新幹線と核発電所は違う

2014年6月18日

●関西電力大飯原子力発電所再稼働に関する福井地裁判決は歴史に残る名判決

私は、特定秘密保護法を廃止させよう(その2)で「裁判官には、憲法原理よりも出世を優先させる人が多いと思われますし、ダムや核発電を巡る訴訟を見ても、裁判所がその役割を果たしているとは思えない現状がある」と書きましたが、状況が変わってきたのかもしれません。

2013年5月22日付け読売新聞記事の一部を引用します。

運転停止中の関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)の安全対策が不十分などとして、福井や大阪など22都道府県の189人が関電を相手に運転再開の差し止めを求めた訴訟で、福井地裁は21日、差し止めを命じる判決を言い渡した。樋口英明裁判長は「地震の揺れの想定が楽観的で、安全技術や設備は脆弱(ぜいじゃく)」とし、大飯原発の半径250キロ以内に住む原告の訴えを認めた。2011年3月の東京電力福島第一原発事故後、原発差し止め訴訟の判決は初めて。関電は22日にも控訴する。

「全国の原発差し止め訴訟で、弁護団同士の連携を図っている脱原発弁護団全国連絡会共同代表の河合弘之弁護士(70)は、「42年弁護士をしているが、判決を聞いて泣いたのは初めて。輝かしい成果だ」と感慨深い様子で語った。」そうです。(2014年5月21日付け時事通信

樋口裁判長は1時間かけて判決要旨を読み上げて判決を言い渡したようです。ベテラン弁護士が判決文を聞いて初めて泣いたというのですから、今回の福井地裁の判決は名文であり、歴史に残る名判決なのだと思います。

小泉純一郎氏が「常識的な判決だ」と言ったように、判決はごく当然のことを言っているだけで、「王様は裸だ」と言ってしまった判決と言えるかもしれません。

瀬木比呂志「絶望の裁判所」(講談社現代新書)を読んだ直後だっただけに、こんな判決を書く裁判官がまだ日本にいたのかと思いました。多くの人が日本の司法はまだ捨てたものではないと思ったことでしょう。

判決全文と判決要旨は次のとおりです。

判決全文(原子力資料情報室のサイトからダウンロード可)

判決要旨(NJPというサイト)

この判決は、憲法原理を基本にすえて裁いているところがすばらしいと思います。

「どうせ上級審でひっくり返されるに違いない」と予想する人がいると思いますが、正論を説く判決を覆すことは難しいと思います。

名判決を書いた樋口裁判長たちを激励しようという運動がありますので、是非ご協力ください。

広瀬隆氏からの「福井地裁の樋口英明氏に激励の手紙を出そう」という提案です。私もはがきを書きました。

●厚木基地騒音訴訟との対比

憲法原理を基本にすえて裁いているかという点で対比されるのが横浜地裁(2013年5月21日)による厚木基地騒音第4次訴訟判決です。

5月21日付け産経が「自衛隊機の夜間飛行差し止め 厚木基地の第4次騒音訴訟で初判断 横浜地裁」と報じています。

「横浜地裁は自衛隊機の夜間・早朝の飛行差止めを全国で初めて」(5月31日付け東京)命じたのですから、画期的な判決なのですが、もともと「飛行する自衛隊機は音が小さい対戦哨戒機や救難飛行艇などで、夜間・早朝の飛行も海難救助などの緊急時を除いて自粛している。」(同)というのですから、差止めについては、判決のご利益はほとんどないようです。

横浜地裁が米軍機の飛行差止めについて却下したのは、1993年2月に第1次厚木基地訴訟などの判決で最高裁が示した「米軍が日本国内の基地を使用できる根拠となっている日米安保条約や関連する法律などに、米軍機の飛行を制限する定めがない以上、裁判所は判断をできない」という考え方に従ったものと見られます。

しかし、この最高裁の考え方は、憲法を条約や法律の下に置くものだと思います。

憲法と条約の効力の関係については、特殊な条約は別にして、普通の条約については憲法優位説が通説(山崎淑子の「生き抜く」ジャーナル!)であり、悪名高い砂川事件最高裁判決も条約の合憲性審査は一応は可能だと言っているのですから、条約に規定がないから司法が判断権を持たず、人権を守らなくていいという判断にはならないはずです。

健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法第25条)については、プログラム規定であり、この人権を実現するための具体的な法律(生活保護法など)がなければ、直接裁判所に訴えて実現することはできないとする説がありますが、夜静かに寝たいという権利は社会保障とは別の人権であり、条約や法律に規定がないと実現できないものではないはずです。

厚木基地は、米軍基地ではなく、アメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地であるにもかかわらず、横浜地裁は米軍について治外法権の考え方を持ち込んでいます。

このことについて上記瀬木比呂志氏は、「日本国内のことなのに裁判所が判断をしないのはおかしい。これでは、宗主国に逆らえない植民地と同じ」(上記東京記事)と言っています。

全くそのとおりです。日本がアメリカの植民地でなくなる日は来るのでしょうか。敗戦後69年も経つのに、日本の飛行機は、日本の上空を自由に飛ぶことができません。首都圏の空域の大部分は、未だにアメリカ軍の管理下にあります。横田基地を中心として広がっている在日米軍管理空域を避けて飛ぶために日本の航空機は大回りをしなければならず、そのために時間と燃料を浪費しています。時間的損失は140億円/年、燃料の損失は約11万キロリットル/年(羽田大阪間の燃料の約1年分)と言われています。詳しくは、真実を探すブログの【在日米軍不要】首都圏の空域は未だに米軍の管理下!民間機は入ることすら出来ない横田空域の危険性!を参照ください。

