大東水害訴訟最高裁判決の理論では事実的因果関係が立証できない(鬼怒川大水害)その3

2019-10-03

●大東水害判決は改修計画の合理性が瑕疵判断の対象だと言っているのか

そもそも、大東水害判決は「改修計画の合理性が瑕疵判断の対象だ」と言っているのかを考えます。

上記引用部分の第3文を再掲します。

【免責事由(瑕疵阻却事由)】
そして、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の 事由が生じない限り、右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもつて河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである。

原則部分だけを取り出すと、
「右計画が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、改修がいまだ行われていないとの一事をもつて河川管理に瑕疵があるとすることはできない」
と言っています。

上記文章を何度読み返しても、「改修計画が格別に不合理であること自体が瑕疵である」と言っているとは読み取れません。

上記文章は、被害者が「水害を起こした箇所は未改修だった。そのことが河川の管理に瑕疵があったことになる。」と主張した場合に、「改修計画が格別不合理でない場合は、未改修であるというだけで河川管理に瑕疵があるとすることはできない。」という構造です。

つまり、「改修計画が格別不合理でない場合」は、瑕疵の成立を否定している(妨げている)だけではないでしょうか。

したがって、改修計画が格別に不合理であること自体が瑕疵である、と読み取ることには無理があると思います。

つまり、河川管理者側が、改修計画が格別不合理でないことを主張・立証した場合には、瑕疵の成立が否定されるというのですから、抗弁事由を創設したのではないでしょうか。

●最高裁は「免責の抗弁」という考え方を排斥したという説がある

近藤昭三・九州大学教授は、判例時報1126号のp188以下で大東水害判決の評釈を行っていて、p189に次のように書いています。

最高裁は、本件原審判決の「通常、営造物の客観的な安全性の欠如の原因は、その設置・管理行為に内在するものとみなければならないから、右危険が外因的に招来されたものであることおよびその除去・回復に必要な最低限の期間が未到来であることについては、管理者にその主張・立証責任を負担せしめて、これを免責の抗弁となすのが相当である」という考え方を排斥している。

つまり、予見可能性に重点をおき、当該水害が客観的・定性的に予見可能の範囲内にある限り、これを防止することが管理者の義務であるとし、それ故、当該水害が予見可能で合ったのに防止されなかった場合義務違反の成立を原則的に認め、損害防止が不可能であったという具体的事情は違法阻却事由として扱う考え方は、ここで否定されている。


●近藤評釈は正しいか

近藤の引用する上記文章が最高裁のサイトで公表されている判決書のどこに書かれているのか分かりませんが、近藤によれば、原判決が言っていることは、次の二つです。

1. 「通常、営造物の客観的な安全性の欠如の原因は、その設置・管理行為に内在するものとみなければならない」
2. 「右危険が外因的に招来されたものであることおよびその除去・回復に必要な最低限の期間が未到来であることについては、管理者にその主張・立証責任を負担せしめて、これを免責の抗弁となすのが相当である」

近藤は、最高裁が前段も後段もそっくり否定したと理解しているようですが、否定したのは前段だけではないでしょうか。

最高裁は、「河川は、・・・もともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しているものである。」(判決書p3)と言っているのですから、確かに、前者を否定していることは明らかです。

次に、「右危険が外因的に招来されたものであること」を免責の抗弁となすことを最高裁は否定したのかを検討すると、学者は、「異常な自然力が働いた場合には、不可抗力によるものとして免責される。」(大浜前掲書p466)と言っており、実務でも昔からそのような扱いだと思いますので、最高裁がこれを否定したとも思えません。

したがって、近藤は、最高裁が「不可抗力を免責の抗弁として認めない」と言っていると解釈しているとすれば、最高裁の判決を誤解していると思うのですが、いかがでしょうか。

次に、「その除去・回復に必要な最低限の期間が未到来であることについては、管理者にその主張・立証責任を負担せしめて、これを免責の抗弁となすのが相当である」ことを大東水害判決が否定したのかを検討します。

