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「住民は責任をとるのか」に反論する

2005-12-27

●ダム官僚の発言  

2005年12月3日に日本弁護士連合会(公害対策・環境保全委員会が担当)が「河川管理と住民参加」をテーマに大阪市内の大阪弁護士会館内でシンポジウムを開催しました。  

シンポジウムに出席した竹村公太郎氏(立命館大学客員教授・元河川局長)は、「住民の意見を反映させようとするのは良い。けれどやはり河川管理者が決めるしかない。『住民が決める』では、被害があったときにだれが責任をとるのだ?」(徳山ダム建設中止を求める会・事務局 近藤ゆり子氏による。)と発言したそうです。  

ジャーナリストのまさのあつこ氏は、竹村氏の発言を「(基本高水流量(ダム等がない場合に想定される流量)などを)住民が決定していいと言うが、被害が出た場合、訴訟はどこへいくか?法的な責任はどこが負うか。多摩川水害訴訟で国は負けた。敗訴の理由は固定堰を放置したということだった。」とブログ「ダム日記2 河川法を改正しようヨ by まさのあつこ 」に記しており、「週刊金曜日」2005年12月16日号p6では「住民が決めた結果、洪水になった場合、訴えられるのは国や県だ」とも表現しています。

(「多摩川水害訴訟」とは、1974年の台風16号がもたらした大降雨による、東京都狛江市内の二ヶ領宿河原堰で起きた大水害(狛江水害 (こまえすいがい))の被害者33名が1976年に国を相手として起こした損害賠償請求訴訟。堰に激流がぶつかって発生した迂回流により堤防が決壊したことの責任が問われた。1992年12月に住民側の勝訴が確定した。)  

また、国土交通省の布村明彦河川計画課長は「住民を無視してはいない。ただ基本高水は災害に直結する。国は国民を守らねばならず、国が決める項目、役割がある」(熊本日日新聞2005年12月19日朝刊)と発言したそうです。  

ダムなどの河川工事を生業としている官僚は、ダム反対派と対決するときに、「ダム反対派は水害が起きたら責任をとるのか」という台詞をよく使います。  

そう言えば、1999年ごろに建設省から栃木県土木部河川課長として出向してきた高柳淳二という人も下野新聞社からのインタビューで同様の発言をしており、上記の台詞はダム官僚が愛用していると見て間違いないと思います。  

この台詞は、瞬間的に反論されることがなく、ダム反対派を黙らせるのに結構有効だったからこそ、愛用されてきたのだと思います。  

なぜ有効だったのでしょうか。

● 竹村発言などから導かれる二つの誤解

「(基本高水などを)住民が決定していいと言うが、被害が出た場合、訴訟はどこへいくか?法的な責任はどこが負うか。」とか「ダム反対派は水害が起きたら責任をとるのか」という発言を聞くと二つの誤解をしてしまいがちです。  

一つは、「水害が起きたら官僚が責任をとる」という誤解です。  

もう一つは、「官僚が治水計画を決定すれば水害が起きない、あるいは著しく減少する」という誤解です。

● 官僚は責任をとっていない  

官僚はこれまでに水害の責任をとったことがないと思います。  

「多摩川水害訴訟で国は負けた」ことをもって官僚が責任をとったかのように竹村氏は言いますが、そう言えるのでしょうか。水害の被害者に損害賠償金を支払ったのは納税者であり、公務員の給料から支払ったわけではありません。  

では、水害の責任者が行政組織内部で責任を問われ、免職や降格、減給などの懲戒処分されたのかと言えば、訴訟をやっている間に異動や退職をしたりして、結局だれも処分されていないのではないでしょうか。  

竹村氏の言いたいことは、「訴訟に負ければ、行政が恥をかかされた」という程度のことで、官僚にとっては痛くもかゆくもありません。敗訴すれば、財政当局に対して河川工事費の予算要求がしやすくなり、かえって好都合と考えているはずです。  

河川行政にかかわる官僚が責任をとった例など皆無ではないでしょうか。 「水害が起きたら官僚が責任をとる」は、誤解です。

●竹村氏はなぜ水害が起きたのか分かっていない  

ちなみに、狛江水害は、固定堰を放置したことにより損害が発生したのであり、治水計画規模を大きくし、基本高水流量を大きく設定し、上流にダムをたくさんつくっても防げなかったでしょうから、「基本高水流量の決定過程に住民参加は不要」とする根拠として「多摩川水害訴訟で行政が責任をとらされたこと」を挙げるのは筋違いでしょう。

● 竹村氏はなぜ国が敗訴したのか分かっていない

多摩川水害訴訟で国が敗訴したのは、やればできることをやっていなかったからです。やるべきことをやっていれば責任を負いません。最高裁判所は、政府が利根川の上流に巨大ダムを十数基も建設するという、どうやってもできもしないことをやらなかったから責任を負わせたのではないのですが、そこのところを竹村氏は分かっていないように思います。分かっていれば、河川整備基本方針から住民参加を排除する根拠として多摩川水害訴訟の例を挙げなかったと思われるからです。