自由民主党と民主党が日米軍事同盟を安全保障の基盤と考え、多くの国民が両党を支持し続ける限り、アメリカによる植民地支配は終わらないのでしょう。

●なぜ住民側勝訴の判決が出たのか

福井地裁が住民側勝訴の判決を書いた理由は、いろいろ考えられます。

一つには、この事件が良い裁判官に当たったということです。

二つには、核発電所の問題については、裁判官だけが安全地帯にいることができないということです。核発電所で事故が起きれば、放射能の雲が裁判官の官舎にも襲いかかりますから、裁判官とその家族も放射能で死ぬ可能性があります。

したがって、福井地裁の裁判官は、住民側と立場を共通にしているということです。

つまり、2011年に福島の事故を経験して、裁判所が核発電所関係の訴訟で電力会社を常に勝たせていたら、裁判官の命が危うくなるという事情はあると思います。

このように書くと、樋口裁判長に失礼だとのおしかりを受けるかもしれません。

樋口判決の要旨を読むと、将来の世代への責任を深く認識した上で判断されており(判決要旨8)、自分や家族が死ぬのを恐れて書いたとは思えませんが、裁判官と原告の利害が一致する面があるということは客観的に見て言えると思います。

核発電所の過酷事故が日本で起きた現在、再稼働問題は、裁判官の生死だけでなく、人類の滅亡を意識せざるを得ない問題であることがこの差止訴訟の特徴だということです。

ちなみに、ダム訴訟においても、裁判官は、自分の払った税金が無駄に使われてしまうのですから、住民側と立場を共通にしているはずですが、仮にダムが決壊しても、常に裁判官官舎まで洪水で流されるわけでありません。命をとられるのと税金が無駄につかわれるのでは問題の次元が違います。ダム訴訟の場合は、裁判官が当事者意識を持ちにくいのが、ダム訴訟関係者にはつらいところです。

三つには、訴訟の種類が設置許可の取消訴訟ではなかったということです。

1992年に最高裁判決が出た伊方原発訴訟(ジュリストの解説参照)は、原子炉設置許可処分の取消しを求める訴訟でしたが、今回の訴訟は、人格権に基づき発電所の運転再開の差止めを求める訴訟です。

許可処分の取消訴訟という形の訴訟では、行政が決めた安全基準を満たしているかという技術的な問題でした。憲法違反も争点になりましたが、手続的保障の違反を問うものでした。

なお、福井地裁判決について「原告側は「画期的」と快哉(かいさい)を叫んだが、実は、北陸電力志賀原発2号機(石川県志賀町)の運転差し止めを認めた2006年の金沢地裁判決が最優先したのも人格権だった。」(2014年6月3日付け東京新聞「こちら特報部」。No Nukes 原発ゼロというサイトから)そうなので、結論だけを見れば、今回の判決が画期的ではなかったようですが、その金沢地裁判決を書いた井戸謙一裁判長(当時)が「われわれよりもさらに住民に寄り添い、表現を大胆にしている。行政の判断とは別に、司法は司法で判断するという姿勢を明確に打ち出した。今の憲法秩序からすれば、さまざまな権利の中でも人格権が最も優位というのは法律家の共通認識だが、ここまで判決で明言するのは珍しい」(2014年6月3日付け東京)と言っていますので、やはり画期的なのだと思います。

「これまで日本では、係争中の事件を含めて原発をめぐる行政訴訟が12例、民事差止訴訟が6例あり、実体判断が地裁、高裁、最高裁を含めて35回行われて いる。よく知られるように、このうち、原発の危険性を認めて原告側が勝訴した判決は、高速増殖炉もんじゅ設置許可無効確認訴訟の差戻し後の名古屋高裁 金沢支部判決(平成15年1月27日)と志賀原発2号機運転差止訴訟の金沢地裁 判決(平成18年3月24日)の2例しかない。しかも、この二つの判決も上級審で逆転敗訴となっている。」(椎名 愼太郎「原発訴訟から学ぶもの」2012年)そうです。

上記両判決は、福島の事故が起きる前に住民側勝訴の判決を出したのですから、世間の核発電所事故への関心が薄い中、左翼裁判官と批判されることを恐れず、今回の福井地裁判決の礎を築いたとも言える両判決を書いた川崎和夫元裁判官と井戸謙一元裁判官の勇気は称賛に値します。

●読売新聞社説のどこが間違っているのか

福島の事故があったことに懲りずに核発電を推進しようとする勢力は福井地裁判決をおとしめようと躍起になっています。

例えば、2014年5月22日付け読売新聞社説は、次のように主張します。

大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決

「ゼロリスク」に囚とらわれた、あまりに不合理な判決である。

定期検査のため停止している関西電力大飯原子力発電所3、4号機について、福井地裁が運転再開の差し止めを命じる判決を言い渡した。原発の周辺住民らの訴えを認めたものだ。

判決は、関電側が主張している大飯原発の安全対策について、「確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに成り立ち得る脆弱ぜいじゃくなもの」との見方を示し、具体的な危険があると判断した。

「福島第一原発の事故原因が確定できていない」ため、関電は、トラブル時に事態把握や適切な対応策がとれないことは「明らか」とも一方的に断じた。

 昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい。  
 
 判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは「仮説」であり、いくら大きな地震を想定しても、それを「超える地震が来ないという確たる根拠はない」と強調した点も、理解しがたい。  
 
 非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない。  
 
 大飯原発は、福島第一原発事故を受けて国内の全原発が停止した後、当時の野田首相の政治判断で2012年7月に再稼働した。順調に運転し、昨年9月からは定期検査に入っている。  
 
 関電は規制委に対し、大飯原発3、4号機が新規制基準に適合しているかどうかの審査を申請している。規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている。  
 
 別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。  
 
 規制委の安全審査が続いていることを考慮し、「その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」という理由からだ。常識的な判断である。  
 
 最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。  
 
 原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。各地で起こされた原発関連訴訟の判決には、最高裁の考え方が反映されてきた。  
 
 福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。関電は控訴する方針だ。上級審には合理的な判断を求めたい。  
 

