「河畔砂丘」は未だに理解されていない(その2)(鬼怒川大水害)

2021-10-17

●利根川上流河川事務のWEBサイトが何を言っているのか分からない

利根川上流河川事務のWEBサイトに「会の川と自然堤防」というページがあります。

埼玉県加須市の志多見(しだみ)砂丘等の河畔砂丘群の説明をしているようですが、意味が分かりません。

利根川上流事務所HP 1

「説明」として、次のように書かれています。

会の川は中川水系で、羽生市大字上川俣を起点とし、加須市大字川口を終点とする利根川の旧河道である。全長20キロメートル。現在は細い流れにすぎないが文禄3年(1594)時の忍城主松平忠吉が利根川の瀬替を行う以前の利根川幹流で河流に沿って両側に砂質の自然堤防がよく発達している。
これは国内では珍しい河畔が砂丘となっている。加須・不動岡の市街地は、そうした自然堤防に立地している。
会の川筋に顕著に見られる河畔砂丘は、上流より川俣・岩瀬・須影・志多見・大桑の五箇所である。
利根川故道の形は人工を施されない自然河川の状態を示すものとして興味深いものであり、自然堤防は誠に雄大である。

自然堤防の説明なので、「河流に沿って両側に砂質の自然堤防がよく発達している。」という説明は、分かります。

次の文章が「これは国内では珍しい河畔が砂丘となっている。」と、いきなり砂丘の話に変わります。

「これは」の「これ」は自然堤防のことのはずですから、自然堤防が砂丘となっている、ということですが、自然堤防は砂丘ではないはずです。

日本語としても変です。「珍しく河畔が砂丘となっている。」又は「珍しい河畔砂丘となっている。」が普通だと思います。両岸で河畔砂丘が形成されるという話も変です。

次の文章が「加須・不動岡の市街地は、そうした自然堤防に立地している。」で、自然堤防の話に戻ります。

次の文章が「会の川筋に顕著に見られる河畔砂丘は、上流より川俣・岩瀬・須影・志多見・大桑の五箇所である。」と、また河畔砂丘の話に変わります。

次の文章が「利根川故道の形は人工を施されない自然河川の状態を示すものとして興味深いものであり、自然堤防は誠に雄大である。」で、自然堤防の話に戻ります。

要するに、一文ごとにテーマがコロコロと切り替わり、目が回ります。私の理解力が乏しいから理解できないのでしょうか。地理学の専門家なら理解できるのでしょうか。

砂丘の話の次に「そうした自然堤防に」と書いているので、利根川上流河川事務所では、自然堤防と河畔砂丘が同じものだと考えられているのではないでしょうか。

治水地形分類図が「国土交通省内の河川管理部門で利用されています。」という治水地形分類図解説書の記述はウソです。

ちなみに、下館河川事務所のサイトには、鬼怒川沿岸の河畔砂丘を紹介する記事はありませんし、過去にもなかったと思います。

記述が意味不明ではあっても、河畔砂丘の紹介記事があるだけ、利根川上流河川事務所は下館河川事務所よりマシなのかもしれません。

●土木学会首都圏低平地災害防災検討会座長も河畔砂丘を知らない

鬼怒川大水害について、建設総合ポータルサイトの「けんせつPlaza」が「長年、自治体で防災対策に取り組んできた第一人者」であり、土木学会首都圏低平地災害防災検討会座長も務めた土屋信行へのインタビュー記事洪水と付き合う術を忘れた日本人〜関東・東北豪雨による鬼怒川決壊〜を載せています。

土屋は、次のように語ります。

自然の恵みである自然堤防
鬼怒川の今回の洪水を見ると最初に越流した箇所は、自然堤防が削られていた。
そもそも自然堤防の成り立ちは、多くの土砂を含んだ洪水が氾濫を起こすと、それまで運んできた土砂を置いて流れ去ってゆく。
このように河川の氾濫が繰り返されることにより土砂が堆積し、周辺よりもやや高い微高地が形成される。
これが自然堤防である。
自然堤防は背後地の氾濫原である低湿地帯よりも水はけが良いので、家屋が建てられ畑などにも活用されてきたほか、ここに木を植え水害防備林とした所もあるほどだ。
その意味でもこうした場所はその地域にとって大切な場所であり、祠(ほこら)が置かれ守られることもあった。
今回、鬼怒川で最初に越流を起こした若宮戸の現場は、私有地であったので自然堤防が削りとられてしまったという報道を聞いた。
もしそれが本当なら、これまで私たちが守り継承してきた災害と付き合う大切な「作法」を忘れてしまったとしか言いようがない。

