「みなし河川整備計画」の鬼怒川下流部に係る部分には具体性がなかった(鬼怒川大水害)

2021-12-27

●被告は基本方針の正式名称も知らない

今回の記事は、「みなし河川整備計画」の鬼怒川部分は11行だった(鬼怒川大水害)の続編です。

確認しておきたいことは、瑕疵の有無の判断基準について、私は、「是認すべき安全性」=「過渡的安全性」の有無を基準とすべきだと考えますが、原告側は、若宮戸の河川区域の指定の問題を除き、改修計画や改修工事の実施の状況の合理性で判断すべきであると考えていることです。

その上で、被告のいう「本件整備計画」(私のいう「みなし河川整備計画」)とは何かについて検討します。

被告は、「第一義的には、本件基本方針及び本件整備計画が格別不合理と言えるか否かが争点となるものというべきである」(被告準備書面(2)p7)と主張します。

「本件基本方針及び本件整備計画」とは何かについては、被告は、「本件洪水時に有効であったのは、後記イの平成18年策定に係る利根川水系整備基本方針(以下「本件基本方針」という。)及び後記ウ(イ)で指摘する平成7年工実の一部の記載(3.(2)の記載部分。以下「本件整備計画」という。)であった(乙第20号証の1)。」(被告準備書面(1)p26)と定義します。

被告は、「本件基本方針」は、「利根川水系整備基本方針」の略称だと言っているのですが、「利根川水系整備基本方針」自体が略称であり、正式名称ではありません。

正式には、「利根川水系河川整備基本方針」(2006年)です。

被告は、利根川水系河川の整備の大元の基本方針(利根川水系の治水に関する憲法のようなものではないでしょうか。)の正式名称を知らないのです。

被告(国)と言っても、被告準備書面(1)に名前を出して関わったのは34人の指定代理人ですが、34人が原稿を書いたり、チェックしたりしながら、誰一人として正式名称を知らないのです。

原告側は、誤字脱字の揚げ足取りをしても意味がない、と考えているのでしょうが、私は、意味があると考えます。

被告が基本方針の正式名称の脱字に誰一人として気づかないということは、被告が「利根川水系河川整備基本方針」など重要視していないことを意味しているのであり、基本を踏まえない河川管理が大水害の一因となっていると考えます。

同方針には、「洪水をできるだけ河道で分担して処理するものとする」(p13)とか、いいことも書いてあるのですから、これを守って湯西川ダムよりも下流の堤防整備を優先させていれば、大水害は起きなかったはずです。

●「みなし河川整備計画」の具体的な記述は2箇所だけだった

「みなし河川整備計画」の鬼怒川部分は11行だった(鬼怒川大水害)に書いたとおり、2015年9月の被災時には、鬼怒川の河川整備計画は存在せず、1997年制定の河川法の一部を改定する法律附則第2条第2項の規定により、1995年度利根川水系工事実施基本計画(pdfがダウンロードされますのでご注意)の一部(改定前の河川法施行令第10条第2項第3号ロに係る部分。「主要な河川工事の目的、種類及び施行の場所並びに当該河川工事の施行により設置される主要な河川管理施設の機能の概要」)が河川整備計画とみなされるのですが、鬼怒川については、その一部とは次の11行(見出しを含めれば12行)だったのであり、これが全てです。下流部については4行分です。

これが被告のいう「本件整備計画」です。

「利根川水系鬼怒川河川整備計画」(2016年2月)が59頁に及ぶことと比べると、「みなし河川整備計画」は無内容に等しいのです。

「下流部については、堤防の拡築、護岸等を施工する。また、利根川の背水の影響をうける約17kmの区間については、堤防の拡築及び護岸を施工し、洪水の安全な流下を図る。さらに河床の維持のため鎌庭地点に床固めを設ける。」と書かれていますが、具体的なことはほとんど言っていません。