過去記事読売新聞社説のどこが間違っているのかで紹介したように、読売新聞社は、八ツ場ダムに関する社説に次のように書いています。  

 ダム建設の反対派は、6都県が推計した将来の水需要は過大だとして、工事費の差し止めを求める訴訟を各地で起こしたが、敗訴が続いている。裁判所が、自治体側の言い分を認めているわけだ。  
 読売新聞社は、判決の中身も吟味せずに判決の結論だけを援用し、ダム事業を推進すべきだと主張していましたが、核発電に関して福井地裁が同社の気に入らない判決を出すと、「裁判所が、住民側の言い分を認めているわけだ。」とは書かずにこの判決を批判するのはご都合主義だと思います。  

結局、読売新聞社の方針は、ダムにせよ核発電所にせよ、事業促進なのであって、裁判所がどんな判決を出そうと関係ないはずなのに、自分に都合のよい判決が出ると、「虎の威を借る狐」となって判決を援用するというわけです。  

Wikipedia(詭弁)によれば、読売新聞社の主張は、「権威論証 (ad verecundiam)」に分類される詭弁です。  

「「ゼロリスク」に囚とらわれた、あまりに不合理な判決である。」については、「わら人形論法」と呼ばれる詭弁です。「わら人形論法」とは、「Aが主張していないことを自分の都合の良いように表現しなおし、さも主張しているかのように取り上げ論破することでAを論破したかのように見せかける。」論法です。  

確かに判決は、万一の場合にも万全の措置が必要だと言っていますが、常にゼロリスクを求めているのではありません。  

判決は、次のように言っています。  

 大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い。かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である。  
 
 新しい技術が潜在的に有する危険性を許さないとすれば社会の発展はなくなるから、新しい技術の有する危険性の性質やもたらす被害の大きさが明確でない場合には、その技術の実施の差止めの可否を裁判所において判断することは困難を極める。  
 しかし、技術の危険性の性質やそのもたらす被害の大きさが判明している場合には、技術の実施に当たっては危険の性質と被害の大きさに応じた安全性が求められることになるから、この安全性が保持されているかの判断をすればよいだけであり、危険性を一定程度容認しないと社会の発展が妨げられるのではないかといった葛藤が生じることはない。  
 原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。  
 

判決は、「技術の危険性の性質やそのもたらす被害の大きさが判明している場合には、技術の実施に当たっては危険の性質と被害の大きさに応じた安全性が求められることになる」と言っています。つまり、核発電の持つ危険性はあまりにも大きいのだから、極めて高度の安全性が求められるということです。核発電は、便益とリスクのバランスがとれていないという趣旨であることは明らかです。  

「新しい技術が潜在的に有する危険性を許さないとすれば社会の発展はなくなる」という考え方は、「許された危険」の法理と呼ばれています。この法理は、「社会生活上不可避的に存在する法益侵害の危険を伴う行為について、その社会的効用のゆえにその危険を法的に許容する、という法理」と定義されています(Memoranda for the Barというサイトから)。  

しかし、核発電による危険は、「許されざる危険」です。詳しくは、石井孝明氏へのコメントで。  

福井地裁判決が伊方原発訴訟最高裁判決に違反するという読売社説の主張については、上記のように両訴訟は、訴訟類型が違うこと、及び伊方の判決は1992年に出た判決であり、2011年の福島の事故を経験していないことを無視していることという点で間違っていると思います。  

伊方の判決について山田洋・一橋大学法学研究科教授は、「要するに、原子炉の安全性審査に関しては、将来の予測をも含む専門技術的な総合的判断を要すること、さらに、これを制度的に裏付けるものとして原子力委員会(現在は原子力安全委員会)の意見の尊重が法定されていることから、これについて裁判所が独自の立場から判断を下すこと(実体的判断代置方式)は法の趣旨に反し、不適切であるとするわけである。」(上記ジュリスト解説p46。委員会の名称は執筆当時のもの)と解説しています。  

しかし、福島の事故によって、事故による被害は甚大であり、専門家に任せておいたら裁判官の命さえ危険にさらされることが明らかになったのですから、状況は大きく変わったのであり、裁判所が今なお「裁判所が独自の立場から判断を下すこと(実体的判断代置方式)は法の趣旨に反し、不適切である」と考えているかは疑問です。  

福島の事故は、伊方原発訴訟最高裁判決の「原子炉の安全性審査に関しては、専門家に任せておけばいいし、任せるしかない」という考え方が誤りであったことを証明したのであり、最高裁判例は変更される可能性が大いにあります。  

最高裁は、「原子力委員会(現在は原子力安全委員会)の意見の尊重が法定されていること」を強調していますが、憲法から発想していないことが誤りの元です。  

専門家が安全だと判断すればどんなに危険なものでも使うことを認めるという法律が憲法違反であるという発想が最高裁には欠けています。国会が法律で何でも決められるなら、憲法も裁判所も要らないということになってしまいます。  
 
 ●石井孝明氏の説の誤り  

経済・環境ジャーナリストの石井孝明氏は、アゴラというサイトで「福井地裁の大飯原発差し止め判決を批判する(速報版)」という記事を書き、福井地裁判決を批判しています。  

「1・適切な判断を裁判所ができるのか」という項で石井氏は、次のように書きます。  

 関電側は、地元住民などからなる原告の主張に根拠法はないと主張している。それは妥当だ。原子炉の安全性は、国の機関が審査する仕組みになっており、専門性も必要だ。地元住民、また裁判所が、適切に審査できる範囲を越えている。実際に大阪地裁は、大飯原発差し止め請求訴訟をこの理由で今年4月に却下している。  
 

原子炉の安全性を国の機関が審査して、合格しさえすれば、国民が安全に生活する権利が奪われてもいいのかという、この訴訟の本質が理解できていないと思います。「原子炉の安全性は、国の機関が審査する」と法律で決めたとしても、憲法に違反すれば法律の効力は否定されるという仕組みが理解できていないと思います。  

