のものを重ね合わせたものです。

盛り土がなかったとした場合の堤防高は、1964年度に21.67mあったのが、2011年度には20.73mとなり、47年間で94cm(年2cm)も低下した計算になります。

常総市民の多くは、1960年代の三坂町の堤防がどのような状態であったかを知らないでしょうが、原告側の主張は、被告は壊れた堤防を修繕すべきだった、ということであるはずです。

堤防が設置された当時に予定された安全性は確保されているが、より高い段階の改修がされるべきであった、という主張では、断じてないはずです。

(堤防が沈下したからといって、河床がもっと低下した可能性もあり、壊れた(機能が低下した)とは言えない、という意見があるかもしれませんが、堤防が低い箇所で氾濫することを、被告は、利根川でも小貝川でも体験しており、議論の余地はありません。堤防沈下は絶対悪と捉えるのが河川管理の常識だと思います。結果論ですが、L21.00k付近は最も低かったことが大きな要因で決壊したのです。今回記事の大前提ですが、深入りはしません。)

L21k堤防高横断図比較14

だからどうした、という話は、次回記事で検討します。

(文責:事務局)
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