ここで原審の言っている「その除去・回復に必要な最低限の期間が未到来であること」は、「改修計画は立てたけれども、水害が起きた箇所の改修工事の順番が回ってくる前に水害が起きてしまった」とほぼ同義だと思います。

そうだとすると、原審の言う「その(危険の)除去・回復に必要な最低限の期間が未到来であることについては、管理者にその主張・立証責任を負担せしめて、これを免責の抗弁となすのが相当である」と、大東水害判決の「右計画が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、・・・右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもつて河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである。」とは、ほぼ同義ではないでしょうか。

したがって、大東水害判決は、原審の上記記述のうち、前段の「通常、営造物の客観的な安全性の欠如の原因は、その設置・管理行為に内在するものとみなければならない」という部分だけを否定したものと解釈できないでしょうか。

つまり、改修計画の格別不合理性を「免責の抗弁」とする原審の考え方は、最高裁によって排斥されたとは思えません。

●「免責の抗弁」とする原審の考え方を排斥したのなら別の表現をするはずだ

もしも、最高裁が「免責の抗弁」とする原審の考え方を排斥したのなら別の表現をするはずではないでしょうか。

つまり、「右計画が全体として右の見地からみて格別に不合理なものと認められるときは、・・・右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもつて河川管理に瑕疵があるとすることができると解すべきである。」という書き方をするはずです。

言い回しの問題は、軽視できないと思います。

裁判所が判断の基準を示す場合には、挙証責任を当事者のどちらに負わせるべきかを意識するはずだと思いますので、何となく書くことはありえず、どちらが挙証責任を負うのかが分かるように書くはずです。

「右計画が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは」という言い回しは、河川管理者が「(計画が)格別不合理なものと認められない」ことを立証する責任があることを意味すると解すべきだと思います。

●過渡的安全性は基本思想にすぎないのか

大東水害判決に従う限り、改修計画に基づいて改修中の河川についての瑕疵は、専ら「改修計画の格別不合理性」で判断すべきなのでしょうか。

近藤は、大胆にも「「過渡的安全性」なる概念は、河川管理瑕疵に関する最高裁の基本思想として提示されたのであって、具体的な判断基準ではないと解される。」(前掲評釈p190)とまで言うのですから、そうなると具体的な判断基準は、「改修計画の格別不合理性」しかないことになると思います。

しかし、「過渡的安全性」と「是認しうる安全性」は、おそらく同じものであり、最高裁は、「是認しうる安全性」の有無を判断するための考慮要素等として、「過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制 約のもとでの同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念」を挙げているのですから、「過渡的安全性」=「是認しうる安全性」は、「具体的な判断基準」と解すべきだと思います。

●河川の状態について瑕疵があると主張することを最高裁は認めている

最高裁は、裏を返せば、「右計画が全体として右の見地からみて格別に不合理なものと認められるときは、・・・右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもつて河川管理に瑕疵があるとすることができる」と判示しているのですから、未改修のため、河川そのものが危険な状態にあることをもって瑕疵があると主張することを認めていることになります。

また、上記のとおり、最高裁は、未改修河川であっても、河川の危険性が増大する特段の事情が発生した場合には、改修の順番を変えてでも、改修工事を実施しなければ管理の瑕疵にあたる場合があると言っています(判決書p10)から、特段の事情が発生した場合には、計画の状態ではなく、河川の状態で瑕疵を判断するということです。

さらに最高裁は、後記のとおり、土砂の浚渫に関しては、「・・・に照らして是認しうる安全性を備えているか否かの観点から判断されるべきものである」(判決書p12)と述べています。つまり、改修計画の格別不合理性で判断していません。河川の状態で瑕疵の有無を判断すべきだと言っています。

●「改修計画の格別不合理性」がなぜ瑕疵そのものだと誤解されるのか

「改修計画の格別不合理性」が瑕疵そのものだと誤解される理由は、最高裁が公開する大東水害判決の「裁判要旨」の書き方にあると思います。

「裁判要旨」には、「右計画が、全体として、・・・格別不合理なものと認められないときは、・・・特段の事由が生じない限り、当該河川の管理に瑕疵があるということはできない。」と書かれています。

