左岸21kの堤防の盛り土は1964年度からあった(鬼怒川大水害)

2021-11-12

●前回記事のデータが間違っていた

鬼怒川大水害訴訟の本質にかかわる問題ではありませんが、前回記事鬼怒川左岸21kの堤防の累積沈下量は1.79mだった(鬼怒川大水害)で使ったデータ(鬼怒川21kの横断図)に2箇所の誤りがありました。

L21kの2011年度測量成果による横断面のグラフ描画が下図のようになりましたが、左端(左岸川裏側)で2箇所の誤りがあります。

L21k横断図

(1)上図で川裏側法尻がえぐれていますが、正しくは、下図のとおり、えぐれていません。情報公開の際のミスであり、測量業務のミスではありません。

L21k横断図拡大

(2)上図では分かりませんが、横断図に標高データを一つ多く記載したために、堤内地に無駄に間伸びした部分があります。測量業者のミスです。

下表は上図のデータ部分です。

L21k横断図数値

下表は、上図の追加距離と標高のデータを国土交通省がエクセルに入力したものです。セルを着色したのは私です。

(1)の誤りは、追加距離-12.70の標高は18.67であるにもかかわらず、エクセル表では17.86と入力されています。0.81mも低い値を入力されてしまったのです。

データを移記するのに読み合わせもしないのでしょうか。

情報公開とは、本来、開示する場合は、そもそも、既に存在する情報を開示するものなので、請求されてから請求内容に合わせて文書(電子情報を含め)を作成して開示するのはあるべき姿ではないのですが、反面、役所がエクセル表を作成して電子情報で開示してくれるのは、請求者としては、データ入力の手間が省けてありがたいのですが、入力ミスがあるのでは、ありがた迷惑になってしまうし、そもそも原資料に記載された情報を開示するという、本来の開示義務を果たせていないことになります。

(2)の誤りは、赤枠で示した箇所で起きています。

測量地点と標高データは、1:1で対応すべきところ、測量地点は5箇所なのに、標高データが六つあります。

標高データに「17.60」という数値が三つ連続していますが、本来、あり得ないことです。直線部分なら2箇所を測量すれば十分だからです。

赤枠の標高の値が六つありますが、測量地点は5箇所なのですから、関東地方整備局職員は、標高の値を一つ削除して作表すべきなのですが、下図のとおり、逆に、測量地点の数を、標高値の数に合わせて、6箇所に増やしています。

すなわち、追加距離(エクセル表では「累加距離」と言い換えています。)-39.10の地点に17.53と17.60の二つの値を与えていますが、17.60を与えた行(黄色のマークの2セル)は削除すべきでしょう。

測量業者のミスを国土交通省の職員が勝手にリカバリーして情報公開されても困ります。

測量業者のミスを国土交通省の職員が気づかないのですから、そもそも被告は管理者としての資格がなかったのだと思います。

L21k横断図エクセル

●測量地点の間隔の距離感を出して堤防の形を描いてみた

前回記事では、鬼怒川21.00kの堤防高の横断測量のデータからグラフ化したものを掲載しましたが、グラフは実際の堤防や河道の形とは違っていました。

なぜなら、測量地点が定期測量のたびに異なり、その上、グラフは、測量地点の間隔を等しいものとして描かれるからです。

そこで、今回は測量地点の間隔の違いが反映されるようにしてグラフを作成し、L21kの堤防の形状を描画してみました。

その精度については、下図のとおり、鬼怒川堤防調査委員会報告書p2−14に掲載されたL21kの断面図(上の図。縦横比1:1)とその下の今回私が作成した断面図(下の図)は、ほぼ合同になるので、一応は、堤防の形が再現されていると言えます。