土屋は色々と「自然堤防」の説明をしますが、若宮戸で「削りとられてしまった」のは自然堤防ではなく、河畔砂丘です。

「若宮戸の現場は、私有地であったので自然堤防が削りとられてしまったという報道を聞いた。」からといって、それを信じて解説している、というのであれば、水害の専門家とは言えないと思います。

要するに、土屋信行も2016年3月の時点では、河畔砂丘を知らなかったということです。

堤防のない箇所で氾濫したと聞いたら、そこの地形は何だったのか、と考えるのが専門家でしょう。

洪水と水害を、まずは地形から捉えて議論するという姿勢が治水の専門家に欠如しているという現象がここにも見られるのであり、国土地理院が治水地形分類図を水害対策に役立ててほしいという思いは、所詮片思いにすぎないのです。

●若宮戸地区に堤防があるという前提の論文がある

次のような論文があります。著者は、河畔砂丘を理解していますが、若宮戸の河畔砂丘を理解していないと思います。
河川整備基金助成事業「大規模土砂移動イベントおよび連続堤建設が沖積河川の河床変動と洪水特性に与える影響の長期評価」助成番号:26-1213-005 東京大学大学院新領域創成科学研究科教授:須貝 俊彦平成 (2014-2015年度)

若宮戸図面

著者は、図22(上図)を示して、次のように説明します。

若宮戸地区における越水と地形変化:
若宮戸地区では,河畔砂丘の一部を切土してソーラパネルを設置した箇所で,越水が生じた(図 2,図 22)。南北に伸びる砂丘の高まりを胴切するように外水が浸入し,多量の砂を移動させ,サンドスプレイを形成した。

ここで注目したいのは,その約 500 m 南で発生した落堀とサンドスプレイである。この落堀は,霞堤を構成する東側の堤防の上流端(北端)付近で,2015 年よりも前から存在していたクレバスチャネルを掘り下げるように,発生した。北へ伸びる霞堤が,落堀を北へ折り曲げたようにみえる(図 22)。霞堤がなければ,落堀は東へ伸び,図 22 中に緑色で示した不明瞭なローブへ砂を供給し,ローブを成長させた可能性がある。

上述した上三坂における解釈も合わせると,緑色の不明瞭なローブ状地形は,初期段階のサンドスプレイ地形と考えられる。
【堤防の場所が違う】

まず分からないのは、堤防の位置が、治水地形分類図を簡略化したという図15(下図)と矛盾していることです。

地形分類図

治水地形分類図に描かれた堤防の位置が間違っていることもあります(例えば、常総市豊岡町地内の左岸11.00kから豊水橋の間)が、若宮戸については、おおよそL24.6k〜25.9kが無堤防区間として描かれており、ほぼ正確です。

