堤防と堤防の間が河川区域ではなかった(鬼怒川大水害)

2018-07-05

●国は旧河川法第3条を無視していなかった

過去記事国土交通省は鬼怒川を管理していたのか(鬼怒川大水害)では、手塚論文が正しいという前提で鬼怒川の堤外民有地問題を考察しました。

手塚論文の要旨の一つは、鬼怒川では「旧法認定地(国有地)が私有地として登記されている。」ということでした。

私には、旧河川法下においては、堤防が整備されていた区間では、河川管理者が両岸の堤防(正確には堤防敷の川裏側法尻)の間を河川区域として認定したはずだという思い込みがあり、そこにあった民有地は、自動的に国有地として召し上げられてしまっていた、という前提で理解していました。

そして、私は、「旧河川法第3条があまりにも強権的だったことを考えると、(新河川法施行後に)国がこの規定を無視して堤外民有地を認めてきたことは、是認すべき対応だったのかもしれません。」と書きました。

しかし、国は、旧河川法第3条を無視して、既に国有地となった土地を民有地として扱ったわけではなさそうです。

なぜなら、旧河川法時代に河川管理者は、堤防と堤防の間を河川区域として認定したわけではないからです。

●旧河川法下の鬼怒川における河川区域の認定は10回だった?

上記手塚論文には、次のように書かれています。

1896年4月8日に旧河川法が制定され、第2条第1項により河川区域と認定された土地については、同法第3条により私権が排除された。
栃木県内の鬼怒川については、1929年から1938年にかけて5回にわたり栃木県知事が河川区域の認定を告示した。 (年表示は引用者が編集)

ただし、上記告示はネットで公開されておらず、内容は不明です。栃木県知事あてに情報公開請求をすれば、出てくる可能性があるだけです。多分、廃棄していないはずです。

そして、茨城県内の鬼怒川については、1928年から1937年にかけて4回にわたり茨城県知事が河川区域の認定(変更認定を含む)を告示したようです。廃止を含めれば、告示は5回になります。

ソースは、下記です。

naturalright.orgの若宮戸の河畔砂丘 14 旧河川法時代の河川区域

茨城県の文書管理行政は充実していて、戦前の「茨城県報」がキーワード検索できます。栃木県とは大違いです。

「栃木県公報」は、現年度を含めて3年度分しか見られません。

確かに「栃木県公報」のネット公開の需要があまりないとしても、住民サービスが他県とこれほど違っていいのかと思います。この差は、長い間には、文化や政治のレベルの差になって現れるような気がします。

今のところ、旧河川法時代の鬼怒川の河川区域の認定は、栃木県区間で5回、茨城県区間で4回の計9回しか把握できませんが、それ以外には、ほぼなかったと考えてよいと思います。

ただし、naturalright.orgの上記記事には、1945年の鎌庭の旧河道の堤防と護岸の「公用廃止」の告示が紹介されており、廃止の範囲が1928年告示による認定範囲と一致しないことから、他にも認定告示があった可能性を示唆しています。

●茨城県知事の認定とは

「国の機関である都道府県知事」(地方六団体地方分権改革推進本部のサイトの「河川法の目的及び主な改正経緯について」)であった戦前の茨城県知事が行った鬼怒川の河川区域の認定とは、次の4回です。

(1)1928年の茨城県告示第121号
下妻市鎌庭の蛇行部における河川区域の認定

(2)1929年の茨城県告示第227号
鎌庭の蛇行部の上流28.5k付近から40k付近までの認定(図面が2分割)

(3)1936年の茨城県告示第832号、第833号(廃止)
鎌庭捷水路(26.25k〜28.5k)への河川区域の変更と旧河川区域の廃止

(4)1937年の茨城県告示第757号
残された最下流部(0k〜26k)の認定

上記認定、変更、廃止箇所を示す図面は、上記若宮戸の河畔砂丘 14 旧河川法時代の河川区域に、親切にも、治水地形分類図、土地条件図と並べて掲載されていますので、とくとご覧ください。

以下では、上記告示から何が分かるかを見ていきます。

●河川区域は堤防と堤防の間ではなかった

鎌庭捷水路完成後の新規認定(3)においては、両堤防の端から端までが河川区域に認定されていて、現在の指定の仕方と変わりませんが、その他の認定においては、河川区域は両堤防の端から端までではありませんでした。

現在では、「河川区域」とは、堤防のある区間では、「一般に堤防の川裏の法尻から、対岸の堤防の川裏の法尻までの間の河川としての役割をもつ土地」(最上川電子大事典)という理解が常識的ですが、旧河川法時代の河川区域の定義は、これとは違っていたようです。

(1)の1928年3月8日の茨城県告示第121号を見てみましょう。

その本文は、「河川法第2条第1項の規定により大正15年5月13日より河川法を施行せられたる鬼怒川筋のうち、一部河川の区域を左のとおり認定す。」ですが、次々ページの「河川区域」の見出しの後には、「・・・左右両岸に建設したる準拠点杭支距法により測定せる河川敷内の区域(付属図面のとおり)」と書かれており、つまりは、「河川敷内の区域」が河川区域であるとしています。

