2015年鬼怒川下流部流量観測業務報告書を入手した(鬼怒川大水害)

2019-10-22

●ソーラー発電所は右カーブの外側だった

「2015年鬼怒川下流部流量観測業務報告書」(2015年11月、株式会社新星コンサルタント)を入手しました。2015年9月洪水の痕跡水位や流量を調査した報告書です。

そのごく一部を抜粋して掲載します。

REPORT04S.pdf

報告書には、動画(ドローン映像)も添付されていました。

動画を見て感じたことを記します。

以下の写真は、若宮戸を撮った動画からスクリーンショットで切り出した写真です。

若宮戸

上の写真は、2015年9月12日に常総市若宮戸地区での上流側溢水箇所(左岸25.35k付近のソーラー発電所のある方)を上流に向かって撮ったものです。

上流側溢水箇所は、河道が直線的な部分ですが、この角度から見ると、右カーブの外側からやや下流であることが分かります。カーブにおける遠心力による水位の上昇が下流何メートルまで及ぶのかという科学的な話は分かりませんが、素人考えでは、カーブの内側の箇所や直接が続く箇所より、水位が上がりやすかったと思います。

しかし、若宮戸地区の河道は、昔からこうした形だったわけではありません。

下図は、明治初期の迅速測図と最近の地図を比較できるように並べた地図で、農業環境技術研究所のサイトで提供しているものです。

迅速測図

赤線の楕円で囲った若宮戸地区の河畔砂丘(左岸24.5〜26.0k)は、明治時代初期(1880年代前半)には、左カーブの内側にあり、しかも、4条の畝があり、高い所では比高が15m以上もあり、治水上最も安全な地区であり、ここから氾濫が起きることはおよそ考えられない箇所でした。

ところが、その直上流部の下妻市・鎌庭地区の屈曲部でたびたび洪水の被害があり、宗道という場所の河岸の維持が困難という理由(下館河川事務所発行の「rio」鬼怒川改修80周年記念特別号p3から。その出典は後記「河相論」か?)で、国は鎌庭捷水路(26.2〜28.2k)を開削し(1935年完成)、河道延長4400mを2050mに短縮し、若宮戸地点の河床勾配は、1/2500から1/1139へと約2.2倍になった(土屋十圀「2015年9月鬼怒川水害の要因に関する考察」自然災害科学J.JSNDS35特別号1−13(2016)。これもおそらくは、後記「河相論」が出典)そうです。

その結果、鎌庭地区での水害はなくなり、旧河道を埋め立てて土地利用もできたので、一挙両得ということだったのでしょう。

しかし、河畔砂丘はカーブの外側に近くなり、河川区域の内外を問わず、砂採取のために年々削平されていったので、最も安全な区間が最も危険な区間へと変貌していったのです。

しかも、鎌庭捷水路には、鎌庭第一床止(26.68k。1951年完成)と鎌庭第二床止(27.75k。1952年完成)があり、河床は低下しませんから、大水が出れば水位は上がる一方です。

鎌庭捷水路は、青山士(あきら)という技師が設計したそうで(青山は鬼怒川工事事務所の所長であり、実際には安芸皎一が設計したような気がしますが(篠原修「河川工学者三代は川をどう見てきたのか」p75))、青山は「大自然の力に抗ってはいけない。むしろ、そのエネルギーのスムーズな転換を追及すべきで、それが人類の英知である。」(上記rio)と語っていたそうですが、確かに、屈曲部は氾濫しやすく、ショートカットすることによって当時の計画流量はうまく流せたのかもしれませんが、それ以上の流量が発生すれば大水害を招いたと見ることもできるので、浅知恵だったのではないでしょうか。

捷水路を建設するとしても、想定外の洪水を考えれば、旧河道は遊水池として残しておくべきだったのではないでしょうか。

「人類の英知」とは、想定外の洪水が発生しても被害を最小限にとどめる技術(例えば、容易には決壊しない堤防など)ではないでしょうか。

●安芸皎一の「河相論」を読んでみた

鎌庭捷水路の設計者と思われる安芸皎一が1944年に著した「河相論」土木学会のサイトに掲載されています。

話が脱線しますが、「河相論」を読んでみたので、安芸が捷水路についてどのように書いているのかを紹介します。

なお、原文のまま引用すると、読み手も読みにくいし、書き手も現在使われていない漢字や仮名を表記するのも大変な手間ですので、現在の漢字・仮名遣いで表記します。

なお、Wikipedia安芸皎一の解説には誤りがあると思います。

「1930年省鬼怒川改修事務所所属鎌庭工場主任配属、技師青山士の指導を受け、ダム建設と鎌庭捷水路開削に携わる。」とありますが、篠原修は、安芸は、「昭和2年(1927)に現場の鬼怒川工事事務所勤務となる。」(「河川工学者三代は河川をどう見てきたか」p72)と書いています。