図22では、若宮戸の河畔砂丘全体が人工堤防で守られているようになっています。

どうしてこんなことになったのでしょうか。専門家が空中写真で見ると、堤防があるように見えるのでしょうか。

治水地形分類図に描いてあることを否定するなら、それなりの根拠を示すことが必要だと思います。

不思議なのは、須貝は、若宮戸地区には堤防がないことを知っていたと思われることです。

[HGG12-04] 2015年9月の洪水破堤に伴う茨城県常総市の鬼怒川低地の地形変化*泉田 温人1、内山 庄一郎2、須貝 俊彦1 (1.東京大学大学院新領域創成科学研究科自然環境学専攻、2.防災科学技術研究所)という論文では、「三坂町では河道に沿って比高1 - 2 m程の自然堤防が連続性良く分布し,若宮戸では左岸に河畔砂丘が発達している.越水はこの砂丘の一部が削剥された箇所で発生した.」と書いているからです。(ちなみに、若宮戸における洪水堆積物に関する須貝らの考え方が理解できません。「越流が生じた若宮戸では約200 m×400 mの範囲で地表下0 cm(地表付近)と20 cm深の洪水堆積物の採取と粒度分析を行った.どちらの深度でも中央粒径がおよそ500 - 800 μmで淘汰の良い砂が堆積した.この地点では河道の一つの砂州の構成砂の中央粒径が700 μm前後であり,河床砂が洪水により河道外に運搬されたと推測される.ただし,一部の堆積物は河畔砂丘の砂の再堆積である可能性も残されている.」とあり、ただし書はあるものの、「河床砂が洪水により河道外に運搬された」というのが主たる推測ですが、河畔砂丘の砂の粒径が書かれておらず、仮にそれが河床砂と同じ程度であれば、「河道の一つの砂州の構成砂の中央粒径が700 μm前後であ」ることは、「河床砂が洪水により河道外に運搬された」という推測の根拠にはならないはずです。)

図22は、須貝が自ら描いたのではなく、他人が描いたものをチェックもせずに載せたということでしょうか。

治水地形分類図の背景地図は確かに古いのですが、河川工学者や河川管理部門の公務員だけでなく、須貝のような地理学の専門家までが治水地形分類図を軽んじています。

【霞堤はない】

次の疑問が若宮戸に「霞堤」があると書かれていることです。

若宮戸地区が有堤区間と認識した以上、平面図を見れば、霞堤に見えたのは仕方ないとしても、須貝が霞堤とは何かを理解していれば、「霞堤」と3度も書くうちに、「果たして本当にそうなのか」と自問したはずです。霞堤だとしたら、洪水の通り道に市道が横断し、その先に家が建っているのも変だと気づくでしょう。

地理学者には、河川工学者の間でさえ定義等が確立していない霞堤を正しく理解するのは難しかったのかもしれません。

霞堤について大熊孝「技術にも自治がある」(2004年。中古でも値下がりしていないのは名著の証でしょう。)で詳しく解説する(p148〜166)必要があったのは、河川工学者でさえ、霞堤を正しく認識していなかったからでしょう。

一般に霞堤は急流部に設置されるものであり、鬼怒川では、22箇所ありますが、全て栃木県区間にあります(2011年度鬼怒川河川維持管理計画p73)。

緩流部に霞堤を設置する例もあるようですが、若宮戸に霞堤を設置する意味はないと思われ、霞堤であると言い切るからには、もっと調べればよかったと思います。

ちなみに、若宮戸の堤防が、現地を見ていない人には霞堤にしか見えなかったということは、いかに異常な堤防だったかということです。

あの折れ曲がり堤防は、1949年のキティ台風の際の洪水による十一面観音付近からの浸水被害があったことを受けて、再度の被災を防止するために、1952年に下流の堤防を延伸して築造されたと思われます。(根拠:石下町史。1949年に「9月1日鬼怒川洪水 十一面地先堤防決潰し西原・上石下・本石下浸水」、1951年に「この頃若宮戸地先鬼怒川堤防工事のため、十一面砂丘取りくずされる」、1952年に「石下地先鬼怒川堤防工事竣工する」の記述あり。詳しくは、naturalright.orgの若宮戸における河川管理史2 河畔砂丘南部の掘削と水害を参照)

迅速測図と1940年発行の5万分の1地図を見ると(若宮戸河畔砂丘の変遷を確認してみた(鬼怒川大水害)を参照)、下流側堤防は左岸24.1kくらいまでは来ていました。そこから、L24.63kまで延伸したので、1952年に完成した築堤区間は、530m程度になります。

延伸した堤防の上流端の河畔砂丘へのすり付け先は、自然状態であれば最大の畝だったR1(三角点につながる最も東の畝。naturalright.orgによる命名。)のL24.63kの地点でした。

その方策が妥当だったか、については、1950年頃の河畔砂丘の高さに関するデータがなく、空中写真さえ公表されていないし、当時、堤防類地の資格について、どう認識されていたかも不明なので、評価が難しいのですが、筋論としては、その資格は、計画高水位+計画余裕高(1.2m)とすべきだったと考えますが、それが厳しすぎる基準だとすると、最低でも高さが計画高水位を超えているという条件は譲れないと思います。

