沖大幹教授への質問(その1)

2014年7月15日

●人の判断は利益を受けても影響されないのか

沖大幹・東京大学教授(生産技術研究所)著「水危機ほんとうの話」(新潮選書。以下「本書」ということもある。)を読みました。

外国での皿の洗い方など、細かいことまで書かれており、なるほどと思う点もたくさんありましたが、いろいろ疑問も湧きましたので、以下に書き連ねます。

p85には、次のように書かれています。

「気候変動が深刻だと宣伝することによって研究予算が欲しいから学者は危機を訴え続けているだけで、地球温暖化はまったくのウソだ」という見方は案外支持されているようである。しかし、それはあたかも「この饅頭がおいしい、とこのお店の人が言うのは売りたいからだ。この饅頭は実はおいしくないに違いない」という論理と同じで、理屈にはなっていない。

「地球温暖化はまったくのウソだ」とは思いませんが、さりとて、饅頭屋の宣伝文句を真に受けるのはおかしいという理屈が「理屈にはなっていない。」という考え方は一般的でないように思います。

お店の人が「おいしい」と言って実際に饅頭がおいしい場合もあるでしょうが、正解は実際にその饅頭を食べてみなければ分かりません。実際に食べても味覚は人それぞれですから、「おいしい」かどうかの判定は容易ではありませんが、多数決による判定はできる問題ですので、「おいしい」に正解があるという前提で話を進めます。

「利害関係者の言うことは眉唾であり、割り引いて考える必要がある」と考えることは合理的な推論であり、経験則にかなっているのではないでしょうか。

沖教授の人生経験では、看板に「うまい」とか「味自慢」とか「味に自信あり」と書いてある店の提供する食事が本当においしい場合がたくさんあったのでしょうが、残念ながら私の場合は、期待外れの方が多かったように思います。

店側の言う「うまい」は、社会的に許容されたウソとも言うべきものであって、その「うまい」が真実である確率はそう高くないと見るのが経験則にかなうと思います。

「人はカネが欲しいために判断力が鈍ったり、ウソを言ったりすることが多い」と考えることがおかしいでしょうか。

例えば、ある医科大学がある製薬会社から多額の資金提供を受けて当該大学の研究者が当該製薬会社の製品には特別の効能があるという研究成果を発表した場合、私は、その研究成果は実は正しくないのではないかと考えてしまうのですが、理屈になっていないでしょうか。

また、もしも、子宮けい癌ワクチンが安全で有効だと言っている医者が当該ワクチンを製造している会社と金銭的につながりがあったとしたら、世の親たちは娘たちに安心してワクチンを接種させることができるでしょうか。

役人や学者が「八ツ場ダムは必要だ」と言っているとしても、役人が建設業界に天下っていたり、学者が建設業界から資金提供を受けていたりした場合には、彼らの発言が正しいと思えないのは当然ではないでしょうか。

学者が研究費を出す者に迎合した研究結果を出すことは、よくあることではないでしょうか。

ある発言が正しいかどうかは、発言者の立場を考慮に入れて判断するのは当然ではないでしょうか。

沖教授は、発言者と発言内容の利害関係を考慮する必要はないというお考えでしょうか。

沖教授は、原子力規制委員会の委員は、原子力関係業界から多額の資金提供を受けていても差支えないとお考えでしょうか。

利害関係者の言うことを信じるべきであるなら、様々な場面で一般的に行われている第三者による検証は不要になってしまわないでしょうか。

沖教授は、世の中に「利益相反」(外部との経済的な利益関係により公的研究で必要とされる「公正」かつ「適正」な判断が損なわれる、又は損なわれるのではないかと第三者から懸念が表明されかねない事態。北里大学のホームページから)など起こりえないと考えておられるのでしょうか。

話を饅頭に戻します。

饅頭屋の店主や店員が「うちの饅頭はうまい」と言う場合、その言葉を信じてその店の饅頭を買う人が増えれば、その饅頭屋の店主や店員の収入が増えるという因果関係があります。

沖教授は、そのような因果関係が認められる場合であっても、店側の人の言うことを疑うのは「下衆の勘繰り」であって、理屈になっていないと言っていることになると思います。

ということは、店側の自分たちの商品に対する評価を額面どおりに受け取るのが正しい理屈だということになると思います。

このことを抽象化すれば、「人間の発言や評価というものは、その発言や評価によって受ける利益によって左右されるものではない」ということになると思います。

●国の政策に影響力のある学者は利益相反を否定している

そう言えば、田中知(さとる)・東京大学工学部教授は2014年9月から原子力規制委員会の委員に就任することを政府が決めたようですが、彼は日立GEニュークリア・エナジー、電源開発、東電記念財団、三菱FBRシステムズ、日本原燃等の核発電関連業界から寄付や報酬を受けているようです(7月5日付け朝日)。

田中氏個人が受け取った寄付ではありませんが、「東京電力が2011年度までの4年間に、核燃料サイクルの研究推進を目的とする東京大の講座に計約1億円を寄付していた」(2014年6月8日付け時事)という事実もあります。

それでも田中教授が原子力規制委員会の委員への就任を了承したということは、自分に利益供与をしてくれる企業・団体に有利な評価をするという確信を持っていない以上、田中教授もまた自分が受ける利益と自分が下す評価は関係がないと考えているということでしょう。

田中知氏の人事に関して諸葛宗男・元東大特任教授は「国会で議論されるべきは委員としてふさわしいかどうかの能力についてで、(民主党政権時代に定めた原子力規制委員会委員に関する)人選基準はナンセンスだ」(2014年6月11日付け産経。括弧書きは引用者)と指摘しています。