どちらが正しいのか分からないのですが、直感的には篠原説が正しいと思います。安芸は、1928年着工の鎌庭捷水路の設計に関わったと思いますし、「鬼怒川改修事務所」という役所があったのかも疑問です。

●捷水路は下流の水位を上げることを知っていた

安芸は、p119で次のように書いています。

一般に捷水路は直ぐ上流側の水位を下げるのに役立つのみで、その下流側では水位を上げる場合が多かった。これらの事情の許されるときにのみ捷水路は計画されたのである。

つまり、安芸は、屈曲部とその上流で水害が減るとしても、捷水路の下流で水位が上がることを承知の上で仕事をしていたということです。

安芸は、鬼怒川は、「これらの事情の許されるとき」、つまり、下流の水位が上がることが許される場合に当たると考えていたということです。

しかし、鎌庭の下流がなぜ水位が上がることが許されるのかは書かれていません。

●エドガー・ジャドウィン報告書の記述

安芸は、おそらくは1928年に書かれた陸軍工兵隊の技術者長エドガー・ジャドウィンによるミシシッピ河の洪水制御計画に関する報告書を次のように引用します。

1927年のミシシッピ河の洪水に基づき改訂された洪水調節計画に関するJadwin報告においては"人為的あるいは自然的に造られた捷水路はその点の流路を短縮し、勾配及び流速を増加するから局部的には水位を下げる。しかしながら、流速の増加は直ちに河岸の浸食を起こす原因となる。
人為的に掘るとすれば、その方法は確実性に乏しく、覚束ないからその採用は保証できない。
現在河岸は流路短縮により必要となる範囲の護岸を施設していないし、将来もなかなか行われないであろう。
また、堤防の高さはいまだ不足しているが、河の現在の形に順応して現存している。
捷水路のためには耕作地を失うことになり、河岸の都市においては陸揚げ場が遮断される。一般に現在の形で河を維持する方針を墨守するがよい"と主張されて捷水路は特に設けないことにしていたのである。一般に捷水路はこのように考えられていた。


●捷水路に関する考え方の推移が不可解だ

アメリカ合州国における捷水路に関する考え方の推移は、次のとおりだと書かれています。ただし、「河相論」に書かれていないことを括弧書きで補足します。

1861年のHumphrey及びAbottの報告には「捷水路によって流路を短縮すれば捷水路の上流では水位が低下し、下流では永久に水位の上昇を来すであろう。」という趣旨が書かれており、ミシシッピ河では、この工法による改修は禁ぜられていた。
1927年にミシシッピ大洪水発生。
(1928年5月、合州国議会がミシシッピ河の洪水制御計画を可決。出典:wikipedia「エドガー・ジャドウィン」
上記計画に関するJadwin報告書において捷水路は特に設けないことにしていた。
1929年Vicksburgに水理試験所が設けられ、模型実験を計画。
1930年までに、河道を矯正し、これを安定せしめようという案が考えられるようになった。
1930年、捷水路を設けると同時に掘削を行い、河道の法線、幅員、水深の改良を併せ施工する時は初期の目的を達し得られるとの考えを陸軍工兵隊のBoard of Engineers for Rivers and HarboursとChief of Engineersが承認した。
1931年にはミシシッピ河Greenville湾曲部の模型を作って捷水路の影響を調査した。
1932年からミシシッピ河で捷水路工事が実施された。

19世紀から捷水路は下流の水位が上がるという理由でミシシッピ河では施工されておらず、1927年に発生したミシシッピ大洪水を踏まえて合州国議会が1928年に可決した洪水制御計画の基礎となる報告書に捷水路を設けないと書いてあるのですが、そのわずか2年後には、模型実験による捷水路の影響調査も始まらないまま、「河川及び港湾の米国技術委員会」などが、捷水路が有効であるとの考えを条件付きで承認してしまったというのですから、結論ありきの決定だったと思います。