具体的な記述をあえて探せば、「約17kmの区間」という部分と「鎌庭地点に床固め」という部分だけです。しかも達成期限は書かれていません。

では、その具体的な目標は達成されたのかを検討します。

●「約17kmの区間」の整備は半世紀なされなかった

「約17kmの区間」の整備は、次のとおり、1965年度利根川水系工事実施基本計画にもうたわれていました。

また、利根川の背水の影響をうける約17Kmの区間については堤防の拡築を行ない、水衝部には護岸を重点的に施工し、さらに河床の維持のため鎌庭地点に床固めを設ける。

1965年度には、「約17kmの区間」の整備は「重点的に施工し」とまで宣言していたのです。

30年後の1995年度の工事実施基本計画にも、さすがに「約17kmの区間」の整備を早急に実施するつもりがないことが明らかになっているので「重点的に施工し」を外していますが、いけしゃあしゃあと同じ内容の整備を「主要な河川工事」として掲げているのですから、「約17kmの区間」の整備は、お題目にすぎなかったということです。

鬼怒川では、1973年に計画堤防余裕高が1.2mから1.5mに増えたことにより、「茨城県区間の完成堤防としての整備率が約42%から約9%」へと激減したのですから(根拠:第196回国会 2018年5月17日決算行政監視委員会)、より一層、堤防整備に努力すべきだったにもかかわらず、努力しなかったため、2015年3月現在になっても、完成堤防の整備率が栃木県区間で約62%、茨城県区間で約17%だった(根拠:同上)のです。

被告は、「本件整備計画」の記述など全く無視していたということです。

【堤防の規格】

堤防の規格については、河川管理施設等構造令(1976年政令第199号)で規定されていますが、では、1976年までは、どのように決めていたかというと、工事実施基本計画の中に河川ごとに書き込まれていたようです(例えば、1965年度利根川水系工事実施基本計画p29)。鬼怒川では、計画堤防余裕高を1973年度利根川水系工事実施基本計画で改定していて、これは、河川管理施設等構造令の規定に一致していますが、その理由は、1973年度には河川管理施設等構造令の案ができていたので先取りした(案の基準を先行して適用した)ということです(被告準備書面(1)p32)。また、天端幅や法勾配についての基準は、河川管理施設等構造令の施行まではなかったと思われるので、鬼怒川では、天端幅の基準は、5mから6mに増えたのではなく、同政令の施行日の1976年10月1日からいきなり6mに決まった(5mの時代はなかった。)のだと思います。

●下流部の堤防整備の遅れは下流原則遵守という主張と矛盾する

被告は、下流原則を極めて重要視しており、下流原則が例外を許さない絶対的な原則だとさえ言っています(被告準備書面(1)p45)。上流部でどんなに緊急性のある危険があっても、下流部での手当てをしてからでないと、上流部の工事をするわけにはいかないと言っています。

そうであれば、1965年度利根川水系工事実施基本計画に「約17kmの区間」については、「重点的に施工」するとまで宣言した以上、約17k(「k」を「km地点」の略称とします。)より下流の堤防整備は、大水害のあった2015年までどころか、20世紀中に完了しているのが当然です。

下流原則がいつから存在したのかを被告は説明しませんが、いきなり上流部の流下能力を増大させれば、下流部で氾濫するという物理法則ですから、人類が土木技術を持って治水を始めた時から存在が認識されていたはずであり、そうであれば、被告が鬼怒川の直轄工事を始めた1926年から、まずは下流部の流下能力を増大させるための河川工事を実施する必要があったはずです。

そうだとすれば、2000年までに74年間(2015年までに89年間)の時間的余裕が与えられていたのですから、下流原則に従う以上は、約17kより下流の堤防整備は確実に完了できたはずです。

被告が1965年度の工事実施基本で「約17kmの区間」については「重点的に施工」すると宣言してから、2000年までなら35年間、2015年までなら50年間という時間が被告に与えられていたのに、そして、被告は、下流原則を金科玉条としていたのに、なぜ「約17kmの区間」の整備が遅れたのか、2015年洪水による破堤箇所と溢水箇所で、なぜ堤防整備が完了していなかったのか、不可解であり、常総市民なら誰でも知りたいところだと思います。

