下野新聞社が脱核発電に転向

2011年4月30日

●下野新聞社の考え方の変遷

核発電に対する下野新聞社の考え方は、変わってきたように思います。

原発を宣伝する下野新聞で書いたように、下野新聞社は、2010年1月27日付けで原子力発電環境整備機構(NUMO)とのタイアップ記事を載せています。

タイアップ記事の意味については、ヤフー知恵袋のタイアップ記事と純広告の意味がよくわかりません。やBest Of University Facebook Notesというサイトの「原発広告とメディアの関係」というページが参考になると思います。

下野新聞社は、2010年には、各発電に関する「安全神話」を振りまいていたと言えると思います。

東日本大震災直後は、大震災で何が分かるかで紹介したように、「日本の電力業界はこうした事態に至った事実を率直に受け止め、津波への対応を含め、今後の災害の想定と事故対策を根本的に練り直す必要がある。」(3月15日付け1面の解説)と書きました。

この解説は、核発電をやめないことを前提としています。

ところが、4月29日付け下野に「小水力発電、リーダー役に」という題の論説記事が載りました。

そこには次のように書かれています。

東日本大震災からあすで50日となるが、福島第1原発はいまだに生業かに置かれたとは言い難い。何とか小康状態を保っているとはいえ、高濃度汚染水の影響もあり、根本的な解決には至っていない。
(中略)
人間の作った物は、自然の脅威の前ではなすすべもないことが震災で明らかとなった。今後もマグニチュード8クラスの余震がいつ発生してもおかしくないという。その時原発が健全である保証はない。人間が制御できなくなる可能性がある物を「文明の利器」とは呼べない。

この論説は、核をエネルギーとして使うことが無理だということが明らかになったということを言っています。

この論説が出るまでには、社内で相当議論したのだと思います。

当然のことに気がついてくれて良かったと思います。

「事故から昨日で二十五年の時が流れたが、なおも原発の半径三十キロ圏には人が住めない。無論、人々の健康被害も続く(中略)こんなペルシャの諺(ことわざ)が、頭を離れない。<閉められない扉は、開けてはいけない>」(2011年4月27日付け東京新聞コラム)のです。

●東京新聞も変遷

2011年3月26日付け東京新聞のコラム「筆洗」には、「だが、われわれマスコミを含め社会はそれ(警告)より、政府や電力事業者の言う「万が一の場合にも安全」を信じた。信じてしまった。結果は現状の通りだ」と書かれています。

ここには、電力事業者にだまされたことへの反省はあっても、読者をだましたことへの反省はありません。

このことについては、阿修羅のわれわれマスコミを含め社会は・・・「万が一の場合にも安全」を信じた (東京新聞コラム「筆洗」)---見逃せない論調ですが細かく分析して欺まんを指摘していますので、参考にしてください。

ところが、東京新聞の立場は、「マスメディアとして、原発の『安全神話』をつくることに加担した責任を自らの手で問い直さなくてはならない。新聞の再生はそこから始まるのだと思う」(東京新聞4月7日付け1面コラム「筆洗」)と変わってきました。

ブログで採り上げている人も多いので紹介します。
小笠原信之のコラムログ「閑居愚考」, 阿智胡地亭の非日乗

しかし、コラムの「新聞の再生はそこから始まるのだと思う」は、ちょっとおかしいと思います。似たような話は昔からあります。先の大戦のときに、大本営発表を垂れ流して国民を洗脳したことについてメディアは反省したのではないでしょうか。

マスメディアが営利企業である以上、広告主の利益に反するような報道はできないのだとすれば、上記反省は何度も繰り返すことになります。

●情けない核発電推進派芸能人たち

東京新聞の時事川柳欄には、「原発を薦めたタレント知らん顔」という川柳が載ったそうです。

日刊サンゾーに"原発擁護"芸能人に強まる風当たり インテリ芸人・水道橋博士はどう動く?という記事が載っています。

まず驚くのは、浅草キッドの「水道橋博士は2009年に「アエラ」(朝日新聞出版)で浜岡原発を見学PRしており、さらに東日本大震災直前にも「週刊現代」(講談社)で2週にわたり柏崎刈羽原発で安全をPRするタイアップ記事に登場しているのだ。」と書かれていることです。

「週刊ポスト」が核汚染なんて大したことないという立場なのと対照的に、「アエラ」も「週刊現代」も、新聞広告を見る限り核発電に反対かと思い込んでいましたが、2009年には「安全神話」に加担していたようなのです。

週刊誌にとっても新聞社にとっても電力業界からの広告依頼は甘い蜜なのでしょう。これでは、核発電の危険性に警鐘を鳴らすマスコミなどいないはずです。

実際、電力会社はマスコミ関係者を旅行などで接待していたようです。渡邉正次郎 NewsTodayというサイトの東電醜聞告発は事実だった!中国ツアー「大手マスコミ接待リスト」を入手!に週刊文春の記事が引用されています。

そして、週刊文春は、「自戒を込めて言おう。当たり前のような接待によって、原子力行政を監視するメディアの目に緩みはなかったか」という文章で記事を締めくくっているそうです。

で、本題ですが、インテリ芸人という評価のあった水道橋博士が核発電所の事故発生後は、うろたえるだけで、「原発に対する批判は一切ない」のだそうです。かといって弁解するわけでもないようです。