●陸軍工兵隊の方針転換はエドガー・ジャドウィンの引退直後だった

Wikipediaでエドガー・ジャドウィンを調べると、奇妙なことに気がつきます。

ジャドウィンは定年退職の翌年の1931年に65歳で亡くなりました。その5年前の1926年から1929年まで4年間、陸軍工兵隊のチーフオブエンジニアズ(「技術者長」と自動翻訳されています。)を務めました。

その頃の出来事を時系列で並べてみます。

1926年:ジャドウィンが技術者長に就任。
1927年:ミシシッピ大洪水発生。
1928年:ジャドウィンが捷水路を設置しないとする報告書を作成。
1928年5月:ミシシッピ河の洪水制御計画を可決。
1929年8月:ジャドウィンが64歳で引退。
1929年10月:世界大恐慌始まる。
1930年:「河川及び港湾の米国技術委員会」とジャドウィンの後任の「技術者長」が捷水路設置案を承認。
1931年3月2日:ジャドウィンが死去。

要するに、捷水路反対派のジャドウィンが1929年8月に引退した翌年に後任の技術者長が方針を覆してしまうのですから、やることが露骨です。

ミシシッピ河に捷水路を設置するかは当時重要問題だったはずです。

この重要問題に関するジャドウィンの考え方が引退直後に後輩たちによって否定されたことは彼にとって衝撃的な事件だったと考えられ、そうだとすると、彼は怒りや失意のうちに亡くなったのではないでしょうか。

1929年10月に世界大恐慌始まったことと方針転換が関係あるのかは分かりませんが、捷水路を設置すれば雇用が創出されることは確かです。

●ジャドウィン報告書に関する末次説は「河相論」と矛盾する

建設省土木研究所の末次忠司が土木学会発行の土木史研究1995年6月号にアメリカにおける洪水防御施策の展開(1)―1936年洪水防御法までの連邦政府の治水理念とその展開―という論文を書いています。

そのp114には、次のように書かれています。

1928年(略):洪水防御法に基づいて、工兵隊がM R&T(いわゆるJadwin計画)を開始した。このプロジェクトでは14箇所のショートカットや放水路の建設を含めた下流域の改善計画がたてられた。

これでは、Jadwinがショートカットを容認していたことになり、「河相論」の記述と矛盾します。どちらが正しいのやら分かりませんが、私は「河相論」の記述を基礎として書いています。

●日本の河川行政はもっと不可解

鬼怒川の鎌庭捷水路は1928年2月着工、1935年3月完成です(p125)。アメリカが捷水路設置に方針転換する1930年の2年前に着工しているのですから、日本の河川技術者は、アメリカの河川技術を調査・研究しているようなふりをして、実際は独自に判断していた、あるいはアメリカの動きを先取りしていたと思われ、したたかです。

●鎌庭捷水路を設けた理由

鎌庭捷水路を設けた理由について安芸は次のように書いています。

内務省直轄施工の鬼怒川改修工事では茨城県結城郡大形村鎌庭地先に捷水路を設けた。
この地点は利根川合流点から上流約25kmから30kmにわたる区間であって、河道の屈曲甚だしく洪水の疎通に著しい支障を来すとともに湾曲部凹岸は流水の激衝を受け、往時からその護岸施設に苦しみ、明治初年にはオランダ人技師により護岸が施工せられたが、粗朶沈床を用いた水制は効果がなかった。
その後茨城県では種々な工法を考案してようやく維持してきたのである。


●自画自賛

鎌庭捷水路完成から3年後の1938年9月に大出水があり、安芸は次のように自画自賛します。

鎌庭捷水路流末から旧河道に逆流した推移は往年の難所屈曲部凹岸の宗道河岸において旧堤天端から約35cmに達しており、もし捷水路ができていなかったならば、あるいは悲惨な災害を引き起こしたのではないかと思われた。

なるほど、鎌庭捷水路ができたために、大洪水が起きても宗道河岸からの氾濫はなくなったかもしれませんが、氾濫箇所を下流に移しただけだとしたら、何のための治水事業だったのか、ということにならないでしょうか。

また、安芸は、1940年まで捷水路の上・下流端及びそれから約3.5km上・下流の上妻及び石下地先に量水標を設けて、水位観測を行うとともに、年1回の横断測量を行ったといいます。