そして、下図のとおり、鎌庭の蛇行部を描いた付属図面を見ると、凡例に「河川敷」の絵が示され、斜線の網掛け部分が「河川敷」であるとされます。

したがって、「河川敷」とは、ほぼ低水路=低水敷(平常時に水が流れている部分)のことではないかと思われます。

(1)と(2)に係る告示の付属図面の表題は、「鬼怒川河川敷認定図」であることが注目されます。「河川区域認定図」ではありません。

鎌庭認定

●現在の「河川敷」とは何か

上記のとおり、旧河川法時代に重要な概念だった「河川敷」の現在における定義を調べてみました。

国土交通省は、明確な定義を避けているように見えます。

もちろん、日本語の定義はあります。

例えば、世界大百科事典第2版の解説では、「河川敷地ともいう。河川法では,堤防敷,高水敷,低水敷を河川区域と定めているが,河川敷はこのうちの高水敷,低水敷に対する総称である。低水敷は常時水が流れている部分をいい,高水敷は洪水時に冠水する部分をいう。」とされています。

つまり、河川敷とは、「高水敷」+「低水敷」の上位概念です。

一方、国土交通省北陸地方整備局は、下図を示した上で、次のように定義します。

河川敷:複断面の形をした河川で、常に水が流れる低水路より一段高い部分の敷地。通常は、グランド等に利用されますが、大きな洪水では、水に浸かります。


河川横断面図

なんのことはない「高水敷」の定義です。

なぜなら、東北地方整備局で作成した最上川電子大事典には、「高水敷」の定義として、次のように書かれているからです。

高水敷は、常に水が流れる低水路より一段高い部分の敷地です。平常時にはグランドや公園など様々な形で利用されていますが、大きな洪水の時には水に浸かってしまいます。

つまり、日本語としては、「河川敷」=「低水路」+「高水敷」ですが、国土交通省は「河川敷」=「高水敷」と定義しているらしいということです。

「河川敷」=「高水敷」で使うなら、単なる言い換えですから、河川敷は、専門用語としては不要だと思います。

北陸地方整備局が同じものに二つの呼び名を与える理由が分かりません。

●河川区域=河川敷=低水路?

しかし、旧河川法下では、上記告示を見ると、「河川区域を認定する。」と言いながら、いつの間にか河川敷の認定に話がすり替わってしまい、その河川敷とは具体的にどの範囲かを図面で確認すると、低水路の部分を指しているわけですから、「河川区域」=「河川敷」=「低水路」ということになるのだと思います。

●旧河川法下の用語を整理してみた

そんなわけで、旧河川法下での河川区域の認定に関する用語を、現在の用語の定義で理解しようとすると、とんでもない誤解をすることになります。

なので、河川区域の認定に関する用語を1937年の(4)の告示から次のように整理してみました。

ここに高水敷は含まれておらず、高水敷を河川区域に認定したくないという意図が表れているようにも見えます。

河川区域と河川付属物の上位概念があってもよさそうなものですが、分りません。

河川用語

●河川区域の認定によって所有権は消滅しなかった

以上のことから何が言えるかというと、旧河川法は、河川区域を認定しただけで所有権を奪うのだから強権的ですが、現場では、高水敷を避けて認定していたのですから、高水敷の所有権は奪われなかったことになります。

そうだとすれば、手塚論文のいう「旧法認定地(国有地)が私有地として登記されている。」という話は、実際のところ、そうした国有地がどれだけあるのか怪しくなります。

●明治政府は河川区域を認定していなかった?

明治政府(1868〜1912年)は、強権的な河川法を1896年に制定したものの、少なくとも鬼怒川では、栃木県と茨城県の官選知事たちは河川区域を認定していなかったのではないでしょうか。

1920年代からの上記河川区域の認定の告示も鎌庭捷水路への流路変更に係るもの以外は、新規認定であって、認定の変更(旧河川法第2条第2項)の告示ではありません。

鎌庭蛇行部で河川区域を認定したのは、1928年のことです。鎌庭捷水路を建設し、旧河道を廃止する前提として認定したと思われます。認定の時期は、旧河川法制定の1896年から実に32年後のことです。

栃木県区域では、手塚論文によると、栃木県知事が鬼怒川の河川区域を最初に認定したのは1929年ですから、旧河川法制定から33年後です。

●若宮戸河畔砂丘も三坂町の砂採取場も河川区域ではなかった

以上のことから分かることは、旧河川法時代には、若宮戸河畔砂丘は全て河川区域でなかったし、三坂町の砂採取場も河川区域ではなかった、ということです。

下図は、上記(4)の1937年の茨城県告示第757号の「鬼怒川河川区域並付属物認定図」とグーグルマップの衛星写真(2015年9月20日頃撮影)を溢水箇所と破堤箇所を示した上で対比させたものです。