L21k横断図精度

1964年度以降、L21k堤防の17回の測量(おそらくは全て定期測量)から作成したグラフは、次のとおりです。

グラフタイトルの数字は、「年度測量」を省略しています。

高さはY.P.値です。縦横の比率は、いい加減です。

オレンジ線が計画高水位で、灰色線が計画堤防高です。

計画堤防高は、1973年に変更されているので、1969年度までと1974年度以降は違いますので、ご注意ください。

L21k横断図~69
L21k横断図~83
L21k横断図~98
L21k横断図~11
L21k横断図201510

2015年度については、荒締切堤と鋼矢板が描かれています。下図は、その衛星写真(2015年10月9日撮影のグーグルアースプロ)です。(「ヤマグチ薬局」の表示は、2020年以降の地図の表示であり、印のある場所に写っているのは、ガソリンスタンドです。)

二重に打ち込んだ鋼矢板の間隔は、約5mだったことがデータから分かります。

ちなみに、原告側は、L21kの荒締切堤の高さである21.10mをエクセルに入力して描いたグラフ(原告ら準備書面(6)p29の図7)を示して、被災前の状況を示していると主張する(直接そう言っていませんが、河畔砂丘が掘削された状況が示されているということは、被災前の状況を示していると主張していることになります。)のですが、虚偽の説明です。

2015衛星写真11

●2004年度には道路面は計画高水位以下だった

2004年度測量のL21kの堤防の形は、下図のとおりです。

L21k横断図200412

今回の検討で発見したことは、2004年度時点でL21kの堤防の道路面の標高が計画高水位よりも1〜2cm低かったということです。(道路が舗装されたのは2006年以後だと思われます。)

中三坂地先測量及び築堤設計業務報告書(2006年3月、共和技術株式会社)には、L21k堤防の舗装面の高さが20.84mとされた図面が存在することは分かっていた(決壊地点の堤防の舗装面の高さは計画高水位以下だった(鬼怒川大水害)参照)ので、その前年度時点で計画高水位(20.830m)以下という測量成果があってもおかしくありません。当時は、舗装されていなかったのですから、測量するたびに1cm程度の違いがあっても当然です。

鬼怒川大水害訴訟の被告が聞いたら、「それがどうした。」と言うかもしれません。

すなわち、L21kの2004年度の堤防高は21.18m(「鬼怒川堤防関連データ」という開示文書では21.189mとされており、横断図では、最後の桁が切り捨てられています。)であり、計画高水位20.830mよりも0.359mも余裕があったから問題なかったと言うかもしれません。

しかし、堤防の最高地点21.18mは盛り土の頂上の高さであり、そこがいくら高くても越流を防げないのですから、防災上意味がありません。

L21kの盛り土は上下流に連続して高さを維持しておらず(せいぜい延長10m程度)、洪水の水位が21.18mに達する前に当該盛り土を迂回して、盛り土の途切れた箇所から道路に乗り上げ、越流します。

下図は、2015年9月10日(12:05頃と思われます。naturalright.orgの鬼怒川水害まさかの三坂 2参照)に撮影されたL21k堤防の状況を示す写真(鬼怒川堤防調査委員会報告書p3−8)であり、洪水が盛り土を迂回して越流しています。

2004年度に同規模の洪水(L21kでの水位が21.04m)が発生すれば、洪水の水位は道路面の高さ20.82mを22cm超えるので、同様の状況になったはずです。

越流13

常総市を鬼怒川の氾濫から守るものは連続堤防しかなく、連続して存在するのは、堤防天端の盛り土ではなく、道路部分であり、その高さが実質的な堤防高です。

河川定期縦横断測量業務実施要領・同解説(1997年6月)によれば、堤防高は「堤防の表法肩において測定する。」とされており、連続性を問題にしていませんが、それは、堤防には連続性があることを当然の前提としているからだと思います。