被告は、2015年にL21kが未整備だった理由として、「上三坂地区より下流において流下能力の不足する区間があること」(被告準備書面(5)p22)を挙げていますが、下流原則が重要だという主張と矛盾していると思います。

この矛盾を追及することが大水害の原因究明につながると思います。

「約17kmの区間」の早期整備をなぜやらなかったのか、下流原則とは何かを究明する必要があると思います。(損害賠償請求訴訟は賠償金を払わせることが目的であって、真相究明が目的ではないと考える人もいるかもしれませんが、原告の多くはなんで大水害が起きたのかを知りたいと考えています(根拠:2021年12月6日付けしんぶん赤旗「常総水害訴訟来年2月結審/洪水なぜ 原因が知りたい」)。財務省文書改ざん自殺事件で赤木雅子さんが提訴したのも、真相究明が目的でした。弁護士は、依頼者のこのような要求にも応えるのが使命ではないのでしょうか。)

被告に質問(求釈明の申立て)をしても、「回答する必要がない」と言われる可能性がありますが、質問しないことには話になりません。

被告が回答しないとしても、裁判所の被告への心証は悪くなりますから、勝訴の確率は上がるはずです。

質問しなければ、賠償金も取れない、真相も分からない、ということにもなりかねません。

●鬼怒川下流部の堤防整備の歴史には30年程度の空白期間があった

被告は、「昭和40年代」から2000年までの期間、鬼怒川下流部の堤防整備をしませんでした。

被告準備書面(5)p11〜12によれば、「昭和40年代までに中下流部の主要な区間における流下能力の確保については一定のめどがついた。」(p11)とし、「平成13年以降、再び下流部からの堤防の整備を開始した。」(p12)ことしています。つまり、堤防整備の中休みをしていたことを認めています。

では、被告は、「昭和40年代」から2000年までの期間、一体何をしていたのか、というと、「護岸等の整備」と4基の「床止の整備」だというのです。

要するに、鬼怒川の堤防整備の歴史については、30年前後の空白期間があります。

●整備休止の理由は不合理だ

しかも被告は、「平成13年以降、再び下流部からの堤防の整備を開始した。」ことの理由を二つ挙げていて、一つは、2001年と2002年に規模の大きな洪水が発生し(具体的には、豊岡町と若宮戸で河川区域を越えて浸水した)、下流部の堤防が現況のままではまずい(氾濫が起きる)ことに気がついたこと、要するに実際に浸水して「尻に火が着いた」ということですが、これは、2001年までは、これまではさほど大きな洪水は来なかったから今後も大丈夫だろうと考えていたということであり、遅きに失するのであり、河川管理者としてあるまじき認識なのですが、時系列的には辻褄が合う話ではあります。

もう一つの理由は、鬼怒川では、1973年に「整備すべき堤防の規格が大きくなった」(被告準備書面(5)p12)から2001年に堤防の整備を再開したというのですが、これは時系列的に辻褄が合いません。

1973年に堤防の規格が大きくなったのに、なぜ整備の再開を2001年まで待つ必要があったのかを被告は説明していません。その理由を常総市民なら誰でも知りたいと思うところだと思いますが、原告側も解明するつもりはありません。

なぜなら、「平成13年から本件氾濫までの改修の経緯・手順について」の被告の主張について、原告側は、「ここで、被告は、「距離標ごとの流下能力に基づく治水安全度を評価した上で」「治水安全度の低い箇所を優先しつつ、いわゆる下流原則に基づき原則として下流から上流に向かって」堤防整備を行ってきた、と主張する。原告らは、一般論として、上記には異論はない。」(原告ら準備書面(8)p34)と述べているくらいですから、2000年以前の被告の堤防整備を問題視する考えがないことがうかがえるからです。