しかし、判決書には、「右計画が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、・・・ 特段の事由が生じない限り、右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもつて河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである。」と書かれていて、「右部分につき改修がいまだ行われていない」ことをもって「瑕疵があるとすることはできない」と言っています。

つまり、「裁判要旨」では、「特段の事由が生じない限り」の次に、「右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもつて」が抜けているので、何をもって「瑕疵があるとする」のかが不明確です。

「右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもつて」が入ると入らないでは大違いです。

したがって、「裁判要旨」だけを読むと、「右計画が、全体として、・・・格別不合理なものと認められない」ことをもって「瑕疵があるとすることはできない」と言っている、と誤読することになります。かく言う私も、「裁判要旨」だけを読んでいたわけではないのですが、最近まで誤読していました。「裁判要旨」を先に読むと、印象操作をされてしまうということでしょう。

余談ですが、遠藤賢治という最高裁調査官と司法研修所教官を経験した裁判官が加治川水害訴訟最高裁判決の評釈を某雑誌に書いていて、大東水害判決を引用しているのですが、「裁判要旨」を引用していることは意外でした。

「裁判要旨」への強い信用とか信仰とかが司法の世界にはあるのかもしれません。

●改修計画の格別不合理性が瑕疵だと解するならば挙証責任から見ても不当だ

改修計画の格別不合理性が瑕疵だと解するならば、その挙証責任は原告が負うことになりますが、全体的に見た改修計画(及びその実施の状況)の合理性は、河川の危険箇所、改修予定箇所の優先順位等が分からないと有効に立証できませんから、河川に関する情報を持たない原告に立証させるのは酷であり、不公平です。

反面、「改修計画が格別不合理でないこと」が免責事由であると解すれば、その挙証責任は情報を持っている被告が負うので、公平です。

「・・・でないこと」を立証するのは、一般論として「悪魔の証明」に近く、酷ですが、国家賠償事件では、営造物の管理者は全ての情報を握っているのですから、管理者側が問題がなかったことを立証することは困難ではありません。

●瑕疵判断の基準は何なのか

以上の検討により、改修計画の格別不合理性が瑕疵判断の基準になり得ないとすると、では何が瑕疵の基準となるのかが問題ですが、私は、引用文のうちの第2文だと思います。以下に再掲します。

【瑕疵判断の基準】
以上説示したところを総合すると、我が国における治水事業の進展等により前示のような河川管理の特質に由来する財政的、技術的及び社会的諸制約が解消した段階においてはともかく、これらの諸制約によつて(河川がーー引用者補足)いまだ通常予測される災害に対応する安全性を備えるに至つていない現段階においては、当該河川の管理についての瑕疵の有無は、(当該河川がー―引用者補足)過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約のもとでの同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであると解するのが相当である。

この段落では、「これらの諸制約によつていまだ通常予測される災害に対応する安全性を備えるに至つていない現段階においては」とあるのですから、未改修の河川及び改修済みだが改修が不十分な河川について述べていると思われます。

したがって、この段落で示された判断基準は、未改修の河川にも適用されるべきものです。

現に、大東水害判決は、土砂の堆積に関する争点において、「しかしながら、河川管理の瑕疵の有無は、前示のとおり当該河川が過去の水害の発生状況その他前記の諸般の事情を総合的に考慮し河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えているか否かの観点から判断されるべきものである」(p12)と判示しており、大浜が「河川管理の瑕疵の<一般的判断基準>」と呼ぶ基準が大東水害に適用されています。

しかるに、鬼怒川大水害訴訟で国が、鬼怒川が改修中の河川であるという理由で、上記「一般的判断基準」には目もくれず、「まず、当該計画自体が前記の基準によって合理的なものとして是認されるか否か(以下「基準1」という。)が問題であり」(準備書面(1)p39)とする解釈が正しいとは思えません。