「原発事故にオロオロし、家族を西へと疎開させるに至ってしまうのだ。もちろん小さな子どもがいるのだから、こうした判断も当然だ。だが、直前に「原発は大丈夫」と言った自身の言動への自己批判、いや言及さえ一切ないのはいかがなものか。」というのが、記事を書いた神林広恵さんの意見です。

核発電推進に手を貸した芸能人等は「石原良純、星野仙一、弘兼憲史、茂木健一郎ら」と「勝間和代」だそうです。学者では吉村作治もいました。

ちなみに上記「原発広告とメディアの関係」というページでは、「タイアップの誌面ではスーツを着込んでかしこまった(浅草キッドの)二人が、柏崎原発の所長を相手にヨイショをしまくっており、また水道橋博士は「ボクは原発については危険だと思っていたけど、今日見て安心しました、、、」というようなことも言ってい」たそうです。

水道橋氏は、国民に対して核発電所安心をPRしたのですから、事故があっても子供を嫁の実家の岡山に疎開させちゃダメでしょう。

悪魔に魂を売り渡した芸能人は、核汚染を率先して浴びてほしいと思います。

●朝日新聞にだまされるな

4月22日付け朝日の経済欄に「経済気象台」という記事があり、安曇野というペンネームで次のように書かれています。

核発電反対論者には、「代替の電力エネルギーをどうするか」の議論と「(核発電も化石燃料も使えないと供給不足になるので)電力需要をどう抑制するか」の視点が欠けているというのです。

代替の電力エネルギーについては、4月27日付け東京新聞コラムを見てください。

「電力源としての原発依存は「現実的選択」だという言い方がある。では、この「現実」はどうか。米シンクタンクによれば、世界の発電容量は昨年、初めて風力や太陽光、小規模水力などの再生可能エネルギーが、原発を上回った▼その差は一層開いていくと研究機関はみる。」と書かれています。

私は、代替の電力エネルギーは、当面、化石燃料でもいいと思っています。核燃料も化石燃料もどちらも環境に損害を与えますが、化石より核の方がましだという証拠はないと思うからです。

安曇野氏は、化石燃料に依存したら「地球温暖化はどうなるのかに、(核反対論者から)まともな返事は聞こえてこない。」と書きますが、核発電所に事故が起きた場合の地球環境汚染についてどうなるのかについてまともな返事はしていません。

安曇野氏の論法は、ダムを巡る議論でも見られるご都合主義です。福田富一・栃木県知事は、3ダム訴訟の中で、地下水汚染も想定してダム事業に参画するのだと言いますが、表流水汚染は想定していません。ご都合主義です。

安曇野氏の主張は、核発電は化石燃料と違い、地球温暖化に影響を与えないクリーンなエネルギーであることを前提にしていますが、そのような前提が成り立たないことは、2009年4月30日付け赤旗の「原発 温室ガス/「ゼロ」じゃない/年82万トン 運輸・郵便部門に迫る/政府・財界の"推進宣伝"はごまかし/政府資料で明らかに」を引用して何度も書いたとおりです。

そもそもCO2の量が原因で地球が温暖化するという説が正しいという前提で議論されていますが、この説にも疑問があります。

脱・脱核発電の流れを作った"功労者"である元米副大統領のアル・ゴア氏は、核発電利権に染まっていたという情報(2008年8月15日号週刊朝日p22以下の「ゴア元副大統領と「原発利権」」)もあります。詳しくは、過去記事国(国土交通省)にだまされてはいけないの「アル・ゴアにとって不都合な真実とは原子力産業とのつながりだった」の項目をご覧ください。

いずれにせよ安曇野氏には、どちらが有害か、どちらがましか、という視点が欠けています。

次に、電力需要の抑制については、安曇野氏は、核発電がなければ供給不足になることを前提に、「おそらく便利になりすぎた日常生活を、30〜40年ほど前に戻すぐらいの覚悟がないと原発反対に現実味がないのだ。」と書きます。

核発電所がなくても電力は足りるで紹介した「原発ないなら発電量3割減」、「発電量の3割近くを賄う原子力発電。それがないとしたら、どんな生活になるのだろうか。」、「原発がすべて止まってしまうと、供給不足は免れない。電力量が30%少なかった時代といえば、1980年代後半に遡る」(いずれも4月14日付け読売)という読売記事と同様の脅迫です。

しかし、「核発電所がなくても電力は足りる」に書いたように、「原発ないなら発電量3割減」という前提が成り立ちません。また、核発電もCO2を多量に排出する産業なのですから、核は使っていいが化石燃料だけを使うなという主張に根拠はありません。

したがって、核発電をやめるなら、「便利になりすぎた日常生活を、30〜40年ほど前に戻すぐらいの覚悟がないと」という主張は成り立ちません。

確かに「便利になりすぎた日常生活を」見直した方がいいとは思いますが。パチンコや自動販売機が日本の文化とは思えないという某知事の主張にも一理あると思います。

大企業が輪番で電力使うことを話合い、ピークを下げる方法もあるでしょう。

以上を要するに安曇野氏は、成り立たない前提で議論するという詭弁を使っていますので、だまされないように注意しましょう。

(文責:事務局)
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