東大関係者ではありませんが、原子力規制委員会委員長の田中俊一氏もまた、6月11日の定例会見で「欠格要件があると就任時に私も言われた。(事業者からの研究費寄付などで)考えや人格が変わるものでない」(上記産経記事)と言ったそうです。

国の審議会等の委員になるような学者は、利益相反という概念を認めない人たちなのかもしれません。そのことは、国民にとっては不幸なことだと思います。

●政策をカネで買うことはないのか

そう言えば、自由民主党も企業・団体献金と政策は関係ないと言います。首相や閣僚の国会答弁を聞いていると、政府が企業に有利な政策を実施するのは企業のためではなく、国民全体のためである、したがって、自民党が企業からもらう献金とは関係がない、企業が企業献金で政策を買うことはあり得ない、というのが自民党政府の理屈です。

しかし、「安倍晋三首相はアベノミクスの一環として、労働規制の緩和や法人税の減税など大企業の利益につながる政策を検討している。(経団連が企業献金の)あっせん再開を検討するのは、資金面から政権を支援し、そうした政策を充実させる狙いがあるからだろう。」(2014年6月8日付け毎日社説)という見方が一般的でしょう。

つまり、政権が財界から利益を供与されたら、政権の政策は財界に有利に傾くと見るのが世間相場ですが、沖教授は、自民党が財界からいくら献金を受けても、自民党政権が財界におもねるような政策を実施するはずがないというお考えでしょうか。

●賄賂罪は廃止すべきか

沖教授や田中教授や自民党は、人の判断というものはだれかから利益を受けたからといって影響されることはないと言っているに等しいと思います。実際、田中俊一氏は、「(事業者からの研究費寄付などで)考えや人格が変わるものでない」と言っています。

そう言えるとすれば、公務員が賄賂を受け取ってもその判断に影響がないのですから、沖教授や田中教授や自民党は、刑法の贈収賄罪は廃止すべきであると言っていることにならないでしょうか。

人の考え方を敷衍するときは、だれも言っていない説をでっち上げて反論するという詭弁(わら人形論法)にならないように注意しなければなりませんが、饅頭屋の「うちの饅頭はうまい」を疑うのは理屈になっていないということは、人は利益を受けても、あるいは不利益を免れても、そのことによってその人の判断が偏ったり、その人がウソをついたりしないものだという考え方を前提としており、贈収賄罪の立法事実を否定することになると思えるのですが、このような敷衍の仕方は誤りでしょうか。

●司法取引の導入も問題なしということにならないか

そう言えば、2014年7月9日に法制審議会の特別部会が司法取引を認める法務省の案を満場一致で了承した(同日付け産経電子版)そうですが、沖教授によれば、人は他人が罪を犯したことを供述することによって自分が訴追されるという不利益を免れることができる状況にあっても、ウソをつくと考えるべきではないので、冤罪を招くおそれはないから導入しても弊害はないということになるのでしょうか。

●反論は別の方法が必要ではないか

いずれにせよ、IPCCの報告書が正しいかどうかは別として、報告書がウソだと考える人への反論として「饅頭屋の宣伝文句を疑うことは理屈になっていない」という沖教授の考え方は、経験則に反すると思 います。

気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書統括執筆責任者である沖教授としては、研究資金の流れから報告書の真偽を疑われることが面白くないことは想像できますが、報告書の内容を支持する研究に資金は出ても、これに反するような研究にほとんど資金が出ないことは、おそらく本当の話なのでしょうから、研究資金の流れ具合から報告書の真偽に疑いを持つのは当然の話であって、「疑うことはおかしい」という沖教授の反論には説得力がないと思いますので、反論するなら別の方法が必要ではないでしょうか。

●科学は政策に中立か

p118では、次のように書かれています。

科学は中立であって、政策決定に関連がある分野であっても、意思決定には優先順位づけや損得勘定に価値判断が入らざるをえないので、科学者、研究者が特定の施策を推奨できるわけではないし、するべきではない

とは言いながら、沖教授は二酸化炭素の排出を削減すべきだという特定の施策を推奨していないでしょうか。政策の選択肢を示しているだけと言えるのでしょうか。

そもそも政策決定に関連がある分野の科学において、中立の立場などあり得るのでしょうか。

虫明功臣(むしあけかつみ)・東京大学名誉教授は、一般財団法人日本ダム協会のインタビューで八ツ場ダムは必要不可欠だと主張しています。

高橋裕(たかはしゆたか)・東京大学名誉教授も八ツ場ダムの必要論を説いているようです(山岡淳一郎「インフラの呪縛---公共事業はなぜ迷走するのか」2014年、p215)。

沖教授の考え方によると、虫明氏や高橋氏は、科学者ではないということでしょうか。

沖教授も一般財団法人日本ダム協会からのインタビューで「ダムは造りすぎではない」と話されています。もっと造るべきだという意味ではないでしょうか。

その一方で、徳山ダムの貯留水を使うための導水路建設事業について沖教授は次のように書いています。

徳山ダムからの水を揖斐川から木曽川へとトンネル水路で運び、名古屋市が利用できるようにする木曽川導水路への強い反対があって整備のめどが立たないこともあり、異常渇水対策として利用することができない現状である。家を建築していて途中でやめるようなもので、当初の意図通り利用されないのはもったいない話であるが、環境、あるいは財政的な理由で、途中でやめる方がいいと総体的に判断されるのであれば、途中で撤退する勇気もまた必要なのであろう。(p188)