「専門性も必要だ」と書きますが、これまで専門家に任せて大事故が起きたのですから、懲りるべきです。核発電所の安全性の判断を専門家に任せて、その結果、琵琶湖の面積の1.2倍に当たる約800km2がチェルノブイリ原発事故の強制移住対象レベル(セシウム137の蓄積濃度が1平方メートルあたり60万ベクレル以上に汚染された地域)の放射能に汚染された(阿修羅記事)というのに、石井氏がまだ専門家に任せておけばいいという考え方をすることが理解できません。  

「専門家」には、「良い専門家」と「悪い専門家」がいます。つまり、私利で動いている専門家と公の利益を考えて動く専門家がいます。石井氏は、「悪い専門家」は核発電は安全だと言っているから使うべきだという意見ですが、「良い専門家」は、核発電をやめろと言っているのですから、「専門家に任せろ」という意見によって結論を決めることはできません。  

そもそも専門家は真実を語るから尊重されるのであり、御用学者は経済的な利益関係から真実を語ることが期待できないのですから、その発言を尊重することはできません。  

また、事故が起きれば計り知れないほどの大きな被害が生じることが判明したのですから、核発電所の存在が許されるかどうかは、高度の専門的な知識がなくても判断できます。  

石井氏は、次のように書きます。  

 原発の運転を規定する原子炉等規制法によれば、原則として建設許可を得た原発では、運転は可能になる。重大な安全の瑕疵などがある場合に原子力規制委員会が停止を命じられる。そうした法律を越えて、裁判所ができることはかなり権限があいまいだ。  
 

繰り返しになりますが、石井氏は、憲法に違反する法律は効力がないという法構造を理解できていないと思います。石井氏の発想の出発点は原子炉等規制法であり、憲法ではありません。  

この点について石井氏は、「2 「人格権」の判決での濫用」において、「「原子炉の安全性に裁判所の判断が及ぶのか」という疑問に答えるため、福井地裁の判決は憲法の人格権(13条、幸福追求権)を振りかざす。判決では「人格権が経済的自由権より上位」とし、その人格権を尊重することで、原子炉等規制法に基づき、「裁判所が審査することは可能」としている。これはかなり荒っぽい論理構成だ。反原発の人が繰り返し唱える「命はお金より重い」という単純な主張に、法律語の粉飾を加えただけに思う。」と書きます。  

「「命はお金より重い」という単純な主張に、法律語の粉飾を加えた」という評価は間違いではないと思います。しかし、その理論構成が荒っぽいので誤りだということにはならないと思います。  

「命はお金より重い」という主張のどこがいけないのでしょうか。  

石井氏は、「命はお金より重い」という考え方に反対なのでしょうか。  

石井氏は、だれかの金もうけのために人が死んでも仕方がないと考えているのでしょうか。  

また、「人格権をそれぞれの幸福追求権とすれば、人ごとに価値観は違うはず。関電側は、原発の停止による同社、ならびに消費者の経済的な損失を主張した。それを幸福に関わると重視する人も当然いるはずだ。」という記述から分かるように、石井氏は人権には序列があることを理解していないと思います。  

確かに精神的自由権と経済的自由権に関する二重の基準論については、ドイツでは採用されていないとか、裁判所が採用している理論とは言えないとか、憲法学において疑問が呈されているとかの問題はあるにしても、それらの人権の前提である命が最重要の人権であることに異論はないと思います。  

福井地裁判決は、次のように説示します。  

 個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。  
 

どこが荒っぽい理論構成なのでしょうか。    

核発電のコストが他の発電方法に比べて安くないことは既に証明されていますが、表面的な電気料が高くならないという経済的なメリットを幸福だと感じる人がいることは事実だとしても、放射能で遺伝子を破壊される危険の少ない生活を享受する権利の方が優越するという福井地裁判決の論理を石井氏は理解しようとしていないように思います。  

石井氏は、憲法と法律には効力の序列があり、人権にも価値の序列があることを理解していないように思います。  

石井氏は、次のように書きます。  

 もちろん原子力に絶対事故はないとは断言できない。しかし、ある事象の存在で起こるリスクの存在を是認しつつ、そこから出る利益をできるだけ高くして社会生活を送ることが、普通の人の態度だろう。そして、原発からはリスクと利益の双方を、社会は享受している。  
 
 一部の人の人格権を過度に尊重して、社会全体の利益、他人の価値観を尊重しない、雑駁な議論を裁判所が行ったことに私は驚く。福井地裁の論理を使えば、自動車や飛行機などの安全性の判定を、その規制法に基づいて、「危険を感じて人格権を侵害される人のため」として裁判所が行えることになりかねない。  
 

上記の主張については、項を改めて考察します。  
 
 ●飛行機と核発電は違う  

石井氏は、「ある事象の存在で起こるリスクの存在を是認しつつ」と書きますが、ここが大問題です。核発電所のリスクは是認できるものではありません。それが「普通の人」の受け止め方ではないでしょうか。  

石井氏は、「原発からはリスクと利益の双方を、社会は享受している。」と書きます。しかし、福島の事故で、そのリスクはあまりにも大きいことが明らかになったわけです。また、この文章における「社会」は同時代のものではありません。電気という利益は今の社会が享受し、放射能のリスクは将来の社会が背負うのです。石井氏の主張は、倫理観を欠いていると思います。  

中曽根康弘氏は、2011年5月15日のテレビ番組で「飛行機はすぐ墜落する、危険を承知でやらないと進歩しない」と言ったようです。出典は、http://read2ch.net/lifeline/1300183576/というサイトです。「すぐ」の定義が問題ですが、「飛行機はすぐ墜落する」ものではないと思います。  

また、2014年5月29日放送のモーニングバード(テレビ朝日)のそもそも総研において、澤昭裕氏は今回の裁判所のロジックが汎用されると、新幹線も差止められてしまうということになると主張したと言われています。  

要するに、読売新聞社も石井孝明氏も中曽根康弘氏も澤昭裕氏も、文明の利器にはリスクが伴うのであり、リスクをゼロにしようとしたら何も使えなくなってしまうと言っているということです。この理論は、「早まった一般化 (hasty generalization)」に分類される詭弁と言えると思います。  