低い堤防をかさ上げをせずに、表法肩付近に盛り土をすることで堤防高を高く見せかけることなど想定していないと思います。

再三書いていることですが、堤防の表法肩付近に盛り土をして、その高さを堤防高とする扱いは、許されないと思います。

なぜなら、それを許せば、堤防のかさ上げが必要な場合でも、かさ上げをせずに、盛り土をすれば、安全性が向上したことになってしまうからです。

したがって、表法肩付近の盛り土はあってはならないものです。

私は、表法肩付近の盛り土は、雨水の排水を妨げるがゆえにあってはならないものだ、と考えた時期もありましたが、今は、表法肩付近の盛り土は、堤防高の低下という事実を覆い隠すものであり、排水を妨害するか否かに関係なく、あってはならないものだと考えます。

そうだとすると、つまり、表法肩付近の盛り土がないものと考えると、2004年度のL21kの堤防高は、20.82mであり、計画高水位マイナス1cmと見るべきだと思います。

そうであれば、2004年度に緊急性は最大限に達したのですから、被告は、緊急にかさ上げ改修工事を実施すべきだったと思います。

大東判決流に言えば、L21kで破堤すれば、地形上、氾濫水は常総市の最南部まで到達し、人口・資産が集中していた社会的条件から甚大な被害が発生することが明らかであり、上記のとおり、改修を要する緊急性があったので、過渡的安全性を欠如していた、という言い方で攻撃できると思います。

●L21k堤防の形を一覧できるように圧縮してみた

1964年度から被災直前の2011年度までの16枚の横断図を、下図のとおり、一覧できるようにしました。

L21k横断図一覧14

●盛り土は1964年度からあった

国は堤防高の偽装をいつからしていたのか(鬼怒川大水害)では、L21kの堤防高の偽装は、遅くとも、1964年度からではないのか、と推測しました。

案の定、1964年度から盛り土があったという事実を確認できました。

また、1964年度については、川表側の測量地点が極めて少なく、法面があれほど直線的な斜面だったとは思えません。

ちなみに、L21k堤防の盛り土は、私には、コブダイのコブに見えます。

●1983年度のL21k堤防の形は異常ではないのか

ざっと見て気がつくのは、1983年度の形は異常だと思います。

盛り土の頂点がやけに尖っており、川裏のフラットな面との高低差が89cmもあります。

3年前の1980年度との連続性が感じられませんし、7年後の1990年度との連続性も感じられず、不可解です。

そもそも1983年度の天端幅は何mになるのでしょうか。

川裏側のフラットな面を川表側まで伸ばしていったら、天端幅が12.6mにもなります。

下図は、1980年度と1983年度の重ね合わせです。

L21k堤防の中央部の最高地点は、1983年度が1cm増えているのに、その両側(川表側と川裏側)の約12mの範囲では、1980年度より最大で50cm程度も垂れ下がるように低下しています。

こんなことが普通に起きるものでしょうか。

いくら考えても、なぜこのような変化が起きるのか想像がつきません。

L21k横断図80~8315

●堤防の形は二分できる

1983年度を除外してL21kの堤防の形を分類すると、1964年度から1980年度までは、盛り土より川裏の部分が斜面になっていることと、天端幅の範囲が不明であることが特徴だと思います。

1990年度から2011年度までは、天端にほぼ水平な堤防道路と盛り土がほぼ半々ずつ存在し、したがって、天端幅は明確だが、排水方向が明確でないことが特徴です。このうちの次の年度については、道路面の雨水の排水勾配が適切に考慮されておらず、水たまりができる構造になっていました。

1990年度  盛り土と道路面の境目に水たまりができる。
1998年度  道路面中央が窪んでおり、水たまりができる。
2011年度  盛り土と道路面の境目に水たまりができる。

2014年3月の衛星写真には、L21k付近に水たまりの跡が写っているので、2011年度の堤防の形状は、2015年9月の被災時まで続いたと思います。

L21kの堤防高は、1964年度から2011年度までに1.79mも沈下する箇所だった(前回記事参照)にもかかわらず、管理者は、1990年度以降、しばしば、雨水を排水できないようにして堤防を脆弱化させていたのです。