したがって、大東水害判決に従うならば、まずもって、河川が「是認しうる安全性」を備えていると認められるかどうかを基準として瑕疵を判断すべきだと思います。

●改修計画の格別不合理性は瑕疵阻却事由か

結局、大東水害判決が言いたいことは、改修計画の格別不合理性は瑕疵阻却事由とするということではないでしょうか。

「瑕疵阻却事由」は、私の造語です。(近藤は、「損害防止が不可能であったという具体的事情は違法阻却事由として扱う考え方は・・・」(判例時報1126号p190)と書いていますが、国家賠償法第2条の責任について違法性が要件だとは知りませんでした。大浜前掲書では、同条の解説に違法性の項目はありません。)

大浜は、不可抗力について、「不可抗力が認められれば、2条の責任は成立しないので、不可抗力は免責事由として機能するが、確定的に瑕疵がないことを裏面から説明する概念であり、瑕疵概念と表裏一体のものとみるべきものである。」(前掲書p465)と書いています。

「瑕疵阻却事由」は、全て瑕疵概念と表裏一体のものとみるべきものだと思います。

瑕疵を阻却する事由として、従来、次の三つが解釈上認められてきたと思います。

1. 異常な自然力が働いた場合(典型的な不可抗力)
2. 第三者の行為や自然力により安全性の欠如が突如発生し、安全性を回復する時間的余裕がなかった場合(時間的不可抗力)
3. 通常の用法に即しない被害者の行動があった場合(異常な用法)

大東水害判決は、上記の「瑕疵阻却事由」に新たな1項目を加えたものと解釈することはできないでしょうか。

これに対しては、改修計画の格別不合理性を瑕疵そのものだと解するとしても、それを判断する際には、「右の見地(冒頭の引用文のうち【瑕疵判断の基準】のことーー引用者注)からみて」格別不合理かを判断するのだから、作業手順としては同様になり、作業を【瑕疵判断の基準】と【免責事由(瑕疵阻却事由)】に分ける実益がないのではないか、という疑問も出るかもしれませんが、挙証責任が違ってくるので、分ける実益はあると思います。

●判決を整合的に理解できない

残された問題は、大東水害判決を上記のように解すれば、整合的に理解できるようになるかというと、そうではないという問題があります。

結論から言って、大東水害判決は、従来の判決例のように解釈しようと、新解釈をしようと、整合的に理解することは不可能だと思います。

大東水害判決は、「1」として総論を述べた後、「2 以上の見地に立って本件をみると、原審の適法に確定した事実関係は次のとおりである。」(判決書p5)と続きます。

そして、谷田川の改修計画及びその実施の状況を説明した後に、「右のe川(寝屋川のことーー引用者注)水系河川及びd川(谷田川のことーー引用者注)の改修計画及びその実施の状況については、これを全体として観察し」(判決書p8)と述べ、いきなり、「改修計画及びその実施の状況」が「特に不合理なものがあるとは認められないとされる余地が十分に存するものと考えられる」ので、危険性が増大したのに放置した、というような特段の事情があったかを検討すべきであったと述べます。

つまり、大東水害判決は、谷田川が是認しうる安全性=過渡的安全性を備えるかについて言及することなく、いきなり改修計画及びその実施の状況の合理性の問題を持ち出しており、「改修計画及びその実施の状況の不合理性が管理の瑕疵である」という考え方をとっているように見えます。

また、大東水害判決は、「c点付近が溢水の危険の高い箇所であるとの原審の判断には前記の違法があり」(判決書p12)と述べているので、「谷田川は是認しうる安全性=過渡的安全性を備えていた」という考えに傾いていた可能性があり、そうだとすると、河川そのものに瑕疵があるが、改修計画(及びその実施の状況)が格別不合理とは認められない場合には当該瑕疵を阻却する、という構成ではないように見えます。