以上のとおり、被告のいう「本件整備計画」で具体性のある記述のうちの約17kまでの堤防整備については、1965年度の工事実施基本計画に挙げられていたのですから、被告が真面目に努力していれば、20年後くらいには完了していたはずであり、そもそも30年後の1995年度の工事実施基本計画に挙げるべき「主要な河川工事」ではなかったはずです。

また、1995年度以降についても、2001年と2002年に大水が出るまでは堤防整備を再開しなかったのですから、鬼怒川の約17kまでの堤防整備を1995年度の工事実施基本計画の「主要な河川工事」として掲げていたことは、お題目であり、ダミーにすぎなかったということです。

●「鎌庭地点に床固め」は反故にされた

次に、「鎌庭地点に床固め」という目標が実現されたのかを検討します。

結論から言って、「鎌庭地点に床固め」は、完全に反故にされました。

この「主要な河川工事」も「本件整備計画」の30年前に策定された1965年度の工事実施基本計画にも挙げられていましたが、未だに実現していません。

鬼怒川の床固めの設置位置及び設置時期は、2012年3月時点で次のとおりであり、7箇所です。(「床固め」と「床止」は同じです。利根川水系鬼怒川河川整備計画(2016年2月)でも7箇所です。)

床止め
(出典:鬼怒川河川維持管理計画(2012年3月)p16)

つまり、1965年度利根川水系工事実施基本計画に「河床の維持のため鎌庭地点に床固めを設ける。」と書き込んだ時には、既に鎌庭には二つの床固めが設置されていました。「鎌庭第二床止」は、1952年度に設置されており、その13年後に、初代の工事実施基本計画である1965年度利根川水系工事実施基本計画に鎌庭の床固めが「主要な河川工事」として掲げられたのです。

したがって、この「主要な河川工事」は、鎌庭に第3の床固めを設置するという意味になります。

しかし、上記のとおり、2012年に作成された鬼怒川河川維持管理計画に、鎌庭の第3の床固めは記載されていません。

2016年に策定された利根川水系鬼怒川河川整備計画でも実施を予定する河川工事に掲げられていません。

そこで私は、念のため、2021年8月9日に、「1965年度利根川水系工事実施基本計画の34ページで計画された鎌庭地点の床固めがいつ、どこに、どのような規模で設置されたかが分かる文書」の開示を関東地方整備局長あてに請求しました。

すると、2021年10月11日付けで行政文書不開示決定通知書が届きました。不開示の理由は、「請求のあった行政文書については、取得・作成していないため、文書が存在しないことから不開示としました。」と記載されています。

関東地方整備局河川計画課の職員から電話で説明があり、鎌庭に第3の床固めは設置されなかったとのことです。

つまり、被告は、実施する予定のない河川工事を1965年度から1995年度まで30年間、ずーっと「主要な河川工事」として掲げ続けたのです。

1995年度利根川水系工事実施基本計画の一部は、「みなし河川整備計画」として、鬼怒川で河川整備計画が策定された2016年まで効力があったのですから、被告が鎌庭の床固めを「主要な河川工事」として掲げ続けた期間は、51年間です。

●鬼怒川下流部における具体的な「主要な河川工事」はだましだった

以上を要するに、「みなし河川整備計画」に記載された鬼怒川下流部における具体的な「主要な河川工事」は、だましだったということです。

約17kまでの堤防整備も鎌庭の床固めも、ダミーあるいはお題目として書かれていただけです。

被告のいう「本件整備計画」(私のいう「みなし河川整備計画」)のうちの鬼怒川下流部については、具体的な中身は何もなかったということです。

「主要な河川工事」に具体性が全くないと格好がつかないので、ダミーとして約17kまでの堤防整備と鎌庭の床固めを書いておいただけでしょう。市民を愚弄した話です。

ただし、「本件整備計画」のうち、最上流部についてダムを建設するという記述は、ダミーではなく、有言実行をしています。

鬼怒川の管理で被告がやりたかったことは、最上流部でのダム建設であり、ダムで洪水を調節するから、下流部の堤防整備はほとんどやる必要がないと考えていたのでしょうが、下流部は手抜きをします、という計画書を作成するわけにもいかないので、建前としては、ダムも堤防も造るという計画書(達成期限のない「計画書」)を策定して、世間の目を欺いたのです。