両論併記で、継続しろと言っているのか、中止しろと言っているのかよく分からないのですが、いずれにせよ、特定の施策を推奨することになるのではないでしょうか。

●異常渇水対策を持ち出したら中止すべきダムはなくなる

ちなみに、徳山ダムの問題については、「木曽川導水路への強い反対があって整備のめどが立たない」とサラッと書かれていますが、890億円もする環境破壊事業である木曽川水系連絡導水路事業になぜ強い反対運動があるのかを考えていただけないでしょうか。

徳山ダムは、1973年当初の開発水量は15.5m3/秒でしたが、2004年の計画変更で、不思議なことにダムの規模(総貯水容量)は変えずに、開発水量を6.6m3/秒にまで減らしました。

それでもなお2008年の完成後も参画団体では水余りで、徳山ダムによる開発水を一滴も使わなくてもだれも困っていません。

沖教授は、参画団体が水余りの状況でも「異常渇水対策として利用」すればいいじゃないかというお考えのようですが、「異常渇水対策として利用」するという理屈をつければ、この世の中に必要でないダムなんて存在しないことにならないでしょうか。

無駄な利水ダムはあり得ないという前提でダムを造り続けてもいいのでしょうか。

沖教授は、木曽川水系連絡導水路事業を中止する理由として環境と財政の問題を想定していますが、そこには、本当は異常渇水対策として必要なのだが、という思いが込められていると思います。

気候変動問題に詳しい沖教授が異常渇水を心配される気持ちは分かりますが、いざというときに備えて超高額の保険料を払っておくべきだという考え方は妥当なのかは疑問です。「低廉」もまた水道法の要請であり、水道料金がいくら高くなってもいいというものではないからです。

なお、「当初の意図通り利用されないのはもったいない」の「当初の意図」の意味は異常渇水対策のように読めてしまうのですが、徳山ダムの「当初の意図」は、異常渇水対策ではなかったはずです。

●核発電所の設置について政策を推奨していないか

原発については、「これからは例えば30キロ圏内には関係者以外人が居ないような場所でないと造らないとか、そういう計画にすべきでしょう。」と話されています。これも政策に関する提言をされているのではないでしょうか。

沖教授は、国の様々な審議会や委員会で座長や委員として活躍されていますが、そのことは特定の政策を推奨していることにはならないのでしょうか。

地球温暖化を抑制するために二酸化炭素の排出を削減すべきだと言っている学者は、科学者ではないということでしょうか。

●食料を輸入に頼ってよいのか

p168には、次のように書かれています。

エネルギーが輸入されなければ化学肥料もできず、農機具も動かず、人手で作った農作物も輸送することがほとんどできない。輸入できない事態を想定して食料自給率を上げる努力をするよりも、輸入できない事態に陥らないように経済力を維持し、国際社会の中で孤立しないように努力する方が現実的であると思う

沖教授の考え方は、過去記事「県議のダム推進論に説得力はあるか」に書いたように、経済学者の野口悠紀雄氏の「そもそも現代日本農業では原油が絶対的に必要であり、エネルギー自給率が4%しかないのに、カロリーベースの自給率に政策的な意味など持ち得ない」とする考え方と似ており、一理あります。

この考え方は、日本の農業が石油なしには経営できない以上、「自給」の食料生産など意味がないというものと言っていいと思います。

しかし、石油は輸入できるが食料が輸入できないという事態も考えられるのですから、石油は今までどおり輸入するが食料の輸入依存率を低めるという政策にも意味があると思います。

石油の輸入に頼った食料自給など「自給」と呼ぶに値しないというのであれば、他の言葉を探せばいいだけであり、この際、言葉の問題は重要ではないと思います。

沖教授は、食料の多くを輸入に依存しても構わないという意見を持っているとしたら問題だと思います。

沖教授の上記考えは、「戦争を想定して軍備を増強するよりも、戦争にならないように外交努力をすべきである」という考え方と似ており、魅力的な考え方ですが、食料の特殊事情を考慮していないように思います。

食料の多くを輸入に頼っても構わないという考え方で国民の命を守れるのでしょうか。現在の輸入食料への依存度が高すぎるかどうかは議論の分かれるとことですが、少なくとも、今以上に依存度を高めることは危険だと思います。

確かに食料問題では、飢え死にする国民が出ないように量の確保が重要ですが、質の問題も重視しないと国民の命は守れないのではないでしょうか。

例えば、アメリカでは、日本では禁止されている国内消費用の農産物についてのポストハーベストが認められています。安全性が確立しているとは言えない遺伝子組み換え作物が当たり前に流通しています。そんな国の農産物を日本国民が食べて健康が守れるでしょうか。

TPPによって今後食料の輸入が増えると思いますが、食料の輸入を増やすということは、食品の安全基準の引下げを迫られるということにならないでしょうか。

沖教授は、食料自給率の問題を量の問題だけで考えておられないでしょうか。

TPPによって、今後、食料の輸入が増えて、食の安全を守る規制や基準が緩和される可能性がある現在、「食料の輸入は別に問題ないんじゃないの。ていうか、エネルギーの自給が日本では不可能である以上、食料の自給なんて考えたってナンセンスだ」と受け取られるようなことを書かれるのは問題ではないでしょうか。