安芸は、p133に次のように書いています。

1938年9月の洪水はほとんど計画高水位に相当するものであったが、これによれば捷水路設置なき場合の予想よりも全般にわたって低く、捷水路の流頭では特に著しく1.07mに達し、上妻でも0.22m低下した。捷水路流末においては0.09m低いのであって、一般に漸次低下の傾向にあることから考えれば、将来はなお低くなるものと推量せられる。とにかく河道の通水能力は全般を通じて良くなっていることが認められる。

土砂の堆積についても「11775m全区間について見れば通水直後に相当量の流送を見て以来2年間は多少土砂堆積の傾向にあったのであるが、1937年以後はだんだん流送量を増加し、1941年7月には単位面積当たり0.31m3が本区域外に流送せられたのである。」(p139)と書いて、問題ないとします。

●鎌庭捷水路の結論

安芸は、鎌庭捷水路の結論として次のように書いています。

これを要するに鬼怒川では捷水路は効果的であった。捷水路上流地区では最初に下流側が著しく洗掘せられたが、その後洗掘は漸次上流に向かって進み、下流側は少々高まってきた。捷水路の下流側地区においては初めその上流端に相当の土砂堆積を見たのであるが、これは漸次低下し、土砂の堆積はあたかも一個の砂丘をなして下流に移動するもののごとく、しかも次第にその高さを減じ、広く分散される傾向が判然と見受けられている。

水面勾配も河床勾配も、ともに漸次以前の状態に復帰しつつあることが了解せられる。図―60に見られるように捷水路上・下流ともに1941年7月の河床勾配は通水以前の状況に酷似している。

最も懸念せられた下流地区の河床上昇も一時的の現象であって、ほとんど旧に近い状態に還りつつあったことが認められる。河道の通水能力は全般を通じて著しく良好になった。

捷水路の上・下流地区の水路の調整工作を施せば、現在見受けられる多少の過少の不整は容易に除去せられるであろう。こうすれば捷水路を設けることにより、上流部の改善は明瞭であるとともに下流部にはほかに悪影響を及ぼさず、洪水流通能力を増大せしめ、全般的に与える効果には著しいものがある。

以上が鎌庭捷水路の総括です。楽観論に基づく自画自賛だと思います。

●捷水路の総括

安芸は、p140以下で捷水路の総括を行っています。重要なので全部を引用します。

【概況】
以上述べてきたミシシッピ河並びに鬼怒川の捷水路は現在のところ、他に支障を及ぼさず、相当効果を挙げており、将来の見通しも良好なるように考えられるが、捷水路には不結果を来した例も多いのである。

普通捷水路を設ける結果は勾配に急になり、流水は加速され、捷水路の上流では水位は低下するが、下流側ではその河道の通水し得る能力以上の水が来るためかえって水位の上昇を来す。また、急勾配となったため上流部で洗掘された土砂はその下流に沈殿し、河床を高め、引いては航行河川では舟航に支障を来した例が多いのである。

他の部分を犠牲にしても、ある特定の場所を救わねばならぬ場合、又は下流地区では仮に水位の上昇を来しても特別に支障のない場合に限って捷水路は設けるべきものと言われてきた。

一般に河川はその河道の延長が河状に相応するよう適当に定められ、適切な流れの条件が具備せられた時に安定となり、洪水の快流に資することができるのであって、もし河川が比較的に安定しているとすれば、一度これを破壊した場合には相当長期間にわたって支障を来すことは当然であって、捷水路の効果には功罪相半ばするものがあり、その採用に限度のあると言われていることは注意しなければならない。

【捷水路の効果】
ミシシッピ河では捷水路を設けると同時に河道の法線、幅員、水深に留意してこれを適当に保導して行った。ミシシッピ河で捷水路の成功したのはこの補助的の役割が大きな原因の一つとなっていると著者は考える。

これを要するに、捷水路の効果を決定的ならしめる要素は捷水路設置後その下流に流送された土砂をこの部分の河川の掃流力が十分その抵抗に打ち勝って、さらに、下流の広範な区間にこれを搬送し得るや否やというにある。