被告の本音の部分の話なので確たる証拠はありませんが、茨城県区間の完成堤防の整備率が2015年3月現在で約17%という結果を見れば、被告の本音は、鬼怒川はダムで制御すれば水害は防げるから下流部の堤防は脆弱でも構わないということだったと見ざるを得ません。

●被告の主張への反論

被告は、本件における瑕疵判断の基準は、改修計画の合理性であると主張します。

これへの反論としては、そもそも本件は、大東判決要旨二を適用すべき事案ではないが、予備的に反論すると、仮に適用するとしても、「本件整備計画」は「主要な河川工事の目的、種類及び施行の場所並びに当該河川工事の施行により設置される主要な河川管理施設の機能の概要」(改正前の河川法施行令第10条第2項第3号ロ)を記載すべきところ、鬼怒川下流部については、どこでどんな河川工事を施行するという具体的な記述がなく(「約17km」とか「鎌庭」とかの場所の指定はあるが、上記のとおり、体裁を整えるためのダミーであることが証明された。)、河川工事の種類を抽象的に羅列しただけであるから、改正前の河川法施行令第10条第2項第3号ロの要件を満たしていないので、計画としての内実を有しないのであり、合理性の判断対象である改修計画としての資格を有しない。また、「本件整備計画」の鬼怒川下流部については、単に内容に具体性がなく空疎であるだけでなく、早期に実施予定のない工事や永遠に実施する予定のない工事を掲げて世間をだましたのであるから悪質であり、格別に不合理である、ということでしょう。

●なぜ1973年から堤防の拡大改造をしなかったのか

ちなみに、被告が1973年に鬼怒川の計画高水流量を引き上げ(石井地点で4000m3/秒→6200m3/秒)、堤防の規格を大きくしても、これに即座に対応して堤防の拡大改造をしようとしなかった理由は、流量の数字をいじったからといって大洪水が発生するわけではないから、あわてて堤防を改造する必要はない、とたかを括っていたからだと推測されます。

旧規格での完成堤防整備率が100%に近ければ、そういう考え方でも鬼怒川大水害は起きなかったのですが、上記のとおり、鬼怒川の茨城県区間における1973年時点での完成堤防整備率は約42%だったのですから、計画の規模を大きくしたからといってあわてて整備する必要はない、という発想は、あり得なかったのです。

この異常な発想が大水害の一因であり、問題視すべきだと思います。

●なぜ1973年に計画高水流量を増やしたのか

被告が1973年度の工事実施基本計画で鬼怒川の計画流量を増やした(石井地点で基本高水流量を5400m3/秒から8800m3/秒に、計画高水流量を4000m3/秒から6200m3/秒に)のかについて、原告側は、「(1968年着工(根拠は「ダム便覧」)の)川治ダムの建設を治水計画に正式に位置づける必要があったことによるものである。」(訴状p18。括弧書きは引用者)と断じたのに対して、被告は、「ダムありき」だったことを否定するために、「この計画改定は、単に川治ダムを治水計画に位置づけるためのものではなく、昭和24年以降、利根川流域が大きく変貌し、治水安全度の向上と急速に拡大しつつあった新規水需要に対処する必要が生じた背景から、基本高水のピーク流量の改訂を含め、洪水調節計画及び河道計画の見直しを行ったものであり」(答弁書p18〜19)と反論しました。