食料の問題は、質の問題を含めて総合的に考えることが必要ではないでしょうか。

●治水ダムが被害を増すことはないのか

p174の「洪水中には貯水池に流入してくる量を超えて放流することは基本的にないので、貯水池から放流される水量はダムがなくても自然状態で下流に流れていたであろう水量なのである。」に続く記述は、要するに、治水ダムは、想定外の洪水の流入によりその機能を失ったとしても、川はダムがないときの状態に戻るだけであって、ダムがあったためにかえって水害が大きくなるということはないにもかかわらず、ダム管理者がそのような批判を受けることがあるのは、誤解に基づくものであるという趣旨と理解してよいと思います。

しかし、ダムの上流では河床が上昇し、水害の危険性が増します。

1959年に市房ダムが完成するまでは約30分間に1.5mも水位が上昇することはなかったと言っている球磨川流域住民がいます(天野礼子「だめダムが水害をつくる!?」p28)。要するに、ダムで水害が悪化したと言っているわけですが、思い過ごしだ、ダムへの逆恨みだと切り捨ててよいものでしょうか。

また、ダムの管理にミスがあった場合には、ダムがない場合以上に放流してしまうことが考えられるので、治水ダムはプラスになることはあってもマイナスになることはないという理屈は成り立たないと思います。

●治水ダムの必要性を裏付ける事実を提示していない

沖教授は、治水ダムへの住民感情を非難している(p174)ことから、治水ダムは、環境や財政の面からの制約はあるものの、効果はあるのだから、今後も建設を続けることに問題はないという立場なのだと思います。

しかし、沖教授は、治水ダムが今後も必要であることを裏付ける事実を提示していません。 2013年9月25日付け朝日新聞「(インタビュー)豪雨の時代に 東京大学生産技術研究所教授・沖大幹さん」で次のように語っています。

「短時間の豪雨の増加で水害リスクは高まっています。日本の下水道は、基本的に1時間50ミリの雨が降っても氾濫(はんらん)しないように、という目標で設計されています。しかし最近では、1時間に100ミリを超える雨が珍しくありません。降る範囲は狭くても、降った場所ではどうしてもあふれざるをえない」
「9月4日に東海地方で豪雨があり、名古屋市で浸水が起きました。驚きだったのは、繁華街の栄でも浸水したことです。普通、浸水するのは周囲に比べて低い場所ですが、栄は台地とは言わないまでも、相対的に高い地域なんです。そこでも短時間に強い雨が降り続けると、排水が追いつかなくなって一時的に水がたまってしまう。低いところの浸水は、地下河川や貯水池を造るなどの対処がなされていますが、栄のような比較的高い場所での浸水は想定されていませんでした」

要するに、水害リスクは高まっているものの、その内容は、集中豪雨による内水氾濫被害ですから、ダムで防げるものではありません。

治水ダムが必要であるという結論と理由がずれていないでしょうか。

●ダムの寿命は何年か

p178には、次のように書かれています。

コンクリートダムにせよ、フィルダムにせよ、ダム本体は時間を経てより安定すると考えられているので、堆砂の問題が解決できればダム貯水池は持続可能になり得る。

「持続可能」とは、具体的に何年を意味するのでしょうか。

沖教授も調査に行かれた藤沼ダム(福島県須賀川市)は2011年3月11日に決壊しました。ダムの寿命が永久的とは言えないのではないでしょうか。また、ダムはコンクリートだけでできているわけではありません。

香川県の満濃池は、1200年以上も前からあることをもってダムは半永久的に使えると言う人がいますが、満濃池はため池であり、ダムとして一般化するには無理があると思いますが、いかがでしょうか。

「堆砂の問題が解決できればダム貯水池は持続可能になり得る。」は、「核廃棄物の処分方法や無毒化する方法が見つかれば、原子力発電は利用すべきである」という考え方と似ており、仮定の話は言っても仕方がないことではないでしょうか。

放射能の無毒化や核廃棄物の安全な保管場所の確保は不可能と考えるべきだと思います。将来起きるかもしれない弊害は、科学の進歩によって解決されるかもしれないという仮定の下に物事を進めることが許されるならば、どれほど無責任な問題の先送りも許されることになってしまいます。

ダムの堆砂の問題も容易に解決できないと思います。

現実性のない仮定を立てて考えてみることも時には必要でしょうが、「堆砂の問題が解決できれば」という現実性のない仮定をして、今後もダムを造り続けることを容認する姿勢は、無責任と受け取られるおそれはないでしょうか。

出し平ダムのように排砂ゲートを設ければ、堆砂の問題が解決するとは思えません。排砂ゲートが決定打ならば、なぜその後のダムは追随しなかったのでしょうか。

●ダム反対は感情論か

p179には、次のように書かれています。

これ以上の安全、安心を求めるのは費用の無駄、という主張が出るのはむしろ健全である。(ダム反対派が掲げる根拠である)人権→環境→財政の問題というのはある意味では表層であり、とにかくダムは許せない、という根源的な嫌悪感にもダム反対運動は支えられているような気がする。

沖教授は、会議場で裸になるような、一部の特異な反ダム活動家を見て、ダムに反対する人たちに対して偏見を持たれているのではないでしょうか。

大熊孝・新潟大学名誉教授は、「川とは、地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である。」と定義し、したがって、「ダムは川の物質循環を遮断する物であり、川にとって基本的に敵対物でしかない。」と言います。
http://niigata-mizubenokai.org/2008/0301100402.html

沖教授は、このような考え方を持つ大熊名誉教授を「とにかくダムは許せない、という根源的な嫌悪感」を持っている人だと思われるでしょうか。

「川とは、地球における物質循環の重要な担い手である」という認識を持つならば、ダムは物質循環を妨げるものであり、原則的には造ってはいけないものということになるのは論理必然的な結論ではないでしょうか。