彼らの主張の前提は、核発電所も自動車も飛行機も新幹線も、それぞれのリスクは同程度だということですが、樋口判決が述べるように、同程度でないことは明らかです。  

飛行機が墜落し、新幹線が脱線事故を起こして多数の死傷者が出たとしても、人類存亡の危機にはつながりませんし、日本だけの被害を見ても、琵琶湖の1.2倍の面積に人が住めなくなる、事故後3年経っても13万人以上の人が家に帰れない、関東、東北で安心して食べられる物が周辺になくなるというような被害が生じる道具は、核発電所以外にありません。  

飛行機や電車の事故が起きても、半径250km以内の人の命が危険にさらされることはあり得ません。  

ある技術のデメリットがメリットよりも大きければ、その技術は使うべきでないのは当然のことです。技術の採用には公共事業の実施における費用対効果と同じ問題があります。  

飛行機に伴う危険は「許される危険」と言えても、核発電に伴う危険は「許されざる危険」です。  

世間には、違うものを同じだと言ってだます人たちがいます。  

石井氏は、「一部の人の人格権を過度に尊重して、社会全体の利益、他人の価値観を尊重しない、雑駁な議論を裁判所が行ったことに私は驚く。」と判決を批判しますが、石井氏は、「人類の一部にすぎない核マフィアの経済的利益を過度に尊重して、社会全体の利益、他人の価値観を尊重しない」議論を行っていると思います。  

石井氏は、電気を得るためになぜ危険性が極めて高く、料金が高額で環境負荷の大きい核発電を利用しなければならないのかを何ら説明していません。  
 
 ●火と核発電は違う  

火と核発電が同じだと言う人がいます。オックスフォード大学名誉教授(物理学)のウェイド・アリソン氏です。  

BLOGOSの記事「人類の放射能への恐怖は間違っている - ウェイド・アリソン」には、次のように書かれています。  

 人類は数万年前、火を発見して利用しました。動物がそうであるように、火を使うことを警戒した人はいたでしょう。確かに火は誤って使えば、けがをしてしまいます。ところが、そうしたグループはその後、暖房、温かい食事などにありつけなかったでしょう。技術革新を手に入れた場合に、理性を使って、適切に用いることのできる人が、豊かさを享受できるのです。原子力でも同じことが言えます。  
 

強引な詭弁ですね。核発電所を「神の火」と呼んだ小説家もいましたが、日本の核推進派の中曽根氏や澤氏も、さすがに「火と原発が同じだ」とは言いませんでした。  

核発電は消せない火です。火は消せますが、核発電所事故では、崩壊熱と放射能は極めて長期間出続ける(火は制御できるが核は制御できない)という違いをアリソン氏はどう説明するのでしょうか。  

核発電と火が同じだと言うなら、アリソン氏に福島の火を消してほしいものです。  

ちなみにgoyo @ ウィキのウェイド・アリソンによると、アリソン氏は勇敢にも次のように言っているようです。  

 では、私の家の地下100メートルのところに(放射性廃棄物を)埋めるとなったら、私はそれを受け入れるのか?と聞く人もいるかもしれない。  
 私の答えは「受け入れるよ、もちろんね」である。全般的に、私たちは放射能から逃げるのをやめるべきなのだ。  
 

アリソン氏は、制度上絶対にそういう事態にはならないことを十分知っているから、そんなことが言えるのでしょう。  

口では何とでもいえます。人は行動で判断しましょう。  
 
 ●行政法学者の議論を見てみる  

文明の利器のリスクは、どれも同程度かという問題について行政法学者が議論しています。  

上記論文(椎名 愼太郎「原発訴訟から学ぶもの」2012年)のp16以下によると、行政法学者の原田尚彦氏は、以下のような見解を示しています。

「……新技術に対する危険管理が適正かどうか、これを実用化すべきかどうかを裁く未来裁判では、裁判所は当事者間の紛争調整者として機能するというよりも、むしろ、一般問題の決定者たる機能が求められている。そのため、『疑わしきはストップ』の原則の適用に裁判所が、より慎重になり躊躇を感ずるのは、当然であり、それが、むしろ健全な法感情の現われというべきであろう。

というのは、すべて文明の利器は、その効用の反面に危険発生の可能性を内包している。だが人類はそれを承知で、その効用と危険発生の確率・程度とを比較衡量し、危険を人為的に管理し制御しながら、新技術を果敢にとり入れ、生活の向上をはかってきた。にもかかわらず、今後は、裁判所が、具体的危険が立証されなくても、抽象的危険発生のおそれが否定されなければ、危険管理が不十分だとして新技術の採用を阻止してしまうとすれば、その効果はあまりにも大きい。

そうした意味で、筆者などには、現行法が危険の疑念さえあれば新技術の採用を全面的にストップするといった、あまりに用心深い法原則を一般的に承認しているとは、とうてい解しがたいとおもわれるのである。

新技術にどの程度の危険が予測されれば実用化を禁止するのか、あるいは、どの程度制御ないし規制措置を講ずれば十分であるかは、法規範が規定しつくしている事項ではなく、同時代人の自由な選択と評価に委された一般的政策問題ではないだろうか。

伊方判決は『(原子炉の安全基準の決定は)高度の政策判断と密接に関連することから、国の裁量行為に属する』と述べているが、おそらく同旨の発想であり、受容できる見方である。」(「行政訴訟の構造と実体審査」1984年p396)

原田氏は、「人類はそれを承知で、その効用と危険発生の確率・程度とを比較衡量し、危険を人為的に管理し制御しながら、新技術を果敢にとり入れ、生活の向上をはかってきた。」と言いますが、自分自身は、文明の利器の効用と危険発生の確率・程度とを正しく比較衡量していません。原田氏は、核発電所で大事故が起きる確率は隕石が米国の人口密集地に落下して死者が出るのと同程度という専門家の言を信じたのでしょうが、誤りだったのです。