しかし、一方、大東水害判決は、判決書p11からは「c点付近の土砂の堆積」という争点について判示し、p12では、前記のとおり、次のように書かれています。

しかしながら、河川管理の瑕疵の有無は、前示のとおり当該河川が過去の水害の発生状況その他前記の諸般の事情を総合的に考慮し河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えているか否かの観点から判断されるべきものであるところ、原審が右のような諸点を勘案することなくc点付近の土砂の堆積の状況から直ちにd川の管理に瑕疵があつたとした判断には、国家賠償法二条一項の解釈適用を誤つた違法がある

もしも大東水害判決が、改修計画に基づき改修中の河川においては、専ら改修計画(及びその実施の状況)の格別不合理性で瑕疵を判断すべきだ、という考え方ならば、「河川管理の瑕疵の有無は、・・・是認しうる安全性を備えているか否かの観点から判断されるべき」とは言わないはずです。

したがって、最高裁は、改修計画に基づき改修中の河川においては、専ら改修計画(及びその実施の状況)の格別不合理性で瑕疵を判断すべきだ、という立場ではないと思います。

要するに、大東水害判決を整合的に理解することは困難、あるいは不可能だと思います。

そのためか、上記のとおり、その差戻し控訴審(大阪高裁)も新川水害訴訟控訴審(名古屋高裁)も混乱しているのだと思います。

●大東水害判決の問題点とは何か

大東水害判決の問題点は、それまでの瑕疵の程度を緩和しただけでなく、「瑕疵」という概念そのものを変えてしまった(と受け取られている)ことにあると思います。

もともと大東水害判決においても、「国家賠償法二条一項の営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠き、他人に危害を及ぼす危険性のある状態をいい」(判決書p2)と書かれています。

営造物が危険な状態にあること、と解釈するのが確定判例です。

確かに、瑕疵に関する客観説(判例の立場でもあると言われている。)は、「一方で瑕疵の意義を物的欠陥に求めつつ、他方で「設置・管理作用の不完全(手落ち)」をも瑕疵の内容に組み入れている点に特徴がある。すなわち、瑕疵の意義が二重の意味に用いられている。」(大浜前掲書p459)ようですが、「設置・管理作用の不完全」とは、ダムや水門の操作ミスや道路の通行止めを怠ったとか、物理的見地から安全性を欠いていたことを指すのであって(人的要素が介在するといちいち国家賠償法第1条の問題に場を移して判断するのは形式的にすぎる、という趣旨か)、現場の状況とは別次元の問題である、河川の改修計画の合理性で瑕疵を判断する発想ではなかったと思われます。

大浜は、前掲書p460〜461に次のように書いています。

「2条における瑕疵=危険状態」
「物的欠陥=瑕疵」
「物的欠陥=危険状態」
「2条の瑕疵責任の本質は、「物的危険状態責任」であることを留意しておく必要がある。すなわち、管理行為の要素を含めたとしても物理的見地から、「安全性を欠く危険な状態」であるかどうかを検討しなければない。」

つまり、本来、「2条の瑕疵責任の本質は、「物的危険状態責任」である」にもかかわらず、大東水害判決は、河川管理の瑕疵については、瑕疵の定義を「営造物が通常有すべき安全性を欠いていること」から「是認しうる安全性=過渡的安全性を欠いていること」に緩めただけでなく、一気に、瑕疵判断の対象物を「営造物」が有すべき安全性の欠如から「改修計画」という観念(「物事について抱く考えや意識」(大辞林))に切り替えてしまった、と受け取れるような書き方をしたことに混乱の原因があると思います。

ひょっとして最高裁裁判官が、自分が書いた(実際には調査官が書くのでしょうが)判決の理論を理解していないという可能性はないのでしょうか。

こんな訳の分からない判決で裁かれたのでは、被害者は、たまったものではありません。

近藤は、「河川管理の瑕疵について判例上の考え方を明示し、その認定基準を明確にすることにより、多様な水害国賠事案の処理に一定の論理的枠組みを与える」という「課題にかなり明確な解答を与えることに成功しており、水害訴訟のリーディングケースとして重要な意義をもつものである。」(前掲評釈p189)と持ち上げますが、どこが「明確」なのか、どこが「成功」なのか、おっしゃる意味が分かりません。

(文責:事務局)
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