鬼怒川は、新規水需要が発生すると基本高水のピーク流量が増える、という特殊な河川のようです。

被告もこの奇妙さに気づいたのか、被告準備書面(1)p25における1973年度の工事実施基本計画の説明では、新規水需要の話は引っ込めてしまいます。

それはともかく、被告は、基本高水のピーク流量及び計画高水流量を変更した理由を「利根川流域における市街地開発等により土地利用が大きく変貌し、治水安全度の向上に対処するため」(被告準備書面(1)p25)だったと言っていますが、抽象的です。

1973年度利根川水系工事実施基本計画p2には、次のとおり、詳しく書かれています。

1973工実

詳しくは、このスクリーンショットを読んでほしいのですが、「また、下流部の水海道を中心とする地域も、首都圏整備計画の中でも重要な位置を占める近郊整備地帯であり、第二4号国道、常磐自動車道等の道路を始めとする交通網の整備により東京の通勤圏内に入りつつある。このように、流域の重要性は今後増々、増大する傾向にあり洪水が犯(ママ)濫した場合に流域に与える被害は極めて甚大である。」と書かれています。

現在の常総市で氾濫が起きたら甚大な被害が生じるから、1973年度に鬼怒川の治水計画の規模を拡大したと言っています。

そうだとすれば、拡大した計画に適合するように、直ちに下流部では築堤をしなければ言行不一致です。

●「昭和40年代までに中下流部の主要な区間における流下能力の確保については一定のめどがついた。」の証拠はあるのか

被告は、「昭和40年代までに中下流部の主要な区間における流下能力の確保については一定のめどがついた。」(被告準備書面(5)p11)と述べます。

「昭和40年代まで」とは、1974年までという意味でしょう。

しかし、被告は、鬼怒川の堤防の測量成果は、1990年度以降分しか存在しないと情報公開請求者に対して言い、開示しないのですから、1974年までに「一定のめどがついた。」のかどうか、確認のしようがありません。

本当に、1990年度以前の測量成果がないのであれば、被告は、証拠に基づかずに、「一定のめどがついた。」と主張していることになりますから、原告側は、証拠を出せ、と主張すべきだと思います。

被告は、1973年から2000年まで一体何をしたのか、というと、1973年から護岸の整備を本格的に実施した、1981年から2000年までは4基の床止め(床固め)を整備した、というのです(被告準備書面(5)p11〜12)。

護岸も床固めの大事なものでしょうが、堤防の整備の方が優先順位が高いはずです。

なぜ、被告は、四半世紀にわたって堤防整備の中休みをしたのかを説明させないと提訴した意味がないと思います。被告に回答義務がないとしても、説明を求めないことには話になりません。

●被告は霞堤に遊水機能があると考えている

ちなみに、被告準備書面(5)p11を読み返していたら、次のように書かれています。

なお、中流区間では連続堤防を整備するに伴って下流区間への流量が増加するといった負担をかけることのないようにするため、広い河原と霞堤による遊水機能の確保を図った。

つまり、被告は、霞堤に遊水機能があると考えています。

被告準備書面(1)p21にも、霞堤は、「下流に流れる洪水の流量を減少させる役割を持つ。」と書かれています。

しかし、一般論として霞堤に遊水機能はありません。

中国地方整備局太田川河川事務所のサイトには、霞堤が遊水機能を有するとは書かれていません。

最上川電子大事典でも同様です。

よほどの緩流河川の霞堤なら遊水機能があるでしょうが、そういうものは遊水地と呼ぶべきではないでしょうか。

清水義彦「鬼怒川の水害調査にかかわって学んだこと」によれば、鬼怒川の中流部(44k〜101.5k)の河床勾配は1/467〜1/192ですから、霞堤から出た洪水が貯留されることはないでしょう。

どうも被告は、鬼怒川の中流部には霞堤が22箇所もあり、洪水時には、それらが遊水機能を発揮するので、下流への負担が増加しない、だから下流部の堤防が脆弱なままでもそれほど心配する必要はないと考えていた可能性があり、それが大水害の一因となった可能性もあると思います。

(文責:事務局)
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