1990年度以降は、雨水の排水が不適切だった時代だったと思います。

●1966年度から1969年度までに盛り土されていた

前掲の16年度分を一覧できる図で、1966年度と1978年度が隣り合うことになり、奇妙さが浮き彫りになりました。

すなわち、1966年度の最高地点は21.83mだったのに、1978年度のそれは21.95mとなり、12cm増えています。鬼怒川の堤防は沈下を続けていたのに、12年間で12cmも増加するのは奇妙です。

こうなった理由は、1966年度から1969年度までの期間に盛り土がされたと思われることです。

1966年度と1969年度のL21k堤防の最高地点の高さの差は36cmですが、その高さで盛り土がされたということではなく、もっと高い量で盛り土がされたが、沈下して、1969年度に36cmの差になったということだと思います。

例えば、1967年度に60cmの盛り土をしたが、その後の2年間で24cm沈下して1969年度に22.19mになったという経緯が想像されます。

意外だったのは、盛り土は堤防の全面になされた可能性があるということです。

下図は、1966年度と1969年度の重ね合わせです。

高い方が1969年度の堤防の形です。

1969年度の方がどこを比較しても高いのです。

堤防を全面的に盛り土したなら、もはや改修工事ですが、それにしては中途半端な改修工事です。

L21k付近は激しく堤防沈下が起きる箇所なのです(基礎地盤でのパイピングの起きやすさともつながっていると思いますが、立証の可能性を考えると、訴訟でそこまで議論するのは困難だと思います。)から、基礎地盤を含めた根本的な対策工事が必要だったと思います。

当時の管理者にそこまで求めるのは「河川管理の一般水準」ではないとすれば、過去の大規模な堤防沈下に対応する大規模なかさ上げ築堤をすべきだったと思います。

L21k横断図66~6916

いずれにせよ、このような「盛り土」ないしは「かさ上げ」を必要とするほど、1960年代当時のL21k付近の堤防沈下は激しかったのだと思います。

1960年代は、測量の回数も頻繁です。

1962年度(推測)、1964年度、1965年度、1966年度及び1969年度と5回も実施しています。

訴訟では、こうした歴史を踏まえないと、被告の作為義務を説明できないのではないでしょうか。(原告側は、被告に作為義務があったという理論構成をとっていません。築堤するかどうかは裁量の問題だ、という構成です。)

L21kの堤防の高さの推移は、下図のとおりです。

L21k堤防高推移17
(出典:1962年度(推定)は河川区域告示添付図、1964年度以降は21k横断測量図)

1966年度から1969年度への36cmの増加は、誰が見ても見過ごすことができないでしょう。

管理者は、何かしらの細工をしたはずです。

下表は、鬼怒川左岸21kの堤防の最高地点の推移と各年度の前回測量との差を表したものです(沈下をマイナスで表示)。

沈下量18

1966年度から1969年度のジャンプの他に目に付くのは、1965年度前後の堤防の最高地点の低下の激しさです。

1964年度から1965年度で12cm
1965年度から1966年度で21cm
ですから、異常です。

しかし、1965年度から1966年度で21cmについては、堤防沈下と見るべきではないと思います。

L21k堤防の最高地点ではない地点の標高差を比較すると、7〜9cmしか低下していないからです。

盛り土自体の高さが46cmから32cmへと14cm低下していること(管理者が盛り土を削ったのでしょうか。何のために?)が大きな要因であり、これを差し引くと7cmの堤防沈下と見るべきなのかもしれません。

それにしても、年7〜12cmの堤防沈下は異常に大きく、地盤沈下では説明がつきません。

現在の常総市の行政区域において茨城県が定点の標高差による地盤沈下量の測定を開始したのは1980年代からであり、1960年代の地盤沈下量は誰も知らないと思いますが、年7〜12cmもあったとは思えず、したがって、付近一体の地盤沈下とは別の要因で堤防沈下が起きていたと思います。