この場合、重い土砂であるとすると、この堆積は永久的のものとなるかもしれない。こうすれば推移は嵩上し、流水の疎通に支障を来すことになる。

もしも、現在の河道が安定しているーーー土砂の移動が比較的少ないというような場合―――河川ではこの平衡状態を破壊するがごとき工事を施工すると、これが還元することは一般に困難であり、相当な期間を要するが、これが不安定な場合―――土砂の移動、流路の変転を見るような場合―――には河状にいくらかの変化を与えても、なお、流水の力に余裕があり、可及的に早く以前の状態に、即ち、以前の勾配に復帰し得るものである。

捷水路を設ける場合にこれのみでは十分でなく、その場合の河道に適応するように導くところの諸施設を併せ行う必要のあることをミシシッピ河で示唆しているのもこれに基づくものと考えられる。

ミシシッピ河は、相当不安定な河川であって、河床の移動は甚だしいと言われている。

鬼怒川もまた、かなり不安定な河川であって、鬼怒川下流地区では一度出水を見れば、数メートルも洗掘せられるが、出水後にはまたほとんど元に還っていることは、縷縷報告されている。

既に、〔2.5〕で記述したように鬼怒川下流地区は掃流力に比し、河床構成の状態は不安定であって、相当掃流力に余裕あることが推量せられる。

流水は更に流送せられた土砂を下流に搬送し得るものと考えられる。事実はこれに近い結果を与えている。

河川を処理する場合に河相が重大なる関連を持つことは、この場合についても考えられるのである。

捷水路は、その河状を十分認識し、その是正を促進する他の工法を適当に組み合わせ用いることによって初めて全面的に河道を匡整し、水位を低下せしめ、河道の通水能力を増大せしめることができるのであって、十分これらの事情を考慮に入れないと、今まで考えられていたように種々な不結果を招来するおそれがある。

つまりは、捷水路は、不都合な結果をもたらすこともあるが、工法を適当に組み合わせ用いることによって、その欠点をカバーできる、と言いたいのでしょう。

人工捷水路の欠点を承知で建設した以上、そういう結論を言うしかないと思います。

問題なのは、ミシシッピ河では人工捷水路が成功したと安芸が考えている点です。

ミシシッピ 河では、1927年の大洪水の後も大水害が起きています。1937年、1965年、1973年、1983年、1993年、2008年、2011年、2015年、2019年に大水がありました。

これでも捷水路が成功したと言えるのでしょうか。

●河川には必要な長さがある?

安芸は、「河相論」p119に次のように書きます。

これらの河川においては、蛇行の程度が進むと自然に短縮せられ、直行するが、かくすれば水面勾配は急となり、したがって、流速は増加し、上流部の土砂は洗掘せられ、流道土にてその下流に堆積せられる。

また、これによる偏流の結果は欠け込みを生じ、更に新たなる湾曲を来すのである。

ミシシッピ河における例によると、1876年にVicksburgで捷水路を設けて流路を11km短縮したが、1892年に測量したところによれば、これを中心として83kmにわたり7kmの増加を見ている。

ミシシッピ河下流区間においては、ここ150年の間に、精確な記録によれば、20個の捷水路ができて、228マイル(約367km――引用者注)流送を短縮したのであるが、河は事実新しい屈曲を起こして失った延長を回復している。

つまりは、川が流れるには、一定の長さが必要だということだと思います。

「平成27年9月洪水における鬼怒川下流区間の 流下能力,河道貯留及び河道安定性の検討」( 福岡 捷二・田端 幸輔・出口 桂輔)のp374には、下図が示されています。

鬼怒川の40kより下流の流路は、点線のように曲がりくねっていたというのですから、鬼怒川が流れるには、それだけの長さが必要であり、河道を直線的にして短縮したことにそもそも無理があったと見ることも可能だと思います。

計画規模以下の洪水を直線的な河道に押し込めて、計画規模を超える洪水が発生したら、土の堤防の決壊を甘受するしかない、という治水政策はいい加減やめるべきだという考え方は昔からあり、建設省が「耐越水堤防」(容易には決壊しない堤防。「難破堤堤防」と呼ぶ人もいる。)を1975年から1984年にかけて研究・開発し、1980年代の後半から全国9河川で実際に施工し、2000年3月には、耐越水堤防の普及を図る「河川堤防設計指針(第3稿)」を地方建設局等に通知しましたが、2001年12月9日から開催された熊本県主催の川辺川ダム住民討論集会において「耐越水堤防を整備すれば川辺川ダムは治水上不要になる」との意見が住民から出ると、国土交通省は2002年7月に同指針を廃止し、耐越水堤防をお蔵入りさせました(詳しくは国土交通省は堤防強化策を抹殺したを参照)。