● 官僚が決めても水害は起きる

現在でも住民参加による河川行政はなされていない状況にあります。 これまで、官僚に任せて治水計画規模を大きくし、基本高水流量を高く設定し、狭い日本に2千数百ものダムを建設してきましたが、水害は減っていませんし、減った地域があるとしても森林の保水力が高まったせいかもしれませんので、ダムとの因果関係は証明が困難です。熊本県球磨川の市房ダムのように、ダムを建設したためにかえって水害が増えた河川もあります。もちろん官僚は責任をとっていません。

「官僚が治水計画を決定すれば水害が起きない、あるいは著しく減少する」も誤解です。

●住民だって責任をとっている

官僚が水害訴訟で敗訴することをもって責任をとったと言うのなら、住民だって責任をとっていることになると思います。

川のそばに住んでいる人たちは、ある程度の水害に遭う覚悟をして住んでいるはずですから、それなりの責任をとっていることになると思います。

川のそばに住んでいない人はどうかと言えば、水害訴訟で行政が敗訴すれば、納税者が賠償金を支払うという構図が変わらない以上、賠償金の額が増えれば福祉や教育に回す予算が減るわけですから、責任をとっていることになると思います。

● 権限なければ責任なし

官僚にとって「責任を問われないこと」がそれほど重要であるなら、住民参加を促進し、河川の在り方を住民に決めてもらうことが最善の策です。そうすれば、「住民が自らお決めになったことですから、私たちは責任を負えません。」と言えるはずです。権限のないところに責任はないのですから。

ダム官僚も権限を持つ以上、責任を負わなければならないことは分かっているから、責任を負うかのような発言をするのでしょう。

●パターナリズムと自己責任論の使い分けはご都合主義

「それでは国民を守る立場の官僚の責任放棄だ」という反論が出るでしょう。 布村課長は、「国は国民を守らねばならず、国が決める項目、役割がある」と言います。ここで「国」とは政府を指すのでしょう。国家権力を掌握している優秀な人たちが弱くて愚かな国民を守ってやらなければならないという思想で、パターナリズムの典型です。権力の淵源が民意であるなら、行政の守備範囲も民意で決めるのが筋です。

国民は政府に「日本のすべての川を水害のない川にしてくれ」と頼んだ覚えはありません。  

政府の方針が、イラクに行った民間人が殺されるときは「自己責任」なのに、流域住民の意思を無視してまでも「流域住民の命と財産を守ってやる」と言い張るのであれば、ご都合主義というものです。  

官僚の言う「国民を守る」は、真意でしょうか。

● 「国民を守る」は信用できない

布村課長は、国民を守りたいから基本高水流量を高く設定し、ダムをたくさん造りたい、官僚に権限を与えろと言いたいようですが、ダム関連の法人や企業に官僚が天下りして稼ぎまくる構図がある限り、「国民を守りたいから」という言い訳は通用しません。「国民を守りたいから」という台詞は、天下りを根絶してから言うべきです。

●「治水は行政に任せろ」は自民党政治と矛盾する

少なくとも現在の自民党・公明党連立政権は、「官から民へ」とか「小さな政府」と言っています。

官僚が治水計画の根幹部分は住民に触らせないという発想は、こうした流れに逆行します。小さな政府を目指すのなら、治水は流域住民の意思に従えばよいはずです。建築確認業務まで公務員がやる必要がないというのが自民党政治なのですから。

小さな政府を目指すと言いながら、ダム利権という既得権益に一切手をつけようとしない小泉改革は、やはりインチキと言うほかありません。

● 官僚は環境破壊の責任をとるのか

ダムには環境破壊という大きな弊害が伴うことが分かっています。ダム建設により生物種の絶滅などの環境破壊という回復不可能な損害を招いた場合に、官僚や政治家はどのような責任をとるのでしょうか。損害が発生したときには現役を退いており、結局、だれも責任をとらないのではないでしょうか。

●おさらい  

ダム官僚が「(治水計画規模や基本高水流量を低く設定し、ダムを造らないで)水害が起きたら、ダム反対派は責任をとるのか」という攻撃をしてきたら、「官僚の思いどおりに河川工事をして、水害や環境破壊が起きたら責任をとるのか、これまでにとったことがあるのか、水害訴訟で敗訴することが責任をとったことになるのか」と反論しませんか。

● ダム官僚に欠落しているもの

ちなみに、ダム官僚には、「環境」「生物多様性」「主権在民」「自治」「費用対効果」「経済性」という発想が欠落しているように思います。  

ダム建設に当たっては、様々な角度からの比較考量が必要なはずですが、ダム官僚は、治水や利水という目的しか考えないから、ダムは大きい方がいいという発想しかできないのだと思います。  

だから、「環境」という要請は「多自然型工法」の問題にすり替えてしまい、「主権在民」は御用審議会を設置して御用学者の意見を聞いておしまいにするし、「費用対効果」については左岸と右岸が同時に破堤するというような現実には起こりえないような洪水を想定して「効果あり」ということにしてしまいます。  

困ったものですが、官僚が心を入れ替えることがあり得ない以上、いちいち住民が反論していくしか手はなさそうです。

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