●被告も堤防沈下量が地盤沈下量より27%大きいことを認めている

下図のとおり、被告は、乙59で鬼怒川左岸21kの堤防沈下量と常総市内の地盤沈下量を比較しています。

L21kの1998年から2008年までの堤防沈下量は年約1.9cmですが、最寄りの地盤沈下観測地点である常総市大房(だいぼう)8-1における1997年〜2010年の地盤沈下量は年約1.5cmにすぎないのであり、L21kの堤防沈下量が付近の地盤沈下量よりも約27%大きいことを認めています。

L21k付近では、地盤沈下では説明のつかない堤防沈下が起きていたのです。

乙5919

なお、鬼怒川大水害と地盤沈下の関係について茨城大学関係の学者が研究しており、興味のある方は、下記の資料を参照ください。

関東・東北豪雨における茨城県西部での河川被害状況と被災後の状況について
茨城大学 平成27年 関東・東北豪雨調査団成果報告書

●盛り土の高さは30〜49cmだった

下表は、L21k堤防のコブ(盛り土)の高さ(盛り土の頂点と道路面との境目の地点との高低差)をまとめたものです。

31〜49cmであり、1990年度までは、40cmを超えていたことの方が多かったのです。

1964年度 49cm
1965年度 46cm
1966年度 32cm
1969年度 48cm
1974年度 45cm
1976年度 30cm
1978年度 40cm
1980年度 39cm
1983年度 42cm
1990年度 41cm
1993年度 38cm
1998年度 38cm
2001年度 35cm
2004年度 36cm
2008年度 36cm
2011年度 31cm


●「堤防横断図」は2011年度定期測量に使われた

もう一つ分かったことは、seesaa.netのサイトに掲載されている「堤防横断図」(27kまで)は、作成時期が明記されていなかったのですが、L21k堤防の形状から、2011年度定期測量で使われたものだということがはっきりしたことです。

ちなみに、「堤防横断図」(27kまで)を見ると、L21kの堤防と似たような堤防はどこにも見つかりません。(あえて言えば、L17.50kも川表法肩にコブ(盛り土?)があるのですが、堤防高は川裏側法肩で測定しており、コブはそれよりも低いのですから、L21kと同様ではありません。)

L21kの堤防の形は異常です。「河川管理の一般水準」(大東判決)から外れていると思います。

もひとつちなみに、L20kの堤防にはコブ(盛り土)がありません。

何の話かというと、原告側がしばしば言うように、L20k〜21kは、最も危険な区間だったのであり、2004年度定期測量で見ると、「堤防高」、計画高水位及び現況余裕高は次のとおりです。

L20k~21k堤防高200420

つまり、2004年度時点では、上記5地点の中で最も堤防高に余裕がないのは、L20kだったことになります。逆に、L21kは、2番目に余裕があった(安全だった)ことになります。

しかし、これは実際の堤防の形状を無視した机上の空論です。

L20kの堤防の形状は、「堤防横断図」(27kまで)によれば次のとおりであり、コブがありません。(「堤防横断図」(27kまで)は、2011年度の堤防の形状を表しているので、2004年度の堤防の形状は不明ですが、2004年度時点でも大差はないと思います。)

L20kr堤防横断図21

ところが、L21kの堤防には、下図のとおり、コブがあり、その最高地点が堤防高とされています。

コブがない場合には、堤防高は20.82m程度となるはずであり、そうだとすれば、計画高水位マイナス1cm程度ですから、L21kが上記1kmの区間の中で最も低い(余裕がない)ということになります。

L21kr堤防横断図22

つまり、上表の「現況余裕高」の欄は、違うものを比較しているのであり、ここから妥当な結論を得ることはできません。

●まとめの感想

前回と今回、L21kの堤防の形状と高さの検討をしました。

結論は、従来書いてきたとおり、(1)L21kは異常に堤防沈下が起きる場所であったこと、(2)これへの被告の対応は異常だったということです。

対応が異常だったことの内訳は、次のとおりです。
(ア)事態をほぼ放置してきた。
(イ)天端の川表寄りに盛り土をするという異常な形状にして、堤防沈下の事実を直視することを避けてきた。
(ウ)中途半端なかさ上げを行い、堤防沈下の事実を一層見えにくくした。
(エ)雨水排水を考慮せず、天端に水たまりができる構造にした。
(オ)2013〜2014年に高水敷等の土砂を被告自らが約8万m3も採取して堤防の基礎地盤でのパイピングを起こりやすくした。(ここでは触れません。)