沖教授は、「川とは、地球における物質循環の重要な担い手である」という考え方をどう思われますか。

沖教授は、川をどのように定義されるのでしょうか。

沖教授は、「川は水だけを運んでいるわけではない。川は土砂、そして栄養素を山から海へと運んでいるのである。人工的な貯水池が問題なのは水没地、住民移転や環境影響だけではなく、そうした土砂や栄養素の循環を断ち切る点にもある。ダム貯水池に土砂が貯まるのは自然の循環を改変した当然の副作用であり、その分河口から海岸へと供給される土砂が減って河口や海岸が決壊し、砂浜が後退するといった事態をもたらす。」(p216)と書かれているのですから、大熊名誉教授の考え方にご賛同いただけるのではないでしょうか。

そして、そうした考え方は、論理的なものであり、嫌悪感とは違うのではないでしょうか。

ダム反対派の多くは、すべてのダムに反対しているのではなく、ダムを建設する合理的な理由が示されれば賛成する立場だと思います。

しかし、多くのダムについて行政は、環境と財政と地域社会を犠牲にしてまでダムを建設しなければならない合理的な理由を示してきませんでした。

ほとんどのダムでは、過大な水需要予測と過大な基本高水流量と過大な費用便益分析を建設の根拠としてきたことを沖教授はご存知でしょうか。

自治体が過大な水需要予測を捏造し、ダム使用権を取得しても、実際に使用しない例がどれだけあるか、沖教授はご存知でしょうか。

沖教授は、八ツ場ダム訴訟において両当事者から提出された準備書面等を読み比べたことがおありでしょうか。国(調査嘱託書で)や都県側の主張の方が、「とにかくダムを造りたい、造らせたい」という感情論と言えないでしょうか。

沖教授は、「余計なモノを作ると、後々まで祟る、という可能性も高く、何でも作っておけばいいというわけではない。」(p177)、「これ以上の安全、安心を求めるのは費用の無駄、という主張が出るのはむしろ健全である。」(p179)という言い訳を用意しながらも、ダム反対派は感情論という印象を持っているし、日本ダム協会のインタビューには、ダムは造り過ぎではないと言っているのですから、レッテルはりはやめろと言われるかもしれませんが、そして「科学者は政策に中立なのだ」と言われるかもしれませんが、基本的な立ち位置はダム推進なのだと思います。

川が物質を循環させ生態系をはぐくんできたこと、ダムが川の物質循環機能を阻害するものであること、実際に、ダムによって清流がどぶ川に変わり果ててしまう現実があることを考えれば、反対派の言う「ダムは川殺し」という修辞も的外れとは言えず、直感的に嫌悪感を持つのはむしろ当然ではないでしょうか。

私は、ダムに嫌悪感を抱かない政治家や若きダムマニアの存在に危機感を覚えるのですが、沖教授はどう思われているのでしょうか。

●スタンスを示すべきだ

水のノーベル賞「ストックホルム水大賞」を2006年に受賞したアシッド・ビスワス博士という人がいるそうで、沖教授が「「ダムはいいのか、悪いのか」と単刀直入に聞いたところ、「良いダムと悪いダムがある」と答えた。」(p179)そうです。

「中山幹康先生(東京大学新領域創成科学研究科)も同じようにおっしゃっているので、ダム問題の専門家の答え、あるいは「はぐらかし」としては一般的なのだろう。」(p179〜189)と書かれています。

「良いダムと悪いダムがある」のは当たり前なので、両氏の答は、答になっていないので、「はぐらかし」という評価は正当だと思います。

「良いダムと悪いダムがある」は、なぜ「はぐらかし」なのかと言えば、「ダムはいいのか、悪いのか」という問いは、一般論・原則論を聞いているのに対し、ビスワス博士や中山氏は、個別のダムの問題にすり替えているからだと思います。

しかし、沖教授も「水危機 ほんとうの話」では両論併記であり、「はぐらかし」ておられると思います。

沖教授は、両氏の答を「はぐらかし」と呼ぶなら、自身のダムに対する立ち位置を明示すべきだったと思います。

●ダムを住民投票で決めてはいけないのか

p225には、次のように書かれています。

リスクに対する人の考えはそれぞれである。だからといって、他人に影響を及ぼす可能性のある危険性をどう社会として管理していくのかについて、多数決で決めて良いとも限らない。

ここで「多数決」とは、議会がダム関連の予算を承認するようなことではなく、イタリアで国民投票によって脱原発を決めたようなことを指すものと解釈します。

日本では、原子力発電については、国民の選出した国会議員が法律を決め、予算を承認してきたという意味では多数決で決めてきたのですが、原発の是非について本当に民意を問われたことは一度もありません。

ダムも原発も「専門家がその時点の最新の科学的・客観的知見に基づいて中立的に正当な判断を下せるとも限らない。」(p225)ことを認められるのであれば、多数決で決めて良いのではないでしょうか。

ダムや原発の問題を、なぜ、「多数決で決めて良いとも限らない。」のでしょうか。

2000年に吉野川可動堰については住民投票が行われましたが、沖教授は、住民投票で建設の是非を決めることは誤りであるというご意見でしょうか。

沖教授は、国民投票もダメ、専門家が決めるのもダメ、というお考えのようですが、では、だれがどう判断すればよいとお考えでしょうか。

沖教授は、後記ダムネットのインタビューでダム事業を中止するにはコンセンサスが必要だと言われていますが、リスク管理の問題は「多数決で決めて良いとも限らない。」とは矛盾しないのでしょうか。