R1の高さが計画高水位以上で連続していたかが定かではありませんが、その最低基準で考えると、R1はギリギリセーフだった可能性はあると思います。

しかし、1952年当時は、旧河川法の時代ですから、河畔砂丘という堤防類地の範囲で河川区域を設定するという制度はなかったと思いますし、法的にはそれも可能だった(河畔砂丘の範囲で公選の知事が機関委任事務として河川区域を認定する。)と思いますが、それをやると私権の取り上げになる(旧河川法第3条)ので、反発が予想されますから、事実上は、河川区域の認定による開発規制はできなかった、つまり、伝家の宝刀は抜けなかったのだと思います。

そうだとすると、河畔砂丘を山付き堤として利用し続けるとすれば、土地を買収するか、買収しないで民有地のままちゃっかり利用する(ひとの褌で相撲を取る)かの二択になると思います。

知ってのとおり、管理者は、ひとの褌で相撲を取ることにしたため、開発規制ができず、水害を招きました。(河川区域内の河畔砂丘についても、開発規制をしなかったことも重大問題です。)

1952年当時の河畔砂丘の高さがどうであれ、R1を取り込んで河川区域を認定することもできず、民有地のまま堤防の代役とすることも誤りであるのならば、築堤するしかなく、そうだとすれば、1952年以前から管理者には河畔砂丘を全面的にカバーする堤防の築造義務があったはずです。

これまで、1970年頃までは、河畔砂丘は計画高水位程度の洪水にどうにか耐えられるから、それまでに河畔砂丘の高い部分を含めて河川区域に取り込めば堤防類地として使えると考えてきましたが、河川区域内の民有地の地権者と対決したくない、つまり、土地利用規制をしたくない、ということが管理者の既定方針としてあったとすれば、河畔砂丘を山付き堤として利用するという発想自体を持つべきではなく、築堤あるのみだったと思います。

なお、河畔砂丘を山付き堤とすべきでなかったが、実際にやってしまったR1へのすり付けではなく、R2にすり付けていれば、少しはマシだったのではないか、ということを考えると、結果論ですが、R1は早期にズタズタに開発され、削平されてしまったのに対して、R2は、魚の中骨のように、高い部分がかなり残ったのですから、また、2015年洪水による下流側溢水箇所に高さY.P.22m程度の堤防を築造することになるので、R2にすり付けた方がマシだったと思います。それでも、R2の高さは、2004年1月測量で21m台ですから、2015年洪水(痕跡水位がL24.63kで21.83mと推測します。)で溢水したと思います。あくまで、どちらがマシかという話です。

1950年頃の管理者も、堤防をR2にすり付ける意図があったのではないでしょうか。だから、途中までは、R2に向かって堤防が延伸されたと思います。

最終的に堤防を折り曲げてR1にすり付けた理由は、R2にすり付けた場合には、河畔砂丘の南部の中央を横断する切り通し状の常総市道東0280号線(当時は石下町道か)の処理が面倒だったことではないでしょうか。

迅速測図にも描かれているこの道路を廃止するわけにもいかないので、堤防法面に斜めに坂路を設けて堤防を乗り越える形になると思いますが、そうなれば、利用者の負担はかなり増大しますから、住民が抵抗したと思います。

つまり、R2にすり付けると、管理者は、物理的にも精神的にも苦労すると思います。反面、R1にすり付ける場合は、横断する町道の高い部分(R1との交差部)にすり付けるだけであり、道路はいじらないのですから、面倒なことはありません。

どう見ても異常な堤防がある状況は禍根を残していたにもかかわらず、管理者が1952年から2015年まで63年間、放置したことが溢水の原因だと思います。ただし、訴訟で築造義務はいつ発生したのかを議論するとなると、山付き堤の設定に関するルールが明文化されたのは新河川法になってからだと思われるので、旧河川法時代に築造義務があったと主張する場合の根拠が条理しかないとするとかなり苦しいので、建設大臣が同法に基づき河川区域を指定した1966年と主張するのが現実的かもしれません。

【既におっぽりがあったのか】

次の疑問は、「この落堀は,霞堤を構成する東側の堤防の上流端(北端)付近で,2015 年よりも前から存在していたクレバスチャネルを掘り下げるように,発生した。」と書いていることです。