天端の川表寄りに盛り土をしたことについては、その理由が全く想像もつきません。

一つ考えられるのは、盛り土の頂上を堤防高として扱い、堤防はまだ高い、だから改修はもっと後でも大丈夫、と自己暗示にかけるためだったということですが、それは、張り子の虎、とか、見掛け倒し、のようなもので、正式なかさ上げ改修をサボるための偽装工作をしたということです。猛烈な堤防沈下という不都合な事実から目をそらすことであり、許されないことだと思います。

鬼怒川下流改修維持期成同盟会は、2012年度を除き、2007年度から毎年度三坂地区の築堤改修を要望してきましたが、被告はこれを跳ね除けてきました。

その理由は、上記「張り子の虎」理論だったとしか思えません。

この盛り土さえなければ、L21kの堤防高は、2004年度には計画高水位以下だったのですから、緊急にプラス1.5m以上のかさ上げ改修がされるべきであったことは、誰に目にも明らかだったにもかかわらず、改修を急がなかったのは、盛り土の頂上を堤防高と扱ったために、盛り土がL21kの危険性や改修の緊急性を見えづらくしたからだと思います。

それでも被告は、L21kの2004年度定期測量成果を見て改修の緊急性に気付いたのか、2005年度には「中三坂地先測量及び築堤設計業務」を共和技術株式会社に発注し、2009年11月には用地取得を完了し、2010年度には着工できる態勢にありました。

それにもかかわらず、被告は、着工しませんでした。

その理由が分からないのですが、おそらくは、上記「張り子の虎」理論と下流原則最優先主義が競合したものでしょう。

下流原則最優先主義とは、被告は、緊急に整備すべき場合であっても、「下流の安全性を確保する工事を行う必要があ」(被告準備書面(1)p45)ると言っていることです。

大東判決は、そんなことは言っていません。「緊急に改修を要する箇所から段階的に、また、原則として下流から上流に向けて行うことを要する」と判示しているのですが、その意味は、緊急性が優先されるのであって、原則として下流から上流に改修するとしても、例外的には上流が先になることもある、と解釈するのが普通でしょう。

したがって、訴訟では、原告側は、被告特有の理論である、下流原則最優先主義と闘わないと勝てないと思います。

その前に、被告は、2009年11月には、用地取得まで完了していたのに、なぜ2010年度あるいは2011年度に着工しなかったのかと問うことが必要だと思います。(早期に着工しなかったことに正当な理由があれば、原告側は敗訴することになりますが、管理に落ち度がなければ敗訴するのは必然です。着工しなかったことが落ち度かどうかは、理由を聞かなければ判断が難しいと思います。)

また、L21kの堤防には、なぜコブ(盛り土)がなければならなかったのかを問うべきだと思います。

原告側は、20世紀の話をほとんどしません。原告側がした20世紀の話として記憶にあるのは、若宮戸について1966年12月28日付けの建設大臣告示による河川区域の設定が違法であったというくだり(原告ら準備書面(9)p14)だけです。

しかし、鬼怒川大水害は、不可抗力として突如発生したのではなく、管理者の怠慢や過誤が積み重なって、歴史的必然性をもって発生したと思うので、その歴史的必然性を説明する必要があるのではないでしょうか。

L21kの堤防高の変遷として原告側が提出した証拠は下図です。

L21kr堤防高推移訴状添付図23
訴状の添付図

これでは1990年度以降の変遷しか分かりません。(それ以前の測量成果は存在しないという国土交通省職員の説明を真に受けているのかもしれません。)

また、累積の堤防沈下量や中途半端なかさ上げをした事実は見えてきません。

(文責:事務局)
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