●行政は企業を統制できるか

p242〜243には、次のように書かれています。

もし不当に高い水道価格が設定され、支払い能力のない人々が安価な水へのアクセスを剥奪されて困窮するような事態になるのであれば、それはその企業と共に、うまく統制できない行政にも問題があるのだ。

大事なことは、水事業を担うのが官だろうが民だろうが、それらが適正なコストで良質なサービスを提供するように、地方自治体がきちんと監理する能力を持っていることである。民営化で問題になったケースでは、発注側の統治能力が不十分で民間事業者に丸投げ、あるいは任せっきり、という例が多い。これは何も水事業に限らず、電力やガスなどのエネルギー、鉄道や道路などの交通、電話やインターネットなどの通信事業など、地域独占的な公共サービスすべてにあてはまることだろう。

行政がしっかり仕事をすれば民営化しても問題ないという考え方は、理論的には正しいのだと思います。しかし、机上の議論ではないでしょうか。

行政がしっかりと仕事をできない事情を考える必要があるのではないでしょうか。

2012年7月5日、東京電力福島第1原子力発電所の事故に関する国会の東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(いわゆる「国会事故調」)が原発に関する情報や専門性で優位に立つ東電に当局が取り込まれ「監視・監督機能が崩壊していた」、「規制当局は電力事業者の『虜(とりこ)』となっていた」と指摘しました。この「規制の虜」論に学ぶべきではないでしょうか。

推測ですが、水道事業者は、今でさえ水道業界の言いなりになっている可能性があります。

水道を民営化すれば、規制の虜になるのではないでしょうか。

鉄道の民営化はよくて水道がなぜダメなのかという疑問は、理論としてはもっともです。鉄道が公営でなければいけないと言う人はいないでしょう。

しかし、水道については、下記のとおりヨーロッパでは失敗しているのですから、民営化には慎重になるべきではないでしょうか。

電気についても、福島の事故で民営では、会社が高コストで危険な発電方法を採用した場合にユーザーがチェックできず、挙げ句大事故を起こして社会に大損害を与えたのですから、失敗です。

理由は明快に説明できなくても、過去や他者の経験に学ぶということも大切ではないでしょうか。

●民は効率がよいか。そもそもだれのための効率なのか。

p242には、次のように書かれています。

民は、官を上回る効率で業務をこなすことによってはじめて、官と同様の価格でも追加的な利益を得るのである。

この命題は正しいでしょうか。

民は、商品の値上げや業務の質を低下させることによって利益を得る可能性もあると思います。

民は、労働者条件の引下げによって利益を生み出す可能性もあります。

したがって、「民は、官を上回る効率で業務をこなす」とは限らないと思います。

役所の仕事がなぜ非効率と言われるのかと言えば、業務が独占だからではないでしょうか。

独占の事業では、競争も倒産もないのですから、官が担おうが、民が担おうが、効率化の努力を怠りがちになることは当然だと思います。そうであれば、消費者が情報公開制度を利用して独占企業を有効にチェックできる公営の方がましということにならないでしょうか。

そもそも競争も倒産もない企業を「民間企業」の定義に含めるべきではないと思います。

東京電力株式会社は民間企業ですが、総括原価方式に守られて殿様商売とも言うべき非効率な経営をやっていたと思います。そして、世界中を汚染する大事故を起こしても倒産しないのですから、民間企業とは呼ぶべきではないと思います。

仮に東電が効率的な経営をしているとしても、上がった利益は株主と役員報酬と社員の給与や保養所の建設・運営などの福利施設に充実に回ってしまい、ユーザーに還元されたのか疑問です。下記サイトによれば、東電大卒社員の給与は、50歳で年収1200万円、健康保険料は会社が7割負担、社内定期預金の利息が年利8.5%というのですから、東電の経営は放漫経営と言えないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/nnnhhhkkk/archives/65730699.html

沖教授は、効率を問題にされますが、水道においては、「効率化はだれのためか」という問題も考える必要があるのではないでしょうか。

「民が担えば多少は効率よく、サービスが良くなるのではないだろうか。」(P242)は、水道事業が独占であることを考慮すれば、幻想ではないでしょうか。

水環境の保全や水道事業等などについて提言活動を行うNPO「水政策研究所」の辻谷貴文事務局長は、大阪市の水道民営化計画について次のように言っています。

http://nikkan-spa.jp/64508

橋下徹市長は“民営化さえすれば全てはバラ色”と考えているようですが、失敗に終わる可能性が高いでしょう。そもそも水道事業というのは、インフラの維持管理などに手間やコストがかかるわりに利益は少なく、事業としては儲かりにくいものなんです。大阪市水道局はすでに民間以上にコストカットを進めています。民営化してもコスト削減が劇的に進むわけではなく、むしろ株主配当や役員報酬などのムダなコストが増え、結果としてサービスの低下を招く可能性があります。一足先に民営化が進んでいた外国の自治体では、再公営化の動きが顕著になってきています。そうなれば、民営化に税金を使い、再公営化でまた税金を使うということになってしまいます

また、災害時の対応も課題です。阪神淡路大震災のときには、各自治体から兵庫県へ職員が派遣され、水の供給に尽力しました。このように公と公の連携は瞬発的にできますが、公と民となった場合、費用や労災発生時の対応などについて、相互の取り決めが事前に必要となってきます。結果として、被災地への対応に遅れが生じます。また、利益を追求する民間会社の社員という立場と、公のために働く公務員という立場では、いざというときのモチベーションも違うと思われます