「この落堀」とは、若宮戸の下流側溢水でできた、深さ約6mのおっぽりを指しています。

このおっぽりの発生地点では、クレバスチャネルが「2015 年よりも前から存在していた」と須貝は書きます。

「クレバスチャネル」とは何かが問題ですが、須貝は、他のページで「落堀(クレバス・チャネル)」と書いていますので、「クレバスチャネル」とはおっぽりのことと理解するほかありません。

つまり、東に折れ曲がった堤防の上流端付近では、2015年より前からおっぽりが存在したと言っています。

おっぽりがなかったという証拠はありませんが、あったという証拠も示されておらず、直感的には、「2015 年よりも前から存在していたクレバスチャネルを掘り下げるように,発生した。」と言って、2015年の溢水と関連づけるのは、いささか強引ではないかと思います。

【更新世段丘がどこにあるのか】

次の疑問は、図22の凡例で、「狭義の自然堤防(ごく一部、更新世段丘の可能性あり)」と書かれていることです。

自然堤防に広義と狭義があったとは初耳です。

それはともかく、図22のどこに「ごく一部、更新世段丘」があるのか、全く分かりません。

私の知識では、鬼怒川の26kより下流の左岸で更新世段丘が出現するのは、常総市水海道元町が最初のはずですが、地理学者には素人には見えないものが見えているのかもしれません。

●三坂町は水海道市ではないのか

論文のテーマから外れますが、細かい点で誤りがあると、一事が万事、思い込みで書いているのではないかと疑われ、論文自体の信用性にもかかわってくることもあり得ると思います。

須貝は、「鬼怒川下流左岸の常総市旧石下町上三坂地区と若宮戸地区において,外水氾濫が発生した」とか「2015 年に破堤した鬼怒川下流旧石下町上三坂地区(図 2)を中心に調査を実施した。」と書きます。

須貝は、地区名を書く場合に、わざわざ必ず旧市町名を書きます。

よほど自信があってのことかと思いますが、三坂町上三坂地区は、旧水海道市だと思います(根拠:茨城県水海道市 (08211A1968) | 歴史的行政区域データセットβ版)。

●地理学者も砂丘は高いから安全だと言っている

「自然堤防の高さは過去の洪水の高さを反映したもの」(「防災における地形用語の重要性」(日本地理学会災害対応委員会))という的確な指摘があります。

自然堤防が高いからという理由で、そこを山付き堤にすることは、そこは、それよりも高い水位の洪水が何度も来ていたということを意味しますから、そこでの氾濫によって大きな被害が想定される場合、とんでもなく危険な行為です。

河畔砂丘は、高ければ高いほど安全ですが、自然堤防は、高ければ高いほど危険だということです。

地形の形成過程を見て、将来の災害を予測することが重要であり、自然堤防と河畔砂丘の違いを、単なる高さの違いであると単純に考えることは誤りであると確信します。

地理学者の海津正倫・名古屋大学名誉教授は、「本来、自然堤防では越水することがあるが、砂丘は相対的に高い場合が多く、自然の状態では越水しにくい。」(「防災における土地条件と正しい地形用語の使用」)と言います。

これを聞いたら、本質は高さであり、砂山が高ければ安心して山付き堤にしてよいと思う人が続出すると思います。鬼怒川大水害の原告側も、上記文章を読んで、自然堤防と河畔砂丘の特性を誤解した可能性もあると思います。

地理学者までが砂丘は相対的に高いから安全性が高いと言うのですが、当の海津が「つまり、地形が単なる土地の形ということだけでなく、さまざまな生い立ちを持って現在に至った自然の産物であり、その結果として自然災害に対する特性も異なるということを認識することが重要です。地形と地形を構成する堆積物は多様な特性を持っているので、地形を知ることは土地条件を知ることにほかなりません。そして、それぞれの地形に対して正しい地形名称を使わなければ、その土地条件について間違った認識を持ちかねません。正しい地形名称を使い、それぞれの地形のもつ特性を知っておくことは、防災という観点からもたいへん重要なことなのです。」(「防災における地形用語の重要性」(日本地理学会災害対応委員会))と言っているのですから、地形の「生い立ち」と「自然災害に対する特性」を正しく認識すべきであり、高いから越水しにくい、といった単純で誤解を招きかねない説明は避けるべきではないでしょうか。

(文責:事務局)
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