原田氏も石井氏同様、自動車や飛行機のリスクも核発電のリスクも同じだと言っていることになります。

原田氏を批判することは後出しジャンケンであり、ずるいと言われるかもしれません。原田氏が上記論文を書いた1984年は、チェルノブイリ事故が起きる2年前ですが、5年前にはスリーマイル島事故は起きていたのであり、原子力資料情報室代表だった高木仁三郎氏や反核活動家の広瀬隆氏の鳴らしていた警鐘は原田氏の耳にも届いていたはずです。

椎名氏は原田氏の説を次のように批判します。

福島第一原発の惨事を知ってから原田のこの論述を読むと、やはりどこかに人間の技術への過剰な信頼や隠された危険性への想像力の限界を感じざるを得ない。
たしかに、われわれは飛行機が完全ではない技術であり、1986年に500人を越える死者を出した日航機墜落事件を知っている。しかし、この危険のレベルと、原発が内包する巨大で制御不可能な危険とを「新技術」という言葉で一緒にすることは間違っているのではないか。過疎の地域である福島でさえ何十万の人々が故郷を捨てなければならない規模の「危険」、そして、収束に何十年かかるか分からないという「危険」は、全く異質のものと考えねばならない。

椎名氏は、更に次のように続けます。

たしかに、筆者のこの批判は巨大事故を受けての「あと知恵」である。しかし、少なくとも、筆者は、原発という技術については、高レベル放射性廃棄物(使用済み核燃料)の処理方法がないという決定的な問題点を1970年代前半から知っていた。

この問題こそ、福島第一原発の事故処理を阻んでいる主要因であり、何十万の住民が故郷から追われた決定的要因である。筆者がこの点を強調するのは、原発開発に乗り出す段階でこの問題点が指摘されながら、一部政治家と技術者は、いずれ科学の進歩が解決する問題であろうとして、トイレ無きマンション住まいを開始してしまったからである。そして、福島で事故処理が遅々として進まないのも、結論的には、人が近づけない高いレベルの放射能を「消し去る」技術が物理法則上ありえないからである。まさしく、この決定的な技術上の問題点を無視して、「国の裁量」とする見方は明らかに失当である。

原田氏の見解と椎名氏の見解のどちらが妥当でしょうか。

原田氏の見解には、憲法や人権の視点が欠けていると思います。

●原子炉に限定して議論するのは論点のすり替えだ

石井氏は、次のように書きます。

ちなみに福島第1原発では想定500ガルの揺れのところ、570ガル程度の揺れだったが地震で原子炉は損傷していないと推定される。

石井氏は、なぜ原子炉の損傷に限定して議論するのでしょうか。

問題は、核発電所という施設そのものがどれほどの地震に耐えられるかということのはずです。原子炉だけが損傷しなくても、冷却ができなければメルトダウンに至るのですから、原子炉だけを取り出して安全性を議論する意味がないことは明らかです。

こうした詭弁は、ほかの分野でも見られます。

慰安婦問題では、山田宏・衆議院議員(日本維新の会)のように強制連行にこだわって議論する国会議員などがいます(BLOGOS記事「「捏造された事実であれば、国の名誉をかけて反論しなければいけない」山田宏議員・慰安婦関連質疑全文書き起こし」)。始まりが強制だったのか、だまされてきたのかは最重要の問題ではありません。日本軍が慰安所を管理していたか、慰安婦が自由に辞めることができたかが問題なのに、問題をすり替えていると思います。

ちなみに、生き証人である慰安婦たちの「強制連行された」という証言を「証拠文書が見つからない」という理由だけで否定することは傲慢でしょう。また、日経BPには、「東京裁判で明らかにされていた従軍慰安婦の決定的証拠」という記事もあります。さらに、オランダ人元慰安婦の証言をまとめた「折られた花ー8人の女性が日本軍強制売春の体験を語る」の著者マルゲリート・ハーマーさんは、「バダビアの軍事法廷でも、日本軍による強制連行を議論の余地なく証明する文書が発見されました。」(2014年6月15日付け赤旗)と言っています。

核発電がCO2を排出しないという議論についても、「発電中は」という限定を設けることによって、核発電のCO2排出量が少ないように見せかけることも論点のすり替えという詭弁です。

「美味しんぼ」の騒動でも、2014年5月7日、双葉町は小学館に対して「双葉町は、福島第一原子力発電所の所在町であり、事故直後から全町避難を強いられ ておりますが、現在、原因不明の鼻血等の症状を町役場に訴える町民が大勢いるという 事実はありません。」 と抗議しましたが、「現在」という限定を付けることによって、過去にも原因不明の鼻血等の症状を町役場に訴える町民がいなかったかのようにすり替えています。

なお、「大勢いるという 事実はありません。」というのも微妙な言い方で、現在でも「大勢ではないがある程度はいる」という意味なのかもしれません。そうであるならば、何人いるのかを言うべきでしょう。

とにかくも、「美味しんぼ」がおそらくは過去の事実を描いたのに、双葉町が「現在」という限定を付けて論点をすり替えたことは確かです。

ちなみに、国会で「鼻血」を言い出したのは自民党の議員たちだった事実がネットでは流れているのに、マスコミには載らない(正確には、私には見つからない)理由が分かりません。

カレイドスコープというサイトの国会で「鼻血」を言い出したのは自民党の議員たちだったというページには、自民党の熊谷大、山谷えり子、森まさ子、長谷川岳の各議員が鼻血の問題を国会で取り上げています。

できれば、下記サイトもご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=I9KupTdnbyM
http://beyond.cocolog-nifty.com/akutoku/2014/05/post-993d.html
http://ameblo.jp/shizuokaheartnet1/entry-11848868889.html
http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/52148366.html