災害時には、他の自治体との相互協力も必要ですし、人海戦術が必要となることが多いと思われます。

したがって、特に災害時の対応を考えたら、水道は官が担うことが危機管理上必要ではないでしょうか。

●水道民営化は欧州では失敗している

p243には、次のように書かれています。

貪欲な民間と非効率な役所、どちらがより適正な価格でより良いサービスをしてくれるか、という観点から判断するしかない。

その考え方には賛成します。そしてその答は既に出ているのではないでしょうか。

ヨーロッパでは、水道事業の民営化に失敗していることをご存知でしょうか。

2010年にはパリで、2013年にはベルリンで、水道事業を再公営化したように、ヨーロッパでは水道の民営から再公営化へと動き始めているようです(2014年6月20日付けしんぶん赤旗での近畿水問題合同研究会理事長の仲上健一・立命館大学特任教授の談話)。

アメリカのジョージア州のアトランタでも水道民営化は失敗したようです。

水道の民営化がうまくいくという幻想は持たない方がよいのではないでしょうか。

●食べ物の供給は独占事業ではない

p243には、次のように書かれています。

水は命に直結し、口にするものだから特別だ、という意見も聞く。しかし、我々の食べ物の供給はすべて民が担っている。それなのに、水だけは民ではなく、官に担ってもらった方がいい気がする、というのは水の七不思議の一つである。

要するに、命に直結する食料がすべて民営なのだから、命に直結する水道も民営でいいじゃないかということです。

しかし、食料は多様であり、すべてを独占して供給することは物理的に不可能ですが、水道は地域独占事業です。

「独占」に着目すれば、食料も水道も同じという理屈は成り立たないと思います。

したがって、食料と水道の供給形態は異なって当然だと考えることは、七不思議ではないと思います。

(議論の混乱を避けるために書きますが、ここで沖教授が「水」と書いているのは、水道の意味と解釈します。ペットボトル水を公営にしろという説は聞いたことがありませんので。)

●食べ物の供給はすべて民が担っているか

「我々の食べ物の供給はすべて民が担っている。」という見方に疑問があります。

2014年7月5日付け東京新聞によると、愛知県の農業経営者小林良夫氏は、2013年中の農作物売上げが5800万円だったのに対し、8200万円の補助金を受けたと言います。小林氏は、自分たちは「半分公務員だなあ」とこぼしているそうです。

また、東京財団というサイトの「TPPと日本農業」というページの原田泰氏の記述によると、年度不明ですが、日本の農業総生産額は5.3兆円で、そこに2.3兆円の補助金と1.9兆円の価格維持のための補助という税金が投入されているとのことです。

食料は、人の命を支える重要な商品だから多額の税金が使われているのではないでしょうか。なお、原子力発電にも研究開発費などに莫大な税金が使われていることについては、さよなら原発神戸ネットワークの「原発の隠された費用〜その2〜」をご覧ください。

したがって、「我々の食べ物の供給はすべて民が担っている。」とも言えないのではないでしょうか。そして、電力も民が担っているとは言えないのではないでしょうか。

●独占の弊害を考慮すべきではないのか

私は、水道と違い、食料の供給は独占ではないと書きましたが、小都市では、巨大スーパーマーケットが1店だけあって、まちの八百屋や駄菓子屋なんて1軒もないということも想定できます。

食料の小売については、既に独占に近い形態が生じていると考えるべきであり、そうだとすれば、食料が独占的に供給されることの弊害も考える必要があると思います。

沖教授の説は、日本は資本主義経済体制なのだから、命に直結する食料も水道も市場原理に任せるのが自然なのだということなのかもしれません。

確かに資本主義経済体制の下では、公営企業は例外であるべきであり、民が担える事業を官が担うべきではない、少なくとも官が担う必要はない、という考え方には一理ありますが、競争とも倒産とも無縁な独占民間企業というモンスターを産み出すことは不公平であり、資本主義にとって健全とは言えないのではないでしょうか。

独占民間企業をすべて公営に戻すべきだとは思いませんが、私的独占の弊害については十分配慮すべきではないでしょうか。

食べ物の供給を民が担っているから水道も民営でおかしくないという考え方には飛躍がないでしょうか。

●善悪に正誤はない

p264には、次のように書かれています。

地球温暖化に伴う気候変動の影響が取り沙汰され始めた1990年代前半、私は悩んでいた。省エネルギーも大事だが、ヒトは現代社会に生きている限り、大量のエネルギーを消費する。小手先の省エネで温室効果ガスの排出を削減するのには限界があり、いっそ、死んでしまった方がましなのではないか、と思いつめていたのである。
(中略)
「手段の目的化に注意」
本来は人類が幸せに暮らすという目的達成の(ための手段の)ひとつとして地球環境の保全という手段があるのに、主客転倒して人類が滅んでしまっては元も子もない、ということである。

ここは理解できませんでした。

沖教授が悩みから解放されたことは、「手段の目的化」とは関係のない話ではないでしょうか。

善悪の問題と正誤の問題の混同はないでしょうか。

世の中には、A説「豊かな生態系は、人類の存在を抜きにして、それ自体が尊い」という考え方とB説「豊かな生態系は、それを認識して享受する人類が存在してこそ尊い」という考え方があり得ます。