1937認定図

旧河川法時代に河川区域として認定された範囲は低水路=低水敷なので、若宮戸河畔砂丘はまるまる河川区域ではなかったし、三坂町で決壊した堤防と低水路との間の砂採取場も河川区域ではありませんでした。

●国土交通省は茨城県が管理していた河川区域を踏襲したと言っている

国土交通省は、梅村さえこ衆議院議員のヒアリングで若宮戸地区の河川区域をどのような根拠で設定したのか、という質問に対し、次のように回答しました(2016年9月9日)。

1965年に国が茨城県から(鬼怒川の)管理を引き継いだ際の資料が現存していないため確認はできませんが、茨城県が管理していた区域を踏襲して、1966年に河川区域の指定を行ったものと推察されます。(年表示は引用者が編集)

建設大臣は、1966年に、茨城県が管理していた区域を踏襲して河川区域の指定を行ったのか、を次に見ていきます。

●新河川法施行後の河川区域の指定範囲は旧河川法における認定範囲と違う

次の2枚の図面は、新河川法施行後の1966年12月28日に建設大臣が鬼怒川の鎌庭地区と若宮戸地区から本石下にかけての河川区域を指定するための建設省告示第4225号(同日付け官報第12013号に掲載)の付属図面338枚のうちの2枚です。上が鎌庭捷水路部分、下が若宮戸から本石下にかけてです。右が北(上流)です。

鎌庭捷水路

若宮戸から本石下

新河川法の下では、1966年における河川区域の定義は、現在の定義と同様、堤防のある所では、堤防と堤防の間の範囲だということが分かります。

若宮戸地区のように堤防のない所での河川区域も、1966年の指定範囲は、1937年の認定範囲よりも拡張されています。

naturalright.orgの「若宮戸の河畔砂丘 13」では、建設大臣は、河畔砂丘の4筋のリッジのうちの、東から3番目のリッジの東の麓に河川区域境界線を設定した、と推測しています。

下図は、1966年指定図と鬼怒川大水害での溢水箇所を示したグーグルアースプロの衛星写真(2015年9月11日撮影)とを対照させたものです。

溢水箇所対照

新河川法には、旧河川法第3条の「河川並びにその敷地若しくは流水は、私権の目的となることを得ず。」というような規定はないので、新河川法第6条の規定に基づいて河川区域を指定しても、その中の民有地が自動的に国有地になることはありません。ただし、旧河川法時代に既に国有地にされた民有地が復活することはなく、そのままであることを規定したのが河川法施行法第4条の趣旨だと思います。ただし、鬼怒川に認定により私権が奪われた土地、つまり手塚論文のいう「旧法認定地(国有地)」がどれだけあるのか疑問です。

●「建設大臣は茨城県が管理していた河川区域を踏襲した」はデタラメだ

まだ断言はできませんが、若宮戸地区での河川区域を見る限り、1937年に茨城県知事が認定した範囲と1966年に建設大臣が指定した範囲は全く異なるのですから、後者が前者を踏襲したという回答はデタラメです。

デタラメでないとすれば、1937年と1966年の間で、1966年に指定した河川区域と同じ範囲を認定した茨城県知事の告示がなければなりませんが、「茨城県報」を検索しても、そのような告示は今のところ見つかっていません。

国土交通省の「1965年に国が茨城県から(鬼怒川の)管理を引き継いだ際の資料が現存していないため確認はできませんが」という回答も理解しがたい話です。上記のとおり、茨城県知事が発出した告示を見れば、旧河川法時代の河川区域の範囲は分かるのですから。

したがって、「建設大臣は茨城県が管理していた河川区域を踏襲した」という国土交通省の説明はデタラメだったと考えてよいと思います。

したがって、建設大臣は1966年の河川区域の指定の誤りを前任者の知事に転嫁することはできないと思います。

●1966年の指定が誤りは除斥による期間制限にはかかっていない

そんなことが分ったからといってどうなるのか、という話ですが、仮に1966年の指定が誤りだったとしても大昔の話であり、民法第724条ただし書の除斥期間(判例の解釈)の規定により、国の不法行為上の責任を問えない、との考えもあるかもしれませんが、除斥期間の起算点は、損害発生時(鬼怒川大水害の場合、発生した2015年9月10日の翌日)から20年と解すべきであるという説(「消滅時効・除斥期間と権利行使可能性」松本 克美)によれば、除斥による期間制限にはかかっていません。

仮にこの説が裁判所に採用されないとしても、河畔砂丘が全体的に河川区域として指定されていなかったと構成すれば、不作為による不法行為の除斥期間の起算点については、「加害行為時説に立ちつつも,損害が発生するまでは 20年期聞は進行しないものと考えるべきであろう。」(「国家賠償請求権と消滅時効・除斥期間」西埜章)とする説によれば、鬼怒川大水害の被害の損害賠償請求権は、除斥による期間制限にはかかっていません。

(文責:事務局)
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