ちなみに、New Worldというサイトによると、2011年6月16日付け東京新聞「こちら特報部」も「大量の鼻血」について報じています。

東京新聞はウソを書いたのでしょうか。

石井氏は、次のように書きます。

そして大飯の原子炉は1260ガルの安全に耐えられるという。ところが驚くことに、地震動と専門性の必要な議論での論証を精緻に行わず、裁判官が危険を認定している。これは専門性の必要な議論だ。(中略)
地震のリスク判断は「地震が起こる」「起こらない」という単純な判断で終わるものではない。何段階にも分かれた検証と、専門的な調査、その公開 検証、是正が必要である。福井地裁はこのリスク判定を「裁判所が関与できる」として、危険性を認定した。そんな能力があるのだろうか。あきれる傲慢さだ。

「あきれる傲慢さ」は、関西電力でしょうか、石井氏でしょうか、石井氏の信じる専門家集団でしょうか。

原子炉が1260ガルの地震に耐えられるとしても、給水装置等のほかの設備が損傷すれば意味がないことは、上記のとおりです。

発電所自体が1260ガルの地震に耐えられるとしても、それを超える地震が起きたらどうするのかという疑問への回答を石井氏は示していません。

これまでも想定を超える地震は起きているのに、大飯には1260ガルを超える地震は起きないと決めつける方が傲慢ではないでしょうか。

●核発電の推進はウソから始まる

「4 放射能への過剰な恐怖」で石井氏は、次のように書きます。

福島原発事故では、原発は地震によって緊急停止し、地震そのものによる炉の主要設備の破損は起きていない可能性が高い。冷却装置の津波に寄(ママ)る破損が事故につながった。また事故の影響は限定的で、国、国連などの各専門家によれば「福島事故による健康被害の可能性はない」ということで一致している。
ところが、この判決では、原発事故の無限性を強調。それゆえに原告(訴えた住民側)によった判断を行うべきとしている。裁判官の単純な反原発感情、恐怖感情を、法律語で粉飾して訴えた側に有利な判定に使っているように思える。

核発電推進派は、「福島原発事故では、原発は地震によって緊急停止し、地震そのものによる炉の主要設備の破損は起きていない可能性が高い。冷却装置の津波に寄(ママ)る破損が事故につながった。」というストーリーに固執します。なぜなら、地震によって発電所が破壊されたということになると、すべての核発電所を運転できなくなるからです。

地震の揺れは、東北地方太平洋沖地震では2933ガル(宮城県栗原市)、岩手・宮城内陸地震では4022ガル(岩手県一関市)を記録しています。

大飯の原子炉で1260ガルを想定すれば事故への備えが十分ということにはなりません。

なお、福島の事故について2011年4月2日付け朝日は、「公表されたのは最下階の地震計のデータで、2号機が想定の438ガル(ガルは揺れの勢いを示す加速度の単位)に対して、1.25倍の550ガルを記録。5号機で548ガル(想定452ガル)、3号機でも507ガル(同441ガル)が観測された。」と報じています。

つまり、核発電推進派にとって、500ガル程度の地震で壊れるような発電所施設だったという話は非常に困るので、地震には耐えたが津波にやられた、津波対策さえしっかりやれば、再稼働しても大丈夫ということにしたいわけです。

いずれにせよ、「発電所設備は地震には耐えた。津波さえなければ事故は起きなかった」という理屈が成り立たないことは、証明されていると思います。

それでもそうしたウソをつかないと推進できないのが核発電です。

集団ストーカーとは何か?というサイトの「地震の揺れ、僅か500ガルで破壊された福島原発」というページによれば、週刊朝日のインタビューで、福島第一原発の最高幹部が次のように語っています。

フクイチが地震と津波、どちらでやられたのかといえば、まず地震で建屋や配管電気系統など、施設にかなりの被害を受けたのは事実です。
地震直後、「配管がだめだ」「落下物がある」などと緊急連絡が殺到しました。制御室からも「配管や電気系統がきかなくなった」などと、すさまじい状況で、多くの作業員が逃げ出した。
耐震性に問題があったのは否めません。

福島第一原発の最高幹部がそのように言っているのですから、耐震性に問題があったことは明らかであり、津波さえなければ無事だったかのうように言うのは誤りです。

2011年4月30日付け赤旗には、次のように書かれています。

原子力安全・保安院の寺坂院長は、倒壊した受電鉄塔が「津波の及ばない地域にあった」ことを認め、全電源喪失の原因が津波にないことを明らかにしました。

また、元国会事故調協力調査員の伊東良徳弁護士は、「再論 福島第一原発 1 号機の全交流 電源喪失は津波によるものではない」(月刊「科学」2014年3月号)という論文で次の趣旨を論証しています。

少なくとも福島第一原発 1 号機において全交流電源喪失は 2011 年 3 月 11 日 15 時 37 分かそれ以前に生じているところ,1 号機敷地への津波の溯上は 15 時 38 分以降であり,時間的前後関係からして全交流電源喪失の直 接の原因は津波ではあり得ない。

元原子炉設計士でサイエンスライターの田中三彦氏も実際には地震による配管破断によって、冷却材喪失が起こったこと、要するに原子炉崩壊の主要因が地震にあった可能性が高いと主張していることについては、下記サイトをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/b3708b03147d12b3864f0c8fc3819642
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/85081b4ab51e4147406358fdc63a338c

●石井氏は専門家の正体を理解していない

石井氏は、「事故の影響は限定的で、国、国連などの各専門家によれば「福島事故による健康被害の可能性はない」ということで一致している。」と書きます。

石井氏は、ICRPが核を使い続けることを目的とする集団であること、自分たちに都合の悪い事実は存在しないことにしてきたことを理解していないようです。

核マフィアは、放射能による健康被害をどんなに突きつけても絶対に事実を認めないでしょう。

石井氏が「福島事故による健康被害の可能性はない」と主張するなら、自分が福島に住んで子育てをしながら主張してほしいと思います。

核推進派のやり口はだいたい同じです。

「命とカネと、どっちが大事か」と問われて「カネだ」と開き直ることはせず、ICRPのメンバーなどの専門家の意見を根拠にして核の利用によって命の危険は発生しないのだから、「命とカネと、どっちが大事か」という問題ではないと論点をずらす傾向があります。しかし、彼らに論拠を与える専門家とは核の利用の推進でメシを食っている人たちですから、客観性のある判断をできない立場の人たちです。御用学者の意見を盾に放射能による健康被害はないことにする、あるいはあっても軽微なものにすぎないことにするのが核推進派の常套手段です。