人間優先と考えるか、生態系優先と考えるかは、人それぞれであり、正解のある話ではないと思います。

沖教授が1990年代に「いっそ、死んでしまった方がましなのでは」と悩まれたのは、そのどちらの考え方を採るべきか分からなかったということであり、最近その悩みが解消したのは、後者の考え方=人間中心主義を採るべきであると割り切って考えるようになったという話にすぎないと思います。

「主義」とは、「(1)守って変えない一定の主張・方針・立場。(2)継続してもっている思想上の立場・理論。」(日本語大辞典)ですから、主観の問題であり、正しいとか誤りとかの評価の対象ではないと思います。

「人間社会に貢献するからこそ生態系の保全は重要である、という人間中心主義」(p265)の立場が正しいことを前提とするからこそ、「生物多様性の保全は絶対善である」というような考え方は、手段を目的化する誤りを犯すものだと評価することが可能になるのだと思います。

しかし、A説とB説は、「主義」であり、宗教みたいなものですから、どちらが正しいかを証明することは不可能な問題だと思います。

「地球環境を守るためには人類は早く滅亡した方がいい」と考える人に対して、あなたは「手段の目的化という誤りを犯している」(p272)と諭すことに説得力はないと思います。

要するに、問題の本質は、世の中には理論を超えた次元で相容れない様々な価値観があるということにすぎないのに、「手段の目的化」という問題に論点がずれてしまっているのではないかということです。なぜずれたのかと言えば、沖教授がB説(人間中心主義)を採用することを決め、B説が人類普遍の正しい共通認識であるかのような前提を置いているからではないでしょうか。

「人類が幸せに暮らすという目的」(p272)は、多くの人の共通認識だとは思いますが、ある人にとっては自明ではなく、絶対善とも言えないと思います。逆に、「人殺し」も絶対悪ではないと思います。日本に死刑制度があるのは、人殺しは相対悪、必要悪と多数派が考えているからだと思います。要するに、善悪は多数決の問題だと思います。

「人類が幸せに暮らす」とか「人を殺してはいけない」とか民主主義とか男女平等などの価値観は、たまたま多数の人が支持しているから正しいように思えるだけであり、それらの価値観を支持しない人たちを論理で説得することは不可能なのですから、正しいとか間違っているという次元の問題ではないことを認識すべきではないでしょうか。

また、「科学は中立」(p118)だと言いながら、人間中心主義が正しいことを前提として、そうでない考え方が手段を目的化するものであり、誤りであると言うことは矛盾しないでしょうか。

科学が中立ならば、地球の生態系は人類の生存よりも重いとする価値観に科学者は干渉できないはずではないでしょうか。

●内水氾濫対策が書かれていない

本書に書かれていないことにも疑問があります。

治水と言えば内水氾濫対策が重要ですが、本書に書かれていないのはなぜでしょうか。

2013年9月25日付け朝日新聞「(インタビュー)豪雨の時代に 東京大学生産技術研究所教授・沖大幹さん」では、対策については明示されていませんが、内水氾濫については語っておられました。

●ウナギはなぜ減ったのか

この問題も本書に書かれていないことです。

沖教授は、地球温暖化という環境問題に詳しい方で、環境問題の専門家とも言える方です。

川を単なる水路としてしか見ないという立場でない以上、1970年代から減少しているニホンウナギが2014年6月中旬、IUCN(国際自然保護連合)で絶滅危惧種に指定されたことは「水危機」だと思います。川の環境問題は本書の目的とは外れるかもしれませんが、沖教授のニホンウナギの生息数の減少についての見解をお聞きしたいところです。

それとも、沖教授は、ウナギの減少の問題については関心がないのでしょうか。

●水危機の視点が新水道ビジョンとはなぜ違うのか

利水について、沖教授と新水道ビジョンではとらえ方が違うように思います。

新水道ビジョンでは、日本の水道の大問題は、人口減少社会への対応と震災対策であるとしています。つまり、今後人口が減少し、水道料金の収入も減少していくことは確実に予想されるから、老朽化による更新需要に対応しながら、現在保有する施設の規模をスムーズに縮小していくこと、及び東日本大震災のような地震災害が起きても被害を最小限にとどめるような施策を講じることが課題であるとしています。

ところが「水危機 ほんとうの話」ではそうした視点はなく、徳山ダムについても、導水管がないために、名古屋市が異常渇水対策として利用できないことは「もったいない」と書いてみたり、「撤退する勇気もまた必要」と書いてみたりで、両論併記になっており、新水道ビジョンのいう事業の「ダウンサイジング」という発想は見られません。

沖教授は、新水道ビジョンの執筆者ではないのですから、水危機に対する視点が異なるのは当然ですが、あまりにも異なることが気になります。

●水資源開発促進法の使命は終わったのではないか

これも本書に書かれていないことですが、「産業の開発又は発展及び都市人口の増加に伴い用水を必要とする地域」が日本のどこにも存在しないにもかかわらず、水資源開発促進法を適用し続け、水源開発施設の建設を続けることが許されるのかということが重要な問題だと思いますが、本書で触れていないのはなぜでしょうか。

日本の水危機を水資源開発促進法の役割論を抜きにして語れるのでしょうか。

「産業の開発又は発展及び都市人口の増加に伴い用水を必要とする地域」が日本のどこにも存在しない以上、水資源開発促進法は廃止するのが筋ではないでしょうか。

異常気象による異常渇水に備えるために水源開発施設が必要だというなら、少なくとも法改正が必要ではないでしょうか。

(文責:事務局)
文中意見にわたる部分は、著者の個人的な意見であり、当協議会の意見ではありません。
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