鬼怒川下流区間の変遷

●捷水路が脆弱な区間をつくったという説あり

土屋十圀・前橋工科大学名誉教授(2016年当時中央大学理工学研究所)は、「2015年9月鬼怒川水害の要因に関する考察」自然災害科学J.JSNDS35特別号1−13(2016))のp8〜10に次のように書いています。(ちなみに、鬼怒川大水害の要因を正面から取り上げた論文はほかにないように思います。)

以上の検討結果から1935年の捷水路工事により,河床勾配が2 倍以上に急こう配となり,河床 勾配の緩くなる下流の三坂地点では急速に掃流力が低下し,下流の水海道地点までは河道の貯留効果は発揮されるが,洪水疎通能力が低下しているものと推察することができる。 また,鬼怒川の河道形態に関して掃流力などを 検討した泉・井口の研究でも同様な見解が述べられている。その解析事例を図 9 に示した。

Unit stream power: ω と掃流力:τ は30 k〜21 k にかけて急激に低減し,三坂地点が最小値の掃流力を示している。このように河川縦断構造上,過去の捷水路工事によって上流の洪水流を早めることに なったが,三坂地点は貯留しやすくなる構造になったものと考えられる。したがって,計画規模を上回る大洪水時には鎌庭下流の若宮戸から三坂地点では大規模な溢水が集中する脆弱性をもった箇所であったと考えられる。

即ち,捷水路の上流端から3.5 km 上流の 上妻量水標は 6 年後にマイナス0.51 m 水位低下を招き,下流端の皆葉量水標より3.2 km 下流の石下量水標(三坂地点付近)地点の水位は徐々に上昇し, 6 年後に+0.31 m の上昇になったことが(「河相論」にーー引用者注)記述されている。 また,捷水路区間は砂川河床のため洗掘が激しく,昭和26,27年度には各々鎌庭第一床止(26.68 k),第二床止(27.75 k)の工事が行われた。 昭和41年度には台風により床止め工が破壊されたため低水路幅60 m を110 m に拡幅し,護岸基礎鋼矢板 7 m の設置,法覆工,根固工,粗朶沈床工など全面工事が行われている。

平成 3 年には石下床止(22.84 k)も追加工事が行われた。このように捷水路設置は80年後の今日まで長期にわたり治水技術の課題をもたらしている。

「掃流力」とは、水が砂を流す力のことのようです。「三坂地点が最小値の掃流力を示している。」ということは、三坂町地点で最も水がたまりやすくなっているということでしょう。

そうだとすると、三坂町地点で堤防が決壊する必然性はあったことになります。

●三坂町堤防のパイピングは2箇所だった

下の写真は、2015年9月15日に撮ったドローン映像からの切り出しです。

三坂町地先の堤防決壊箇所を下流に向かって撮っています。

決壊地点

決壊地点

この画像で注目したいのが、赤丸でマークした2箇所です。

この角度からは見えませんが、下流側(画面上側)の穴にもブルーシートが当ててあります。

それらの穴から大量の砂がよだれのように流れ出て、事故後の核発電所のデブリのようです。

その「砂よだれ」ないしは「砂デブリ」の幅は、大型トラックの全長(約12m)を遥かに超えているので、堤防の下を通っていた穴は、小さな穴ではありません。

この現象は、常総市三坂町地先での砂利採取で堤防が危険になった(鬼怒川大水害)でもグーグルアースの衛星写真を使って、「逆噴砂」と銘打って紹介しました。

そこでは撮影時期が遅いせいか1箇所しか穴が見えませんでしたが、9月15日時点までは、その上流にもう1箇所穴が空いていたことが初めて分かりました。

sumisumiというサイトの鬼怒川を行くというページでも下流側の穴が紹介されていて、「川の水が引いた後に堤内側からの逆浸透でパイピングし、上のシルト層の板が崩落した跡」だと解説しています。

要するに、三坂町地先の堤防決壊部分で2箇所において、堤外と堤内が穴でつながっていたということですから、決壊に関わっていた事象と思われますが、鬼怒川堤防調査委員会報告書は一切触れていないのですから、同報告書は通り一遍のものと考えてよいと思います。

短いですが、2015年9月18日に撮った堤内側のドローン映像も載せておきます。

(文責:事務局)
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