●感情的なのはどっちか

石井氏は、次のように書きます。

ところが、この判決では、原発事故の無限性を強調。それゆえに原告(訴えた住民側)によった判断を行うべきとしている。裁判官の単純な反原発感情、恐怖感情を、法律語で粉飾して訴えた側に有利な判定に使っているように思える。

石井氏は、自分に都合の悪い事実は認めず、その主張に論理性は感じられません。核発電所を再稼働させたいという一念で感情的になっているのは石井氏の方だと思います。石井氏は、廃棄物の処理方法さえ決まっていない発電方法をなぜ続けなければならないのかを説明していないと思います。

石井氏は、放射能汚染による生物への被害は、時間的にも空間的にも計り知れないほど大きいという事実を認めるべきです。

福島の事故で世界中の海が汚染されているではありませんか。「原発事故の無限性を強調」することのどこがいけないのでしょうか。

石井氏は、裁判官を感情的と批判するからには、自分は理性的に判断していると言いたいのでしょうが、危険な核廃棄物の処理を将来世代に押し付けて自分が電気を使うという利己的で無責任な考え方が理性的な判断とは思えません。

なお、理性の意味を二つほど挙げると次のとおりです(goo辞書「理性」)。
1 道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。
2 善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力。

●核発電はただの技術ではない

石井氏は、「4 放射能への過剰な恐怖」で次のように書きます。

私は、日本は原子力を活用した方がいいと考えている。原子力は悪ではない。ただの技術で、適切に利用すればいいだけの話だ。

福島の事故のために避難民だけでなく、私を含め、多くの人たちが安全に生きる権利を奪われているのですから、「原子力は悪ではない。」という認識は誤りでしょう。

とにかく石井氏は、核発電は、電車や自動車や飛行機と同じ「ただの技術」にすぎないと言っているわけです。

違いを理解しようとしない人に対する説得の手段はないのでしょう。お手上げです。

しかし、実際は、石井氏も飛行機と核発電の違いは理解しているとも考えられます。飛行機も核発電も同じだという主張は、彼の演技なのかもしれません。反核の立場で原稿を書いてもカネにならないが、推進の立場で書けば「原発興国論」を唱える月刊WiLLなどが原稿を買ってくれるという次元の話なのかもしれません。

自分の収入がらみでものを言う人と人類はどうなってしまうのかという視点でものを言う人とが議論するとしたら、かみ合うはずもありません。

●日本原子力学会が福井地裁判決を批判

2014年05月27日付け読売によれば、日本原子力学会が福井地裁判決を批判したことを次のように報じています。

大飯原発差し止め判決、日本原子力学会が批判

日本原子力学会は27日、関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県)の運転再開差し止めを命じた福井地裁判決について、「ゼロリスクを求める考え方は科学技術に対する裁判所の判断として不適切だ」などと批判するコメントを発表した。

同学会は「いかなる科学・技術もリスクを十分に低減させ、恩恵とのバランスでリスクを受容している」などと指摘した。

同学会は原子力の専門家ら約7500人で組織し、原子力規制委員会の田中俊一委員長も過去に会長を務めた。

福井地裁判決を「いかなる技術に関してもゼロリスクを求める考え方」と決めつけて批判することが「わら人形論法」と呼ばれる詭弁であることは、前記のとおりです。福井地裁判決は、あらゆる技術は常にリスクがゼロでなければならないとは言っていません。

「同学会は「いかなる科学・技術もリスクを十分に低減させ、恩恵とのバランスでリスクを受容している」などと指摘した。」そうですが、核発電は、恩恵とリスクのバランスがとれていないことは証明されていますので、学会の主張は意味不明です。

●核発電推進派の精神構造とは

石井氏は、次のように書きます。

発電能力100万kW級の原子炉の停止を代替するため火力発電を動かすと、年間700億円から1000億円の化石燃料代が余分にかかる。

石井氏には、琵琶湖の面積の1.2倍の面積の国土が失われていることや今なお14万人近くの人が家に帰れないことには無頓着のようです。

樋口判決は、燃料代がこれまでより余分にかかることは国富の喪失とは言うべきではないと言っていることを理解できないということは、やはり石井氏は「命よりカネが大事」と考えているのでしょうか。

石井氏は、核発電の燃料であるイエローケーキをつくるために、また、事故の収束や廃炉や核廃棄物処分のためにどれだけの化石燃料を使い、どれだけ環境と労働者の健康を破壊するのか、いくらの費用がかかるのかを考えたことがないのでしょうか。

また、放射能の危険性は分からないことが多いのに、核発電推進派は、「分からないこと」=「存在しないこと」にしてしまい、その結果、危険を察知する能力を欠いています。

核マフィアは立場で物を言うので議論しても不毛です。

しかし、世の中には核をメシのタネにしているわけでもないにもかかわらず核利用の推進に賛成する人たちがいます。そうした賛成派は、本音では命よりカネが大事と考え、全体的視野と危険察知能力を欠如していることが問題なのだと思います。

そして分からないことをないことにしてしまい、都合の悪い事実を見ないし、認めないことも核発電推進派の共通項と言えると思います。

まとめると、核発電再稼働賛成派の特徴は、次のように言えると思います。

(1)命よりカネが大事と考える。
(2)全体的視野が欠如している。(4)と関連。
(3)危険察知能力が欠如している。(4)と関連。
(4)自分に不都合な事実は存在しないことにしてしまう。

(文責:事務局)
文中意見にわたる部分は、著者の個人的な意見であり、当協議会の意見ではありません。
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